生ける神の神殿 2019年3月31日(日曜 朝の礼拝)
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生ける神の神殿
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コリントの信徒への手紙二 6章14節~7章1節
聖書の言葉
6:14 あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。
6:15 キリストとベリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。
6:16 神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。そして、彼らの神となり、/彼らはわたしの民となる。
6:17 だから、あの者どもの中から出て行き、/遠ざかるように』と主は仰せになる。『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
6:18 父となり、/あなたがたはわたしの息子、娘となる。』/全能の主はこう仰せられる。」
7:1 愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。コリントの信徒への手紙二 6章14節~7章1節
メッセージ
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序
前回学んだ、6章13節にこう記されていました。「子供たちに語るようにわたしは言いますが、あなたがたも同じように心を広くしてください」。パウロは、福音を通し、キリスト・イエスにおいてコリントの信徒たちのもうけました(一コリント4:15参照)。そのような信仰の父親として、コリントの信徒たちに愛をもって語りかけるのです。今朝の御言葉も、信仰の父親としてパウロが、コリントの信徒たちに愛をもって語っている警告の言葉であるのです。
1 不釣り合いな軛につながれてはならない
14節から16節の前半までをお読みします。
あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣合いな軛につながれてはなりません。正義と不法にどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。キリストとベリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。
ここでパウロは信仰の父親として、コリントの信徒たちに、はっきりと警告しなくてはならないことを記しています。それは、「あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣合いな軛につながれてはなりません」ということです。「軛」とは、「下面に二つのくぼみをつけた頑丈な横木で作られた道具」のことです。この軛によって、二頭の家畜の首を固定し、車やすきを引かせたのです。ある研究者は、このパウロの言葉は、申命記22章10節を背景にしていると言っています。そこには、「牛とろばとを組みにして耕してはならない」と記されています。「牛とろばを組み合わせて軛につないではならないように、あなたがたは信仰のない人々と一緒に不釣合いな軛につながれてはならない」と言うのです。ここでの軛は「行動を共にすること」の比喩ですが、パウロはここで信仰のない人々とどのような行動を共にしてはならないと言っているのでしょうか。結論から申しますと、パウロは、コリントの信徒たちが、信仰のない人々と共に、異教の神々である偶像を礼拝してはならないと言っているのです。15節に、「キリストとベリアルにどんな調和がありますか」と記されています。「ベリアル」とは「空しいもの」の意味で、悪魔、サタンを指しています。正義と不法、光と闇、キリストとベリアル、信仰と不信仰、神の神殿と偶像とありますように、ここでパウロが問題にしている軛は、何よりも不法と、闇と、ベリアルと不信仰と偶像に象徴される異教の神々を礼拝することであるのです。
誤解のないように言いますが、パウロは、コリントの信徒たちに信仰のない人々、つまりイエス・キリストを信じていない人々と一切の行動を共にしてはならないと記しているのではありません。パウロは第一の手紙の5章9節から11節にこう記しています。新約の305ページです。
わたしは以前手紙で、みだらな者と交際してはいけないと書きましたが、その意味は、この世のみだらな者とか強欲な者、また、人の物を奪う者や偶像を礼拝する物たちと一切つきあってはならない、ということではありません。もし、そうだとしたら、あなたがたは世の中から出ていかねばならないでしょう。わたしが書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者がいれば、つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな、ということだったのです。
このようにパウロは、信仰のない人々と一切つきあってはならないとは言っていないのです。コリントの信徒たちは、そのように誤解したようですが、パウロは信仰のない人々とのつきあい、食事を共にすることを禁じてはいないのです。しかし、パウロは、信仰のない人々と一緒に異教の神々である偶像を礼拝してよいとは記しませんでした。パウロは、第一の手紙の10章14節から22節にこう記しています。新約の312ページです。
わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。わたしはあなたがたを分別ある者と考えて話します。わたしの言うことを自分で判断しなさい。わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。肉によるイスラエルの人々のことを考えてみなさい。供え物を食べる人は、それが供えてあった祭壇とかかわる者になるのではありませんか。わたしは何を言おうとしているのか。偶像に供えられた肉が何か意味を持つということでしょうか。いや、わたしが言おうとしているのは、偶像に献げる供え物は、神ではなく悪霊に献げている、という点なのです。わたしは、あなたがたに悪霊の仲間になってほしくありません。主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くことはできません。それとも、主にねたみを起こさせるつもりなのですか。わたしたちは、主より強い者でしょうか。
