言葉では言い尽くせない贈り物 2019年6月02日(日曜 朝の礼拝)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

聖句のアイコン聖書の言葉

9:8 神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。
9:9 「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」と書いてあるとおりです。
9:10 種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。
9:11 あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。
9:12 なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。
9:13 この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。
9:14 更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。
9:15 言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。
コリントの信徒への手紙二 9章8節~15節

原稿のアイコンメッセージ

 前回学んだ7節にこう記されていました。「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです」。ここには、献金についての大切な教えが記されています。私たちは、献金を、いやいやながらではなく、誰かに強制されてでもなく、自分でこうしようと心に決めたとおりにささげるべきであるのです。それは私たちが喜んで神様にささげるためであります。自由と喜びは一組でありまして、私たちは各自でこうしようと心に決めたとおりに、喜んでささげるべきであるのです。そして、そのような私たちを、神様は愛してくださるのです。

 今朝の御言葉はこの続きであります。

1 善い業に満ちあふれるように

 8節から10節までをお読みします。

 神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」と書いてあるとおりです。種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。

 パウロは、6節で、エルサレム教会への献金、エルサレム教会の貧しい人々への施しを、種蒔きと収穫に譬えていました。「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです」。前回も申しましたが、ここで「豊か」と訳されている言葉は「祝福」とも訳せる言葉(ユーロギア)です。祝福をもって蒔く人は、祝福のうちに刈り取ることになるのです。なぜ、そのように言い切ることができるのでしょうか。それは、神様が、いつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みを私たちに与えることができる御方であるからです。「あらゆる善い業」とありますが、その代表的なものが、貧しい人への施しであります(9節参照)。神様は、御自分の民であるイスラエルに、貧しい人に施すことを命じられました。旧約の申命記15章7節から11節までをお読みします。旧約の305ページです。

 あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。「七年目の負債免除の年が近づいた」と、よこしまな考えを持って、貧しい同胞を見捨て物を断ることのないように注意しなさい。その同胞があなたを主に訴えるならば、あなたは罪に問われよう。彼に必ず与えなさい。また与えるとき、心に未練があってはならない。このことのために、あなたの神、主はあなたの手の働きをすべて祝福してくださる。この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい。

 10節に、与えるとき、心に未練があってはならないこと。また、このことのために、主があなたの手の働きを祝福してくださることが記されています。主は貧しい人に施すことを命じるだけではなく、施す人の手の業を祝福し、ますます施すことができるようにしてくださるのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の335ページです。

 神様は、私たちがあらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みを満ちあふれさせることがおできになります。パウロは、そのことの証拠聖句として、詩編112編9節の御言葉を引用します。「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」。この所を、口語訳聖書は次のように記しています。「彼は貧しい人たちに散らして与えた。その義は永遠に続くであろう」。この口語訳聖書の方が、元の言葉に近いのです。「彼は貧しい人たちに散らして与えた」。この御言葉の背後にあるのは、ルツ記に記されている落ち穂拾いであると思います。ルツ記を読みますと、ルツがボアズの畑で落ち穂拾いをしたこと。また、ボアズがルツに思いやりを示し、若者に「刈り取った束から穂を抜いて落としておくのだ」と命じたことが記されています。ボアズは大麦をわざと散らすことにより、落ち穂拾いをしているルツに施したのです。そして、このことも主なる神様が命じられたことでありました。レビ記の19章9節、10節をお読みします。旧約の192ページです。

 穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、積み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。

 このように、神様は、貧しい者や寄留者のために、収穫後の落ち穂を拾い集めずに残しておくことを命じておられたのです。このような主の御言葉に従って、「彼は貧しい人たちに散らして与えた」のです。また、そのことは、主のご命令であるゆえに、「その義は永遠に続くであろう」と言われるのです。御自分の御言葉に従って施す者を神は正しい者として受け容れてくださり、報いを与えてくださるのです(箴言19:17も参照)。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の335ページです。

