愛と誇りの証し 2019年5月19日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

8:16 あなたがたに対してわたしたちが抱いているのと同じ熱心を、テトスの心にも抱かせてくださった神に感謝します。
8:17 彼はわたしたちの勧告を受け入れ、ますます熱心に、自ら進んでそちらに赴こうとしているからです。
8:18 わたしたちは一人の兄弟を同伴させます。福音のことで至るところの教会で評判の高い人です。
8:19 そればかりではありません。彼はわたしたちの同伴者として諸教会から任命されたのです。それは、主御自身の栄光と自分たちの熱意を現すようにわたしたちが奉仕している、この慈善の業に加わるためでした。
8:20 わたしたちは、自分が奉仕しているこの惜しまず提供された募金について、だれからも非難されないようにしています。
8:21 わたしたちは、主の前だけではなく、人の前でも公明正大にふるまうように心がけています。
8:22 彼らにもう一人わたしたちの兄弟を同伴させます。この人が熱心であることは、わたしたちがいろいろな機会にしばしば実際に認めたところです。今、彼はあなたがたに厚い信頼を寄せ、ますます熱心になっています。
8:23 テトスについて言えば、彼はわたしの同志であり、あなたがたのために協力する者です。これらの兄弟について言えば、彼らは諸教会の使者であり、キリストの栄光となっています。
8:24 だから、あなたがたの愛の証しと、あなたがたのことでわたしたちが抱いている誇りの証しとを、諸教会の前で彼らに見せてください。コリントの信徒への手紙二 8章16節~24節

原稿のアイコンメッセージ

 前回私たちは、教会がそれぞれの地域にある教会を越えて、一つのキリストの体であること、神のイスラエルであることを学びました。キリスト教会は、神のイスラエルであるゆえに、神様の恵みを分かち合うことによって、釣り合いがとれるようにすべきであることを学んだのであります。今朝の御言葉はその続きであります。

1 神への感謝

 16節と17節をお読みします。

 あなたがたに対してわたしたちが抱いているのと同じ熱心を、テトスの心にも抱かせてくださった神に感謝します。彼はわたしたちの勧告を受け入れ、ますます熱心に、自ら進んでそちらに赴こうとしているからです。

 新約聖書には、パウロがテトスに宛てて記した手紙、「テトスへの手紙」があります。パウロは、その手紙の中で、「信仰を共にするまことの子テトスへ」と呼びかけています(テトス1:4)。このことは、テトスがパウロによってイエス・キリストへの信仰に導かれたこと、また、親子ほどの年齢が離れていたことを教えています。パウロには、テモテとテトスという二人の「信仰によるまことの子」がいたのです(一テモテ1:2参照)。テモテはコリントの信徒たちから蔑ろにされ、不安の内にパウロのもとに戻ってきました。けれども、テトスは、コリントの信徒たちが悲しんで、悔い改めたという良い知らせを、パウロのもとにもたらしたのです。このテトスのことで、パウロは神様に感謝しているのです。それは、神様が、コリントの信徒たちに対してパウロが抱いているのと同じ熱心を、テトスの心にも抱かせてくださったからです。このことについて、パウロは7章13節以下で次のように記しておりました。7章13節後半から16節までをお読みします。新約の333ページです。

 この慰めに加えて、テトスの喜ぶさまを見て、わたしたちはいっそう喜びました。彼の心があなたがた一同のお陰で元気づけられたからです。わたしはあなたがたのことをテトスに少し誇りましたが、そのことで恥をかかずに済みました。それどころか、わたしたちはあなたがたにすべて真実を語ったように、テトスの前で語ったことも真実となったのです。テトスは、あなたがた一同が従順で、どんなに恐れおののいて歓迎してくれたかを思い起こして、ますますあなたがたに心を寄せています。わたしは、すべての点であなたがたを信頼できることを喜んでいます。

 パウロは涙の手紙を送った後で、コリントの信徒たちの反応が気になって、テトスを遣わしました。テトスは、あまり気が進まなかったかも知れません。また、不安もあったと思います。そのテトスの不安を取り除くために、パウロはコリントの信徒たちのことを誇ったのです。「コリントの信徒たちは、私から福音を聞いて信じた立派なキリスト者だ、何も心配することはない」とテトスに語ったのです。そして、事実、そのとおりになりました。コリントの信徒たちは、テトスを従順に、恐れおののいて歓迎したのです。そのことによって、テトスの心は元気づけられ、ますますコリントの信徒たちに心を寄せる者となったのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の334ページです。