ここで、パウロは偶像崇拝を避けるように命じています。コリントはギリシャの都市であり、多くの神々が信じられていました。コリントには多くの神々の神殿があり、その神殿が社交場(ホール)として用いられていたのです。その食卓に、偶像に供えられた肉がならべられたのです。その偶像に供えられた肉について、パウロは長々と記してきたのですが、結論としては、偶像に供えられた肉は悪霊に供えられた肉であるから、偶像崇拝につながるので避けるべきであると記すのです。「主の食卓と悪霊の食卓に同時に着くことはできない。主の仲間であると同時に悪霊の仲間になることはできない」とパウロは記すのです。しかし、これはギリシャ人の考え方からすると、受け入れ難い考え方でした。ギリシャ人は世界には多くの神々がおり、すべての神々とうまく付き合っていくべきであると考えていたからです。ですから、アテネには、「知られざる神に」と刻まれた祭壇さえあったのです(使徒17:23参照)。イエス・キリストを信じていない多くの日本人も同じかも知れません。信仰のない日本人も多くの神々がいて、その多くの神々に仕えることを問題のないことと考えています。ですから、イエス・キリストを信じる私たちが、神社のためにお金を払ったり、その集まりに参加できないことをなかなか理解していただけないのです。けれども、「イエス・キリストは主である」と告白する私たちキリスト者は、信仰のない人々と一緒になって異教の神々を礼拝してはならないのです。それは、主にねたみを起こさせる行為であり、自らに滅びをもたらす行為であるのです(ヘブライ12:29「実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です」参照)。
では、今朝の御言葉に戻りましょう。新約の332ページです。
2 生ける神の神殿
16節後半から18節までをお読みします。
わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。そして、彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。だから、あの者どもの中から出て行き、遠ざかるように』と主は仰せになる。『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。』全能の主はこう仰せられる。」
パウロは、信仰のない人々と一緒に異教の神々を礼拝してはいけないと記しました。それは、イエス・キリストを信じる私たちが生ける神の神殿であるからです(一コリント3:16、6:19参照)。イエス・キリストを信じる私たちは、生ける神の神殿であるゆえに、死せる神々である偶像を拝んではならないのです。イエス・キリストは、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と言われました(マタイ18:20)。イエス・キリストの名によって集まる私たちの只中に、復活され天におられるイエス・キリストが聖霊において共にいてくださるのです(マタイ28:20参照)。そして、そのイエス・キリストと神様が共にいてくださるのです(マタイ1:23参照)。ですから、イエス・キリストの名によって集い礼拝をささげている私たちは、生ける神の神殿であるのです。そしてこのことは、旧約聖書において、神様が約束しておられたことでありました。16節から18節で、パウロは旧約聖書の御言葉を自由に引用しています。新共同訳聖書の巻末に付録として、「新約聖書における旧約聖書からの引用個所の一覧表」があります。その付録の50ページを見ますと、コリントの信徒への手紙二の6章16節から18節で、パウロがレビ記26章12節とエゼキエル書37章27節と、イザヤ書52章11節と、エゼキエル書20章34節と、サムエル記下の7章8節と14節から引用していることが分かります。今朝は、すべての個所を開いて確認することはしませんが、レビ記の26章12節だけを開いて確認したいと思います。旧約の205ページ。レビ記26章11節から13節までをお読みします。
わたしはあなたたちのただ中にわたしの住まいを置き、あなたたちを退けることはない。わたしはあなたたちのうちを巡り歩き、あなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。わたしはあなたたちが奴隷にされていたエジプトの国から導き出したあなたの神、主である。わたしはあなたの軛を打ち砕き、あなたたちがまっすぐに立って歩けるようにした。
この御言葉は、主がエジプトの奴隷の家から導き出したイスラエルの民に語られたものです。そして、この御言葉は、主イエス・キリストによって罪の奴隷状態から導き出された私たちにおいて最終的に実現したのです。主がイスラエルの民を導き出されたエジプトは、多くの神々が信じられていた悪霊の住み家とも言える所でした。主は悪霊の住み家とも言えるエジプトからイスラエルの民を導き出し、ご自分だけを崇めるご自分の民とされたのです。そして、主はそのイスラエルの民のただ中に住まわれ、巡り歩かれるのです。主イエス・キリストによって罪の奴隷状態から導き出された私たちにも同じことが言えます。私たちは、もろもろの悪霊の支配から導き出されて、イエス・キリストを信じる、生ける神の住まい、神殿とされたのです。
では、今朝の御言葉に戻ります。新約の332ページです。
3 完全に聖なる者となれ
7章1節をお読みします。
愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。
聖書の約束は、イエス・キリストを信じる私たちに与えられたものであります。私たちは、16節から18節に記されている神様の約束を持っているのです。それゆえ、パウロは、「肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう」と記すのです。私たちは、ここで、神の民とされたイスラエルの民が、偶像崇拝の罪を犯して、カナンの地からバビロンの地に奴隷として連れて行かれたことを思い起こしたいと思います。私たちが神様の約束を持っていること、それ自体が私たちの救いの保証ではありません。私たちは、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、すなわち、みだらな行いと偶像崇拝から遠ざかって、神様を畏れ、完全に聖なる者となることが求められているのです。生ける神の神殿として、神様に住んでいただき、巡り歩いていただいている者たちとして、私たちは、イエス・キリストを遣わしてくださった生けるまことの神様だけを礼拝して歩んでいきたいと願います。