釣り合いがとれるように 2019年5月12日(日曜 朝の礼拝)
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釣り合いがとれるように
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- 村田寿和 牧師
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コリントの信徒への手紙二 8章8節~15節
聖書の言葉
8:8 わたしは命令としてこう言っているのではありません。他の人々の熱心に照らしてあなたがたの愛の純粋さを確かめようとして言うのです。
8:9 あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。
8:10 この件についてわたしの意見を述べておきます。それがあなたがたの益になるからです。あなたがたは、このことを去年から他に先がけて実行したばかりでなく、実行したいと願ってもいました。
8:11 だから、今それをやり遂げなさい。進んで実行しようと思ったとおりに、自分が持っているものでやり遂げることです。
8:12 進んで行う気持があれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。
8:13 他の人々には楽をさせて、あなたがたに苦労をかけるということではなく、釣り合いがとれるようにするわけです。
8:14 あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです。
8:15 「多く集めた者も、余ることはなく、/わずかしか集めなかった者も、/不足することはなかった」と書いてあるとおりです。コリントの信徒への手紙二 8章8節~15節
メッセージ
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序
コリントの信徒への手紙二の第8章と第9章は、イエス・キリストの使徒パウロが献金について教えているまとまった記述であります。パウロは、コリントの信徒たちとの信頼関係が回復したことに基づいて、エルサレム教会への献金について記すのです。前回学んだ4節に「聖なる者たちを助けるための慈善の業」とありました。これはエルサレム教会への献金のことであるのです。パウロは「献金」という言葉を用いず「慈善の業」という言葉を用いました。前回学んだ8章1節から7節には、三回、「慈善の業」という言葉が用いられていました(4節、6節、7節)。この「慈善の業」と訳されている元の言葉は「恵み」と訳される言葉(カリス)です。すべての教会の母教会とも言えるエルサレム教会のために献金をささげることは、神の恵みであるのです。また、献金は主に自分自身を献げることでもあります。献金は、まさしく「献身のしるし」であるのです。神の恵みであり、献身のしるしである献金を、私たちがささげることができるのは、聖霊の賜物によることであります。聖霊の賜物には、献げる賜物、施す賜物があるのです。その賜物においても、豊かになるようにと、パウロはコリントの信徒たちに記したのです。
ここまでは、前回お話したことの振り返りです。今朝はその続き、8節から15節より御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1 私たちの主イエス・キリストの恵み
8節と9節をお読みします。
わたしは命令としてこう言っているのではありません。他の人々の熱心に照らしてあなたがたの愛の純粋さを確かめようとして言うのです。あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。
パウロは、直前の7節後半で、「この慈善の業においても豊かな者となりなさい」と記しました。それを受けて、「わたしは命令としてこう言っているのではありません」と記します。慈善の業は、自分から進んで行うものであって、誰かに命令されて行うものではないからです。パウロは、前回学んだ1節以下で、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて記しておりました。なぜ、パウロはマケドニア州にある諸教会のことを記したのでしょうか?それは「他の人々の熱心に照らしてあなたがたの愛の純粋さを確かめ」るためであると言うのです。この愛は、「パウロへの愛」というよりも、「主イエス・キリストへの愛」のことです。なぜなら、献金は、主に自分自身をささげる、主への愛の行為であるからです。私たちは、主を愛する者として、主への愛から献金をささげているのです。それは、私たちに先んじて、主イエスが私たちを愛して、私たちのために御自身をささげてくださったからです。9節で、パウロはこう記しています。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」。