 パウロと同じように、テトスがコリントの信徒たちに対して熱心な心を抱くようになった。このことを、パウロはテトス本人に対してではなく、神様に対して感謝しています。テトスの心にコリントの信徒たちへの熱心を与えてくださったのは神様であるのです。私たちの周りにも、いろいろなことに熱心な人がいます。そして、その人に熱心な心を抱かせてくださるのは神様であるのです。それが、教会のため、福音宣教のためであるならば、なおさらのことです。具体的に申しますと、私たちの教会員である姉妹が、カンボジアミッショントリップに参加しました。そのことへの熱心を与えてくださったのは、神様であるのですね。そのように判断して、役員会は自由募金を呼びかけ、皆さんは募金をしたわけです。

 17節に、「彼はわたしたちの勧告を受け入れ」とあります。この「勧告」とはエルサレム教会への献金についての勧告のことです。テトスは、パウロからエルサレム教会への献金を集めるという使命を託されて、ますます熱心に、自ら進んで、コリントに赴こうとしているのです。このように、パウロは、エルサレム教会への献金を集める働きを、テトスにゆだねるのです。

2 だれからも非難されないように

 18節から22節までをお読みします。

 わたしたちは一人の兄弟を同伴させます。福音のことで至るところの教会で評判の高い人です。そればかりではありません。彼はわたしたちの同伴者として諸教会から任命されたのです。それは、主御自身の栄光と自分たちの熱意を現すようにわたしたちが奉仕している、この慈善の業に加わるためでした。わたしたちは、自分が奉仕しているこの惜しまず提供された募金について、だれからも非難されないようにしています。わたしたちは、主の前だけではなく、人の前でも公明正大にふるまうように心がけています。彼らにもう一人わたしたちの兄弟を同伴させます。この人が熱心であることは、わたしたちがいろいろな機会にしばしば実際に認めたところです。今、彼はあなたがたに厚い信頼を寄せ、ますます熱心になっています。

 パウロは、テトスを遣わすにあたって、「一人の兄弟を同伴させます」と記します。この兄弟の名前は記されていませんが、福音のことで至るところの教会で評判の高い人でありました。また、彼はパウロが任命したのではなく、諸教会からパウロたちの同伴者として任命された人でした。このことは、エルサレム教会への献金が異邦人教会の代表たちによって、エルサレム教会へと届けられたことを背景にしています。エルサレム教会のための献金は、単なる慈善の業というだけではなく、異邦人教会とユダヤ人教会の一致を具体的に現す一大プロジェクトであったのです。エルサレム教会への献金という慈善の業は、主イエスの栄光と異邦人教会の熱意を表す奉仕であるのです。

 エルサレム教会への献金については、前もって、エルサレム教会の指導者たちとパウロたちとの間で、取り決められていたことでありました。ガラテヤの信徒への手紙2章1節から10節までをお読みします。新約の343ページです。

 その後14年たってから、わたしはバルナバと一緒にエルサレムに再び上りました。その際、テトスも連れて行きました。エルサレムに上ったのは、啓示によるものでした。わたしは、自分が異邦人に宣べ伝えている福音について、人々に、とりわけ、おもだった人たちに個人的に話して、自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないかと意見を求めました。しかし、わたしと同行したテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を受けることを強制されませんでした。潜り込んで来た偽の兄弟たちがいたのに、強制されなかったのです。彼らは、わたしたちを奴隷にしようとして、わたしたちがキリスト・イエスによって得ている自由を付けねらい、こっそり入り込んで来たのでした。福音の真理が、あなたがたのもとにいつもとどまっているように、わたしたちは、片ときもそのような者たちに屈服して譲歩するようなことはしませんでした。おもだった人たちからも強制されませんでした。-この人たちがそもそもどんな人であったにせよ、それは、わたしにはどうでもよいことです。神は人を分け隔てなさいません-実際、そのおもだった人たちは、わたしにどんな義務も負わせませんでした。それどころか、彼らは、ペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任されたように、わたしには割礼を受けていない人々に対する福音が任されていることを知りました。割礼を受けた人々に対する使徒としての任務のためにペトロに働きかけた方は、異邦人に対する使徒としての任務のためにわたしにも働きかけられたのです。また、彼らはわたしに与えられた恵みを認め、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。それで、わたしたちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところに行くことになったのです。ただ、わたしたちが貧しい人たちのことを忘れないようにとのことでしたが、これは、ちょうどわたしも心がけてきた点です。

