喜んで与える人を愛する神 2019年5月26日(日曜 朝の礼拝)
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コリントの信徒への手紙二 9章1節~7節
聖書の言葉
9:1 聖なる者たちへの奉仕について、これ以上書く必要はありません。
9:2 わたしはあなたがたの熱意を知っているので、アカイア州では去年から準備ができていると言って、マケドニア州の人々にあなたがたのことを誇りました。あなたがたの熱意は多くの人々を奮い立たせたのです。
9:3 わたしが兄弟たちを派遣するのは、あなたがたのことでわたしたちが抱いている誇りが、この点で無意味なものにならないためです。また、わたしが言ったとおり用意していてもらいたいためです。
9:4 そうでないと、マケドニア州の人々がわたしと共に行って、まだ用意のできていないのを見たら、あなたがたはもちろん、わたしたちも、このように確信しているだけに、恥をかくことになりかねないからです。
9:5 そこで、この兄弟たちに頼んで一足先にそちらに行って、以前あなたがたが約束した贈り物の用意をしてもらうことが必要だと思いました。渋りながらではなく、惜しまず差し出したものとして用意してもらうためです。
9:6 つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。
9:7 各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。コリントの信徒への手紙二 9章1節~7節
メッセージ
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序
パウロは、第8章で、エルサレム教会への献金について記しました。エルサレム教会は、ユダヤ人の教会であり、コリントの教会は異邦人の教会です。パウロは、異邦人の使徒として、異邦人の諸教会から献金を集めて、エルサレム教会に送ることを、エルサレムのおもだった人たちと約束しておりました(ガラテヤ2:10参照)。また、異邦人の諸教会がエルサレム教会のために献金することは、目に見える教会の一致を表すものでありました。エルサレム教会への献金は、コリントの信徒たちの愛の証しであり、また、パウロがコリントの信徒たちに対して抱いている誇りの証しであったのです。その愛と誇りの証である献金を、諸教会の前でテトスと兄弟たちに見せてほしいとパウロは記したのです。
今朝の御言葉はその続きであります。
1 アカイア州の人々の熱意
9章1節から3節までをお読みします。
聖なる者たちへの奉仕について、これ以上書く必要はありません。わたしはあなたがたの熱意を知っているので、アカイア州では去年から準備ができていると言って、マケドニア州の人々にあなたがたのことを誇りました。あなたがたの熱意は多くの人々を奮い立たせたのです。わたしが兄弟たちを派遣するのは、あなたがたのことでわたしたちが抱いている誇りが、この点で無意味なものにならないためです。また、わたしが言ったとおり用意していてもらいたいためです。
「聖なる者たちへの奉仕」とは、エルサレム教会への献金のことです。パウロは、「聖なる者たちへの奉仕について、これ以上書く必要はありません」と記しつつ、なお論述を続けます。アカイア州とはコリントの町のある州の名前です。この手紙は「コリントにある神の教会と、アカイア州の全地方に住むすべての聖なる者たち」に宛てた手紙でありました(1:1)。コリント教会はアカイア州の諸教会の中心的な教会であったのでしょう。コリント教会がエルサレム教会への献金に熱意を抱いたことは、8章10節の後半に記されていました。「あなたがたは、このことを去年から他に先がけて実行したばかりでなく、実行したいと願ってもいました」。このように、コリントの教会はエルサレム教会への献金を去年から他に先がけて実行したばかりでなく、実行したいとも願っていたのです。このことは、第一コリント書で、コリントの信徒たちが、パウロに「聖なる者たちのための募金」について質問していることからも分かります。第一コリント書の第7章以降は、コリント教会からの質問状に答える仕方で記されています。パウロは、コリント教会から「聖なる者たちのための募金について」の質問があったので、そのことを記したのです。アカイア州の人々、コリントの信徒たちは、エルサレム教会のための献金について熱意を抱き、他の教会に先がけて取り組みました。そのことをパウロは、マケドニア州の人々に誇ったと言うのです。