「わたしたちの主イエス・キリストの恵み」の「恵み」は、4節、6節、7節で、「慈善の業」と訳されていたのと同じ言葉(カリス)です。慈善の業である献金の動機付けは、「私たちの主イエス・キリストの恵み」にあるのです。私たちの主イエス・キリストの恵みとは、どのような恵みであったのか?それは、豊かであった主が、私たちのために貧しくなられた。その主の貧しさによって、私たちが豊かにされたという恵みであります。パウロが、「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた」と記すとき、それは地上の生活のことだけを言っているのではありません。確かに、イエス様は、貧しい大工の息子として歩まれました(ルカ2:24参照)。また、イエス様御自身、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」と言われました(マタイ8:20)。しかし、パウロが「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた」と記すとき、それは地上の生活のことというよりも、豊かな栄光を持っていた神の御子が、私たちのために人となってくださったことを指しているのです(ヨハネ17:5参照)。パウロは、フィリピの信徒への手紙2章6節から8節でこう記しています。新約の363ページです。
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
「主は豊かであったのに、貧しくなられた」。それは、神の御子が人となられたことに留まりません。人となられた神の御子が、私たちの贖いとして、十字架のうえで御自身を献げてくださったことをも含むのです。イエス様は、神様の御心に従って、神様の御心を自分の心として、自ら、私たちのために貧しくなってくださいました。それは、私たちが神様の御前に豊かな者となるためであったのです。私たちがイエス・キリストにあって、あらゆる恵みをいただいて、神様の祝福に生きるためであったのです。私たちが神様の御前に豊かな者とされている。それは、豊かであったイエス・キリストが私たちのために貧しくなってくださったからであるのです。
では、今朝の御言葉に戻りましょう。新約の334ページです。
2 進んで行う気持ち
10節から12節までをお読みします。
この件についてわたしは意見を述べておきます。それがあなたがたの益になるからです。あなたがたは、このことを去年から他に先がけて実行したばかりでなく、実行したいと願ってもいました。だから、今それをやり遂げなさい。進んで実行しようと思ったとおりに、自分が持っているものでやり遂げることです。進んで行う気持ちがあれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。
8節で、パウロは、「わたしは命令としてこう言っているのではありません」と記していました。10節では、「この件についてわたしの意見を述べておきます」と記します。パウロは、エルサレム教会への献金を、コリントの信徒たちに自分から進んで行ってほしいのですね。パウロの有益な意見によれば、コリントの信徒たちは去年から他の教会に先駆けて、エルサレム教会のための献金を実行していました(一コリント16:1、2参照)。しかし、それが中断されていたようです。パウロとコリントの信徒たちの信頼関係が損なわれたことにより、エルサレム教会のための献金は中断されていたのです。しかし、コリントの信徒たちは、それを実行したいと願っていた、とパウロは記します。それで、パウロはコリントの信徒たちに、エルサレム教会のための献金を再開し、それをやり遂げるようにと励ますのです。献金を集めるときの一つの不安は、あまり集まらないのではないかということです。そのような不安を見越して、パウロはこう記します。「進んで実行しようと思ったとおりに、自分が持っているものでやり遂げることです。進んで行う気持ちがあれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです」。献金をささげることにおいて、重要であるのは、「進んで実行しようと思ったとおりに、自分が持っているものをささげること」です。誰かに命じられてではなく、自分で進んで実行しようと思ったとおりに、自分に与えられているものの中からささげることです。11節に、「進んで行う気持ちがあれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神は受け入れられるのです」とあります。これはどういう意味でしょうか。ここでパウロが教えていることは、神様は献げる者の心を見られるということです。また、神様は献金の額面だけではなくて、その人の収入をも考慮して受け入れてくださるということです。イエス様は、一人の貧しいやもめがレプトン銅貨2枚を献げたのを見て、弟子たちにこう言われました。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである」(マルコ12:43)。レプトン銅貨2枚、それはまことにわずかな金額です(一ドラクメは、一デナリオンの128分の1)。しかし、イエス様は、このやもめは、だれよりもたくさん献げたと言われます。それは、神様が、献げる者の心を見られ、持っているものに応じて、受け入れてくださる御方であるからです。そのような神様に、私たちは献金をささげているのです。