 長く読みましたが、ここには、使徒言行録15章に記されているエルサレム会議のことがパウロの筆によって記されています。エルサレム会議の争点は、異邦人は救われるために割礼を受ける必要があるか、ないかでありました。この点については、エルサレム教会のおもだった人は、パウロたちに何の重荷も負わせませんでした。実際、パウロと同行したテトスは、ギリシア人で割礼を受けていませんでしたが、割礼を受けることを強制されなかったのです。エルサレム会議において、割礼のある、なしにかかわらず、イエス・キリストへの信仰によって救われることが確認されたわけです。そればかりか、パウロはエルサレム教会のおもだった人たち、ヤコブとペトロとヨハネからのイエス・キリストの使徒として認められ、一致して福音宣教に励んでいくことが確認されたのです。その際一つの取り決めがなされました。それが10節の「貧しい人たちのことを忘れないように」という、エルサレム教会への献金であったのです。このように、エルサレム教会への献金は、エルサレム教会のおもだった人たちとパウロたちとの間で取り決めていたことであったのです。また、エルサレム教会への献金は、ユダヤ人教会と異邦人教会が一つの教会であることの目に見える具体的なしるしであるのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の334ページです。

 パウロは、テトスを遣わすに当たって、諸教会から任命された一人の兄弟を同伴させると記しました。また、22節を見ますと、「彼らにもう一人わたしたちの兄弟を同伴させます」と記しています。この兄弟も熱心で、信頼できる人物でありました。パウロは、エルサレム教会への献金を集めるために、テトスと熱心で、信頼できる二人の兄弟を遣わすのです。しかも、二人の内の一人は、諸教会から任命された人物であるのです。なぜ、パウロは、このようなことをするのでしょうか。その理由が、20節、21節に記されています。「わたしたちは、自分が奉仕しているこの惜しまず提供された募金について、だれからも非難されないようにしています。わたしたちは、主の前だけではなく、人の前でも公明正大にふるまうように心がけています」。私たちは、ここからパウロが献金を扱うのに細心の注意を払っていたことを教えられます。「公明正大」とは、「公平でやましいところがなく、堂々としていること」を意味します(明鏡国語辞典)。パウロは、諸教会が惜しまず提供した献金について誰からも非難されないように、主の前だけではなく、人の前でも公明正大にふるまうのです。このことは、私たちの教会も、心がけている点でありますね。私たちの教会では牧師が直接、教会会計に携わることはしません。教会会計の実務、管理は、執事会がしてくださっています。また、礼拝献金の金額を確認する際には、一人ではなく、二人以上で行うように、小会では指導しています。担当の執事によって、毎月、会計報告が役員会に提出され、『月報』において、教会員の皆さんにも報告されます。7月には臨時会員総会を開催し、上半期の決算報告がなされます。また、宗教法人の規則に基づいて、会計監査も行っています。このように、私たちの教会も、献金の管理について、だれからも非難されないように、公明正大にふるまうよう心がけているのです。

3 愛と誇りの証し

 23節と24節をお読みします。

 テトスについて言えば、彼はわたしの同志であり、あなたがたのために協力する者です。これらの兄弟について言えば、彼らは諸教会の使者であり、キリストの栄光となっています。だから、あなたがたの愛の証しと、あなたがたのことでわたしたちが抱いている誇りの証しとを、諸教会の前で彼らに見せてください。

 23節で、パウロは、これから自分が遣わそうとする三人がどのような人物であるかを記しています。テトスは、パウロの同志であり、コリントの信徒たちのために共に働く者であります。テトスは、パウロと同じようにコリントの信徒たち対して熱心な者でありました。また、二人の兄弟は、諸教会の使者でありました。「使者」とは「使徒」とも訳せる言葉(アポストロス)で、諸教会の代表として遣わされた者のことです。パウロは、二人の兄弟のことを「キリストの栄光となっている」と記します。エルサレム教会のために献金をささげる諸教会の代表である彼らは、キリストの栄光を映し出す者であると言うのです。そのような彼らの前で、あなたがたの愛の証しと、あなたがたのことでパウロが抱いている誇りの証しを見せてほしいと言うのです。これは、具体的に言えば、コリント教会もエルサレム教会のために募金してほしい。エルサレム教会への募金を再開して、やり遂げてほしいということです。エルサレム教会のための募金は、コリントの信徒たちの愛の証しであります。この「愛の証し」は、神様への愛、イエス様への愛の証しですね。そして、それは同時に、エルサレム教会への、ユダヤ人キリスト者への愛の証しであるのです。その愛の証しによって、パウロがコリントの信徒たちに抱いている誇りも証しされるのです。コリントの信徒たちが、エルサレムの貧しい人たちを愛し、ささげることによって、ユダヤ人教会と異邦人教会が一つのキリストの教会であることが証しされるのです。そのようにして、異邦人の使徒であるパウロの誇りが証しされるのです。

 教会の営みは、すべて信徒の献金によって支えられています。そのことは、私たちの愛の証しであり、私たちがキリスト者であることの誇り(拠り所)であるのです。私たちの神様への愛とキリスト者であることの誇りは、献金をささげるという仕方で、まことに具体的に証しされるのです。

 

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