恵みとしての慈善の業 2019年5月05日(日曜 朝の礼拝)
問い合わせ
恵みとしての慈善の業
- 日付
-
- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書
コリントの信徒への手紙二 8章1節~7節
聖書の言葉
8:1 兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう。
8:2 彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。
8:3 わたしは証ししますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、
8:4 聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした。
8:5 また、わたしたちの期待以上に、彼らはまず主に、次いで、神の御心にそってわたしたちにも自分自身を献げたので、
8:6 わたしたちはテトスに、この慈善の業をあなたがたの間で始めたからには、やり遂げるようにと勧めました。
8:7 あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。コリントの信徒への手紙二 8章1節~7節
メッセージ
関連する説教を探す
序
今朝の御言葉でパウロは、エルサレムの聖なる者たちへの献金について記しています。パウロは献金という言葉を直接は用いていませんが、内容としてはお金のことを記しているのです。4節に、「聖なる者たちを助けるための慈善の業」とありますが、これは言い換えれば、「エルサレム教会の貧しい人たちのための献金」であるのです。パウロは、7章16節で、「わたしは、すべての点であなたがたを信頼できることを喜んでいます」と記しました。パウロはコリントの信徒たちとの信頼関係が回復したことに続けて、お金の話をするのです。私は今、露骨に「お金の話」と申しましたが、パウロは大変気を使ってそのことを記しています。そもそも、パウロはお金という言葉も、献金という言葉も用いていません。パウロはお金が目的なのだと中傷されないように、よく考えてこのところを記しているのです。
エルサレム教会ための募金については、第一コリント書の16章1節、2節に記されていました。新約の323ページです。
聖なる者たちのための募金については、わたしがガラテヤの諸教会に指示したように、あなたがたも実行しなさい。わたしがそちらに着いてから初めて募金が行われることのないように、週の初めの日にはいつも、各自収入に応じて、幾らかずつでも手もとに取って置きなさい。
「聖なる者たちのための募金」の「募金」と訳されている言葉は「献金」とも訳せます(口語訳聖書、新改訳聖書参照)。パウロは、コリントの教会に、週の初めの日に行われる礼拝において蓄えておくように命じていますから、「募金」よりも「献金」と訳した方がよいと思います。パウロは、第一コリント書において、聖なる者たちのための献金を集めるように指示しておりました。しかし、そのことは中断されていたようです。パウロとコリントの信徒たちの間にわだかまりが生じていたことも、その理由の一つであったと思います。しかし、そのわだかまりが無くなり、信頼関係が回復した今こそ、聖なる者たちの献金を再開するようにと、パウロは記すのです。
今朝の御言葉に戻りましょう。新約の333ページです。
1 マケドニア州の諸教会に与えられた恵み
8章1節、2節をお読みします。
兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう。彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。
パウロは、エルサレム教会への献金について記すに当たって、最初に、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて記します。「マケドニア州の諸教会」とは、具体的にはフィリピの教会とベレアの教会とテサロニケの教会のことです。使徒言行録16章、17章に、パウロがヨーロッパに渡り、フィリピとテサロニケとベレアで福音を宣べ伝えて、それぞれの地に教会をたてたことが記されています。私たちは、パウロが記したテサロニケの信徒への手紙とフィリピの信徒への手紙を読むことができますから、それらの手紙を通して、マケドニアの諸教会がどのような教会であったのかを知ることができます。そのマケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて、パウロは記すのです。
マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵み、それは彼らが苦しみによる激しい試練を受けていたにもかかわらず、また、極度の貧しさにもかかわらず、喜びに満ちて豊かに施す者となったという恵みです。マケドニア州の諸教会は、激しい試練を受けて苦しんでいました。また、極度の貧しさの中にありました。そうであれば、彼らは自分たちのことで精一杯であるはずです。しかし、彼らは喜びに満ちて豊かに施す者となりました。このことをパウロは、神様の恵みであると言うのです。私たちは、このような人を知っていますね。それは、ルカによる福音書21章に記されている貧しいやもめであります。新約の151ページです。ルカ福音書21章1節から4節までをお読みします。
イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるの見て、言われた。「この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」
このやもめは極度の貧しさにもかかわらず、生活費の全部を神様にささげました。それは、このやもめに与えられた神様の恵みであります。神様の恵みによって、このやもめは生活費の全部をささげることができたのです。このやもめの献金は人の目にはわずかな金額です。しかし、すべてのことをご存じであるイエス様は、「この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた」と言われます。イエス様は、どれほどやもめの献金を喜ばれたかと思う。このやもめのような教会、それがマケドニア州の諸教会であったのです。
では、今朝の御言葉に戻りましょう。新約の333ページです。
2 恵みとしての慈善の業
3節、4節をお読みします。
わたしは証ししますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりに願い出たのでした。