3 釣り合いがとれるように
13節から15節までをお読みします。
他の人々に楽をさせて、あなたがたに苦労をかけるということではなく、釣り合いが取れるようにするわけです。あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです。「多く集めた者も、余ることはなく、わずかしか集めなかった者も、不足することはなかった」と書いてあるとおりです。
エルサレム教会のための献金について、「彼らに楽をさせて、私たちが苦労するのはおかしい」と言う人がいたのかも知れません。パウロはそのような誤解を正して、エルサレム教会のための献金は「釣り合いが取れるようにするためである」と記します。「あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです」。このパウロの言葉は、教会が各個教会のレベルを超えて、一つであることを教えています。イエス・キリストの教会は、エルサレムから始まって、地中海世界へと広がって行きました。今や教会は、ユダヤだけではなく、小アジアにも、ギリシャにも、ローマにもあるのです。しかし、教会は、どこにありましても、一つの群れであるのです。教会は、主イエス・キリストを頭とする、キリストの体であるのです。ですから、「コリントの教会だけが豊かであれば、エルサレムの教会はどうなってもかまわない。それは彼らの問題だ」とは決して言えないし、また、言ってはならないのです。私たちに当てはめて言えば、私たちは羽生栄光教会だけのことではなくて、埼玉東部地区の教会、東部中会の教会へと思いを拡げて行かなければならないのです。それは、キリストの教会が一つの群れであり、神のイスラエルであるからです。イエス・キリストの教会は神のイスラエルである(ガラテヤ6:16参照)。それゆえ、パウロは、出エジプト記の御言葉を引用して、コリント教会とエルサレム教会のあるべき関係を記すのです。「多く集めた者も、余ることはなく、わずかしか集めなかった者も、不足することはなかった」。この御言葉は、出エジプト記16章18節からの引用であります。実際に開いて確認してみたいと思います。旧約の120ページです。
出エジプト記の16章には、天からのパン、マナのことが記されています。今朝は、13節から18節までをお読みします。
夕方になると、うずらが飛んで来て、宿営を覆い、朝には宿営の周りに露が降りた。この降りた露が蒸発すると、見よ、荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていた。イスラエルの人々はそれを見て、これは一体何だろうと、口々に言った。彼らはそれが何であるか知らなかったからである。モーセは彼らに言った。「これこそ、主があなたたちに食物として与えたパンである。主が命じられたことは次のことである。『あなたたちはそれぞれ必要な分、つまり一人当たり一オメルを集めよ。それぞれ自分の天幕にいる家族の数に応じて取るがよい。』」
イスラエルの人々はそのとおりにした。ある者は多く集め、ある者は少なく集めた。しかし、オメル升で量って見ると、多く集めた者も余ることなく、少なく集めた者も足りないことなく、それぞれ必要な分を集めた。
ちなみに、一オメルとは約2.3リットルのことです。なぜ、多く集めた者も余ることなく、少なく集めたものも足りないことはなかったのか?それは多く集めた者が少なく集めた者に分けてあげたからです。そのように、イスラエルの民は、神の恵みである天からのパン、マナを分け合って釣り合いをとったのですね。そのイスラエルの民のように、あなたがたも神様の恵みを分け合うべきであるとパウロは言うのです。
では、今朝の御言葉に戻りましょう。新約の334ページです。
私たちの教会の歴史を遡るとき、私たちの教会が東部中会の多くの教会から、とりわけ東京教会と上福岡教会と大宮教会の三つの教会から献金をいただいたことを知ることができます。東京教会と上福岡教会と大宮教会の兄弟姉妹は、自分から進んで、持っているものに応じて、私たちの教会のためにささげてくださったのです。そのような私たちの教会でありますから、私たちも自ら進んで、持っているものに応じて、ささげたいと願います。豊かになってから献げるのではなくて、今、持っているものに応じて、自ら進んで献げる教会になりたいと願います。