マケドニア州の人々とは、具体的には、フィリピやテサロニケやベレアにある教会の信徒たちのことです。パウロは「アカイア州では去年から準備ができている」と言って、マケドニ州の人々にアカイア州の人々のことを誇ったというのです。そして、アカイア州の人々の熱意によって、マケドニア州の多くの人々は奮い立ってエルサレム教会への献金に取り組んだというのです。パウロは、第8章で、エルサレム教会への献金の話を「マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせる」ことから始めました。そのマケドニア州の諸教会の取り組みの発端となったのは、パウロがマケドニア州の諸教会に、アカイア州の諸教会のことを誇ったことであったのです。このようにパウロは、他の教会に与えられた神の恵みを伝えることによって、教会を励ますということをしたのです。このパウロの精神を最もよく言い表しているのは、フィレモンへの手紙の6節です。パウロは、そこで、フィレモンにこう書き送っています。「わたしたちの間でキリストのためになされているすべての善いことを、あなたが知り、あなたの信仰の交わりが活発になるようにと祈っています」。パウロが願ったことは、アカイア州の人々に与えられた神の恵みをマケドニア州の人々に知らせることによって、また、マケドニア州の人々に与えられた神の恵みをアカイア州の人々に知らせることによって、彼らの信仰生活がいよいよ活発になることであったのです。しかし、問題は、コリントの信徒たちとパウロとの信頼関係が損なわれたことから、エルサレム教会への献金を中断していたということです。パウロは「アカイア州では去年から準備ができている」と言って誇りましたが、実際は、献金は中断されており、準備はできていなかったのです。それで、パウロは、自分たちに先立って、兄弟たちを派遣するのです。3節の「兄弟たち」は、前回学びましたように、テトスと二人の兄弟たちのことです(8:17、18、22参照)。パウロは、「アカイア州では去年から準備ができている」と言って誇りました。その誇りが空しくならないために、また、パウロが言ったとおりに、献金を用意してもらうために、兄弟たちを遣わすのです。
2 祝福の贈り物として
4節と5節をお読みします。
そうでないと、マケドニア州の人々がわたしと共に行って、まだ用意のできていないのを見たら、あなたがたはもちろん、わたしたちも、このように確信しているだけに、恥をかくことになりかねないからです。そこで、この兄弟たちに頼んで一足先にそちらに行って、以前あなたがたが約束した贈り物の用意をしてもらうことが必要だと思いました。渋りながらではなく、惜しまず差し出したものとして用意してもらうためです。
パウロは、「アカイア州では去年から準備ができている」と言ってマケドニア州の人々にコリントの信徒たちのことを誇りました。それによって、マケドニア州の多くの人々は奮い立ってエルサレム教会への献金に取り組んだのです。そのマケドニア州の教会の代表者が、パウロと共にコリントの教会を訪れたとき、用意ができていないのを見たら、どうであろうか。コリントの信徒たちも、パウロも恥をかくことになるというのです。4節の後半に「あなたがたはもちろん、わたしたちも、このように確信しているだけに、恥をかくことになりかねないからです」とあります。パウロは、準備ができていないのに、準備ができていると言って誇りました。これは、いい加減なことを言っているのではなくて、パウロの信仰によることであったのです。ヘブライ人への手紙の11章1節に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」とあります。パウロは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する信仰によって「アカイア州では去年から準備ができている」と言って誇ったのです。そのような彼らを自分が異邦人の使徒であることの拠り所としたのです。そのような信仰と誇りが空しいものとなり、恥をかくことがないように、パウロは自分たちに先立って兄弟たちを遣わすのです。それは、以前、コリントの信徒たちが約束した贈り物の用意をしてもらうためでありました。5節の「贈り物」と訳されている言葉は、「祝福」とも訳される言葉です(ユーロギア)。ですから、岩波書店から出ている『新約聖書』は「祝福の贈り物」と翻訳しています。私たちがささげる献金は、神様からの祝福であるのです。そのことは、考えてみれば、当然のことです。