新しく創造された者 2019年3月10日(日曜 朝の礼拝)

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5:16 それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。
5:17 だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。コリントの信徒への手紙二 5章16節~17節

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 今朝は、コリントの信徒への手紙二5章16節、17節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

1 だれをも肉に従って知ろうとはしない

 16節の前半をお読みします。

 それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。

 「それで」とありますように、16節は、前の文章を受けて記されています。16節の前、14節から15節で、パウロはこう記していました。「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」。私たちは、自分自身のためではなく、私たちに代わって死んで復活された方のために生きるものとされた。このように考える私たちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしない、こうパウロは記すのです。自分のためではなく、自分に代わって死んで復活された方のために生きるキリスト者は、人を評価する基準も変わってくるのです。「肉に従って」とは、「聖霊を与えられていない人間の基準によって」ということです。パウロは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしないと記しましたが、これは積極的に言えば、今後はだれをも聖霊に従って知ろうと言うことであります。このことは、パウロがコリントの信徒たちをどのような者として知っていたかを考えるとよく分かると思います。肉に従って、コリントの信徒たちを判断するならば、彼らは決して聖なる者とは言えないと思います。第一の手紙を読むと分かりますが、コリント教会には、分派争いがありました。牧師であるパウロを中傷する者たちがおりました。みだらな行いをする者がおりました。兄弟が兄弟を信仰のない人に訴えるという裁判沙汰がありました。娼婦と交わっている者がおりました。偶像の神殿で肉を食べて、信仰の弱い人々を躓かせる者たちがおりました。主の晩餐は一致よりも食べ物のうらみをもたらすものとなっていました。霊的な賜物(異言)を誇り、他の兄弟たちを見下す者たちがいました。復活を否定する者たちさえいたのです。そのような問題だらけのコリントの信徒たちに、パウロは何と言うのでしょうか。「あなたたちはそれでもキリスト者か。あなたたちはキリスト者失格だ」と言ったのではありません。そうではなくて、パウロは、コリントの教会にこう書き記したのです。コリントの信徒への手紙一1章1節から9節までをお読みします。新約の299ページです。

 わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。こうして、キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなったので、その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非の打ちどころのない者にしてくださいます。神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。

 どうして、パウロは、問題だらけのコリントの信徒たちに、このような言葉を書き送ることができたのでしょうか。それは、パウロが、コリントの信徒たちを肉に従ってではなく、霊に従って知っていたからです。すなわち、イエス・キリストによって聖なる者とされた人々として知っていたからです。

 では、今朝の御言葉に戻りましょう。新約の331ページです。

 「わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません」。このような態度は、自分自身のためではなく、キリストのために生きている私たちにも求められています。私たちは、この世の人間の基準によってではなく、イエス・キリストによって聖なる者とされたという霊の基準によって、互いを知ることが求められているのです。互いに、イエス・キリストに結ばれた者として、交わりを持つ。神様を父とし、イエス・キリストを長兄とする兄弟姉妹として交わりを持つ。「アッバ、父よ」と叫ぶ聖霊を与えられ、主の祈りを声を合わせて祈る者たちとして、交わりを持つ。そのような霊的な視点をもって、互いを評価し、交わりを持つことが求められているのです。

 このような霊的な視点は、イエス・キリストを信じていない人々へも向けられます。パウロは、イエス・キリストを信じていない人たちをも肉に従ってではなく、霊に従って知る者でありました。ですから、パウロは、だれよりも熱心に、福音を宣べ伝えたのです。パウロがイエス・キリストを信じていない人たちを、霊的な視点で見ていたことは、フィリピの信徒への手紙3章を読むとよく分かります。新約の365ページ。フィリピの信徒への手紙3章17節から20節をお読みします。

 兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。

 パウロは、涙を流して、福音を宣べ伝えました(使徒20:31参照)。それは、パウロが、イエス・キリストを信じない人たちを肉に従ってではなく、霊に従って評価していたからです。パウロは、イエス・キリストを信じない人たちの行き着くところは滅びであることを知っていました。イエス・キリストを信じない人たちは、自分の欲望を神とし、恥ずべきことを誇りとし、この世のことしか考えていません。彼らは、霊的な視点を持っておらず、肉に従って、自分の人生と世界を評価しているのです。しかし、パウロは、その彼らを、霊の視点をもって評価し、イエス・キリストの十字架を宣べ伝えたのです(霊の視点とは神様のまなざしのこと)。この霊の視点を、私たちもしっかり持って、福音を宣べ伝えていきたいと思います。多くの人は、自分を中心にして、この世のことしか考えずに生きています。ですから、多くの人は、イエス・キリストを信じようとはしません。もし、私たちが、彼らと同じこの世の人間の基準で考えるならば、福音を宣べ伝えることはできません。そして、ここに、私たちが涙を流して福音を語ることのできない理由があるのではないかと思うのです。多くの人が、人は死んだら誰でも天国に行けると、漠然と信じています。しかし、それは人間の願望であって、聖書が教える真理ではありません。そのような偽りの願望を、私たちは聖書の真理をもって打ち砕かねばならない。もちろん、その人が救われることを願って、その人を愛するゆえにです。神様の基準によって、人間を知っている私たちは、涙を流しながら、福音を宣べ伝えたいと思います。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の331ページです。