「聖なる者たちを助けるための慈善の業」とありますが、ここで「慈善の業」と訳されている言葉は直訳すると「恵み」という言葉(カリス)です。今朝の御言葉に、「慈善の業」という言葉が三度でてきます。4節と6節と7節です。これはいずれも「恵み」という言葉です。すべての教会の母教会であるエルサレム教会を助けること、それは恵みであるのです。今朝の御言葉は、教会の営みを支える献金一般に当てはめて理解することができます。教会の営みを支えるために献金することができる、それは恵みなのです。献金すること、それ自体が私たちに与えられている恵みであるのです。
また、ここで「奉仕」と訳されている言葉は、執事的な働きを表すディアコニアという言葉です。また、「参加する」と訳されている言葉は「共有する」とも訳せる「コイノーニア」という言葉です。マケドニア州の諸教会は、力に応じて、また力以上に、自分から進んで、聖なる者たちを助ける恵みと奉仕を共有させてほしいとしきりに願い出たのです。パウロから、聖なる者たちの窮乏、貧しく困難な状態を聞いたとき、彼らは自ら進んで、エルサレム教会を助ける恵みに与らせてほしいと願い、力以上に施したのです。彼らは喜びに溢れて惜しむことなく施したのです。
3 恵みにおいて豊かな者となれ
5節から7節までをお読みします。
また、わたしたちの期待以上に、彼らはまず主に、次いで、神の御心にそってわたしたちにも自分自身を献げたので、わたしたちはテトスに、この慈善の業をあなたがたの間ではじめたからには、やり遂げるようにと勧めました。あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受けた愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。
パウロはマケドニア州の諸教会がエルサレム教会のために献金したことを、「彼らはまず主に、次いで、神の御心にそってわたしたちにも自分自身を献げた」と記します。パウロは献金という言葉を用いず、献金の神学的な意味、あるいは献金の精神を記します。献金をささげるとは、自分自身をささげることなのですね。お金は生活(命)を支えるものです。そのお金をささげるとは自分自身をささげることであるのです。献金は、まさしく「献身のしるし」であるのです。そして、献金はまず主にささげるものであります。献金によって教会の営みが支えられていることは事実であります。しかし、私たちは何々のためにささげるというよりも、まず主にささげていることをいつも心に留めたいと思いますね。「献金はまず主にささげるものである」というとき、その主とは、主イエスのことです。私たちの罪を贖うために、御自分のいのちを献げられた主イエスのことです(マタイ20:28参照)。私たちは、私たちのために御自身をささげてくださった主イエスに自分自身をささげる、献身のしるしとして献金をささげているのです。パウロは、マケドニア州の諸教会が「神の御心にそってわたしたちにも自分自身を献げた」と記しています(元の言葉は「次いで」ではなく「そして」と記されている)。マケドニアの諸教会は、神様の御心によって、主イエス・キリストの使徒とされたパウロの福音宣教を献金をもって支えたのです。そのことは、フィリピの信徒への手紙の4章15節から18節に記されています。新約の366ページです。
フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです。わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです。
このようにマケドニア州にあるフィリピの教会は、神の御心にそってパウロに自分自身をささげたのです。パウロはそのことをちゃんと理解して、そちらからの贈り物は「香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえ」であると言うのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の333ページです。
このように、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて記したパウロですが、話は、いつの間にか、テトスへと、またコリントの教会へと移っています。6節に、「私たちはテトスに、この慈善の業をあなたがたの間で始めたからには、やり遂げるようにと勧めました」と記されています。このパウロの言葉から判断すると、テトスは以前にも、コリントの教会を訪れたことがあったようです。テトスによって、エルサレム教会への献金運動は始まったようであります。パウロは、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みを聞いて、テトスに神の恵みである慈善の業をやり遂げるように勧めたと言うのです。テトスは、良い知らせをもって、マケドニア州にいるパウロのもとに戻ってきたわけですが、再び、慈善の業をやり遂げるために、コリント教会に遣わされることになるのです。
7節で、パウロはコリントの信徒たちにこう記しています。「あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点において豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい」。ここでの「信仰」「言葉」「知識」は、いずれも聖霊の賜物であります。パウロは第一コリント書の12章で、「聖霊の賜物」について記しました。コリントの教会は聖霊の賜物を熱心に求める教会でありました。そのようなコリントの信徒たちに、あなたたちは、信仰や言葉や知識といった聖霊の賜物を豊かに与えられているのだから、ほどこす賜物においても豊かな者となってほしいと記すのです。パウロはローマ書の12章でも、聖霊の賜物について記しています。そこでパウロは「施しをする人は惜しまず施し、・・・慈善を行う人は快く行いなさい」と記しています(ローマ12:8)。聖霊の賜物には、ほどこす賜物、ささげる賜物もあるのです。パウロは、コリントの信徒たちに、ほどこす賜物、ささげる賜物においても豊かな者となってほしいと記すのです。
今朝、私たちもマケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて聞きました。そして、パウロの説き明かしによって、マケドニア州の諸教会に与えられた恵みが、神の御心によって私たちのために御自身をささげられたイエス様の聖霊によるものであることを教えられたのであります。イエス様は、まず父なる神に、そして父なる神の御心によって私たちのために御自身をささげられました。そのイエス様の聖霊をいただいている私たちは、ささげるという点においても、イエス様に似た者とされるのです。それが私たちが祈り求めるべき神様の恵みであるのです。