なぜなら、私たちが手にしているものは、すべて神様の祝福によって与えられているからです。自分の手で働いて得た収入も、神様の祝福によって与えられたものであるのです(申命8:17、18参照)。その私たちに与えられた祝福を、献金という仕方で、他の教会に与えることができるのです。東部中会に属している教会が、他の教会に献金を訴えることがあります。新潟伝道所は、毎年のように自由募金を訴えています。また、新しく会堂を建てる教会は、そのための献金を訴えます。その訴えに応えて、私たちの教会も他の教会に献金をしています。それは、神様の祝福の贈り物であるのです。私たちは、献金をささげることによって、神様の祝福を分かち合っているのです。もっと大胆に言えば、私たちは献金をささげることによって、その教会を祝福しているのです。私たちの羽生栄光教会も、創立当初は、東部中会の多くの教会に献金していただきました。そのようにして、私たちは祝福の贈り物をいただいたのです。多くの教会からの祝福の贈り物をいただいて、私たちの今の営みがあるのです。
パウロは5節後半で「渋りながらではなく、惜しまず差し出したものとして用意してもらうためです」と記しています。ここで「惜しまず差し出したもの」と訳されている言葉も「祝福」と訳される言葉(ユーロギア)であります。私たちは自分のものであると考えるならば、惜しまず差し出すことはできません。それこそ、渋りながら差し出すことになります。しかし、神様からの祝福であると考えるならば、惜しまず差し出すことができるのです。私たちが手にしている富は、神様から管理を委ねられているにすぎないことを弁えるならば、私たちは神様の御心に適ったことのために、惜しまず差し出すことができるのです。
3 喜んで与える人を愛する神
6節と7節をお読みします。
つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。
ここでパウロは、エルサレム教会への献金を種蒔きと収穫に譬えています。このエルサレム教会への献金は、貧しい人たちを助けるための施しでもありました。そのことを念頭において、パウロはこの所を記しています。このパウロの言葉の背景には、旧約聖書の箴言の御言葉があります。箴言の11章24節と25節にこう記されています。旧約の1005ページです。
散らしてなお、加えられる人もあり/締めすぎて欠乏する者もある。気前のよい人は自分も太り/他を潤す人は自分も潤う。
また、19章17節にはこう記されています。旧約の1015ページです。
弱者を憐れむ人は主に貸す人。その行いは必ず報いられる。
また、22章9節にはこう記されています。旧約の1019ページです。
寛大な人は祝福を受ける/自分のパンをさいて弱い人に与えるから。
このような箴言の言葉を背景にして、パウロは今朝の御言葉を記しているのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の335ページです。
6節の後半に「惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです」とあります。ここで「豊か」と訳されている言葉も「祝福」と訳される言葉(ユーロギア)です。ですから、岩波書店から出ている『新約聖書』は、このところを次にようの翻訳しています。「〔豊かな〕祝福のうちに蒔く者は、やはり〔豊かな〕祝福のうちに刈り取るであろう」。このように見てきますと、パウロがここで問題としているのは、蒔く種の量の多さだけではなく、蒔く人の心持ちであることが分かります。施しは、私を通して他の人に与えられる神様からの祝福である。そのことを弁えて豊かに施すならば、祝福として豊かな実りを刈り取ることになるのです。
7節は、私たちに献金の心得を教える大切な御言葉です。「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい」。「不承不承ではなく」とは「いやいやながらではなく」ということです。献金は、いやいやながらでも、強制されてでもなく、自分でこうしようと心に決めたとおりにささげるべきであるのです。それは私たちが、喜んで与える人となるためであります。自由と喜びは一組でありまして、自分でこうしようと心に決めたとおりにささげるという自由があるところに喜びがあるのです。そして、喜んで与える人を神様は愛してくださるのです。私たちは、神様から愛されている者として、自分でこうしようと心に決めたとおりに、喜んでささげる者でありたいと願います。