 「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人々に施した。彼の慈しみは永遠に続く」。こう聞きますと、自分の業によって義とされることを教えていると思われるかも知れません。けれども、パウロは種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる神様について記します。私たちに種を与えて、それを増やし、慈しみの実を成長させてくださるのは神様であるのです。私たちは、聖霊なる神様のお働きによって、慈しみの実である施しをすることができるのです。人にほめられるためではなく、隠れたことを見ておられる父に報いていただくために、施しをすることができるのです(マタイ6:4参照)。

2 エルサレム教会への献金の結果

 11節から14節までをお読みします。

 あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、私たちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。更に、彼らはあなたがたに与えられたこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。

 パウロは、コリントの信徒たちの施しが、自分たちを通じて神に対する感謝の念を引き出すと記します。それは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神様に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。感謝して受けた人は、今度は神様の御心に従って与える人となるのです。

 コリントの信徒たちがエルサレムの貧しい人たちに施す結果として、エルサレムの信徒たちは、コリントの信徒たちがキリストの福音の告白に対して従順であることを知るようになります(口語訳、新改訳参照)。ユダヤ人にとって、施しは善い業の最たるものでありました。その施しをコリントの信徒たちから受けることにより、エルサレムの信徒たちは、異邦人である彼らがキリストの福音の告白に対して従順であることを身をもって知ることになるのです。

 また、コリントの信徒たちが惜しまず施しを分けてくれることで、エルサレムの信徒たちは、神様をほめたたえるのです。自分たちの施しによって、神の御名がほめたたえられる。これは、私たちにとって、何よりの喜びであります。なぜなら、私たちは、神様の御言葉に従って、聖霊の結ぶ実として施しをしているからです。パウロは、第一コリント書の10章で「あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」と記しましたが、施しも同じであります。私たちは、施しを神の栄光を現すためにするのです。ですから、施しを受けた人が、神様をほめたたえるならば、それは、私たちの目的が達成されたことになります。私たちが感謝されるよりも神様が感謝されること、私たちがほめたたえられるよりも、神様がほめたたえられることを願う。このように、私たちにとって施しは、神様を礼拝することと結びついているのです。

 更に、コリントの信徒たちの施しは、エルサレムの信徒たちが、彼らに与えられた神様のこの上ない恵みを見て、彼らを慕い、彼らのために祈るようになるのです。パウロは、8章1節で、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて記しました。それと同じ神の恵みを、エルサレムの信徒たちは、あなたがたに見ることになるとパウロは記すのです。そして、エルサレムの信徒たちは、コリントの信徒たちを主にある兄弟姉妹として慕い、彼らのために祈るようになるのです。このように、エルサレム教会への献金は、異邦人教会とユダヤ人教会との間に、祈りの交わりを生み出すことになるのです。

3 言葉では言い尽くせない贈り物

 15節をお読みします。

 言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。

 パウロは、8章と9章に渡って、エルサレム教会への献金について記してきました。その締めくくりとして、神様に対する感謝の言葉を記します。ここでの「言葉では言い尽くせない贈り物」とは何でしょうか。これには、二つの解釈があります。一つの解釈は、これまで記してきた「エルサレム教会への献金」のことです。パウロは、コリントの信徒たちがエルサレム教会への献金を再開し、やり遂げることを確信して、神様に感謝をささげていると解釈することができます。そして、もう一つの解釈は、「御子イエス・キリスト」のことを指しているという解釈です。「言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します」。この「言葉では言い尽くせない贈り物」とは独り子であるイエス・キリストであると解釈するのです(ローマ8:32参照)。この解釈も覚えておいたらよいと思います。私たちは、神様から言葉では言い尽くせない贈り物をいただいているのです。その神様の恵みに感謝をして、私たちは神様の御心に従って、施しをするのです。私たちキリスト者は、言葉では言い尽くせない贈り物に対する神様への感謝から施しをするのです。

関連する説教を探す関連する説教を探す