2 キリストを肉に従って知ろうとはしない

 16節の後半をお読みします。

 肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。

かつてパウロは、キリストの教会を迫害していました。それは、パウロが肉に従ってキリストを知っていたからです。パウロは、聖霊を与えられていない人間の基準でキリストを評価し、その弟子たちを迫害していたのです。そして、それは、イエス・キリストを信じない多くのユダヤ人の判断でもあったのです。イエス様は、最高法院によって神を冒涜する者と判断され、ローマの総督ポンテオ・ピラトの手に引き渡され、十字架に磔にされて死なれました。十字架につけられた者は、木にかけられた者であり、神に呪われた者と考えられていました。旧約聖書の申命記21章22節、23節にこう記されています。旧約の314ページです。

 ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた者は、神に呪われたものだからである。あなたは、あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を汚してはならない。

 パウロは、神様に呪われて死んだ者が、約束のメシア・救い主であるはずがないと判断して、イエス様を信じる者たちを迫害していたのです。しかし、そのパウロが、肉に従ってではなく、霊に従ってイエス・キリストを知ることになるのです。そのことが、使徒言行録の9章に記されています。新約の229ページです。使徒言行録の9章1節から9節までをお読みします。

 さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。

 このように、パウロは、復活されたイエス・キリストとまみえることによって、肉に従ってではなく、霊に従って、キリストを知る者とされたのです。復活されたイエス・キリストに出会ったパウロは、イエス・キリストの十字架の死を聖霊によって理解する者とされます。その霊的な理解が、ガラテヤ書の3章13節に記されています。新約の345ページです。

 キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられている者は皆呪われている」と書いてあるからです。

 十字架と復活の主イエスに出会い、霊に従ってキリストを知る者とされたパウロは、キリストが律法の呪いの死を死なれたのは、御自分の民を律法の呪いから贖い出すためであったことを理解する者となったのです。そのようにして、パウロは、新しく造られた者となったのです。

 今朝の御言葉に戻りましょう。新約の331ページです。

3 新しく創造された者

 17節をお読みします。

 だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。

 キリストを肉に従ってではなく、霊に従って知っている人は、「キリストに結ばれている人」と言えます。「キリストに結ばれている人」とは、「キリストと信仰によって結ばれている人」、「キリストと聖霊によって結ばれている人」のことです。この17節の御言葉は、イザヤ書を背景にして記されています。イザヤ書の65章17節、18節にこう記されています。旧約の1168ページです。

 見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はいない。それはだれの心にも上ることはない。代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍る者として/その民を喜び楽しむものとして、創造する。

 新しい天と新しい地は、ヨハネの黙示録が記しているように、イエス・キリストの再臨によってもたらされますが、復活されたイエス・キリストは、その新しい創造の初穂と言えます。復活されたイエス・キリストこそ、新しい天と新しい地に住む新しいアダム、新しい人類の源であるのです。そのイエス・キリストに結ばれている人は、誰でも新しく造られた者であるとパウロは記すのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の331ページ。

 私たちが用いている新共同訳聖書は、訳出していませんが、「新しいものが生じた」という言葉の前に、「見よ」という言葉が記されています。「古いものは過ぎ去り、見よ、新しいものが生じた」。この「見よ」という言葉は、新しいものを生じさせるのが神様であることを教えています(イザヤ43:19「見よ、わたしは新しいことを行う」参照)。神様は、イエス・キリストを信じる人を、誰でも新しいものとしてくださるのです。そして、その新しい人は、御言葉と聖霊に従って、自分が何者であるかを判断するようになるのです。神様は、独り子を与えられたほどに、私を愛してくださったし、今も愛してくださっている。それゆえ、私は、神様に喜んでいただけるように生きていきたい。そのように願い生きる者として、神様は、イエス・キリストにあって、私たちを新しく創造してくださったのです。

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