キリストの愛に駆り立てられて 2019年3月03日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

5:11 主に対する畏れを知っているわたしたちは、人々の説得に努めます。わたしたちは、神にはありのままに知られています。わたしは、あなたがたの良心にもありのままに知られたいと思います。
5:12 わたしたちは、あなたがたにもう一度自己推薦をしようというのではありません。ただ、内面ではなく、外面を誇っている人々に応じられるように、わたしたちのことを誇る機会をあなたがたに提供しているのです。
5:13 わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。
5:14 なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。
5:15 その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。コリントの信徒への手紙二 5章11節~15節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、コリントの信徒への手紙二の5章11節から15節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

1 ありのままに知られたい

 11節から12節までをお読みします。

 主に対する畏れを知っているわたしたちは、人々の説得に努めます。わたしたちは、神にはありのままに知られています。わたしは、あなたがたの良心にもありのままに知られたいと思います。わたしたちは、あなたがたにもう一度自己推薦をしようというのではありません。ただ、内面ではなく、外面を誇っている人々に応じられるように、わたしたちのことを誇る機会をあなたがたに提供しているのです。

 11節に、「主に対する畏れを知っているわたしたち」とありますが、この「主に対する畏れ」は、直前の10節を受けてのものです。パウロは、10節でこう記していました。「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けなければならないからです」。パウロは、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないことを知っている者として、主を畏れ、人々の説得に努めたのです。神様は世の終わりに全ての人を裁かれる。そして、神様は、その裁きを御子イエス・キリストにゆだねられた。このことを知っているゆえに、パウロは、人々に、イエス・キリストを神の御子、救い主と信じて歩むよう説得に努めたのです。このことは、信徒言行録17章に記されているアテネの説教で、パウロが言っていることですね。パウロは、アテネの人たちにこう言いました。「さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです」(使徒17:30、31)。ここでパウロは、神様がイエス・キリストを死者の中から復活させられたのは、イエス・キリストによって、この世を正しく裁かれることを確証するためであったと語っています。神様は、イエス・キリストによって、この世を正しく裁く日を定めておられる。それゆえ、神様は、どこにいる人でも皆、悔い改めるようにと命じておられるのです。この神様の御心に従って、パウロは、イエス・キリストの使徒として、人々の説得に努めているのです。そして、このことは、パウロだけではなくて、イエス・キリストの使徒的教会である私たちにも言えます。私たちは、復活されたイエス・キリストが世界を正しく裁かれると信じて、すべての人に、イエス・キリストのもとに立ち帰るよう説得しているのです。

 続けてパウロは、「わたしたちは、神にはありのままに知られています。わたしは、あなたがたの良心にもありのままに知られたいと思います」と記しています。「わたしたちは、神にはありのままに知られています」。同じことが、私たちにおいても言えます。神様は、私たちのことを、私たち自身よりも知っておられる。神様は、私たちをありのままに知っておられるのです。だからこそ、神様は、私たちを正しく裁くことができるのですね。パウロは、神様にありのままに知られているように、コリントの信徒たちの良心にもありのままに知られたいと記します。これは言い換えれば、ありのまま以下のものにも、ありのまま以上のものに見られたくないということです。ありのまま以下のものに見られたくないことについては、パウロは何度も記してきました。コリントの教会のある人々は、パウロが不誠実で、信頼できない人間であると中傷していました。そのような中傷に対して、パウロは自分が誠実で、信頼できる人間であると主張してきたわけです(二コリント1:12~14参照)。パウロの自己弁護の言葉は、コリントの信徒たちにありのままに知ってほしいという願いに基づくものであったのです。また、パウロは、ありのまま以上に見られることをも願いませんでした。パウロは、この手紙の12章で、第三の天にまで引き上げられた体験を記していますが、そのことを誇らない理由としてこう記しています。「仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれないし、また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです」(二コリント12:6)。このようにパウロは、ありのまま以上に見られること、過大評価されることも願ってはいないのです。パウロが願っていること、それは神様にありのままに知られているように、コリントの信徒たちの良心にもありのままに知られることであるのです。

 それは、「もう一度自己推薦をする」ということではありません。パウロが、自分たちについて記すのは、ただ内面ではなく、外面を誇っている人々に応じられるように、パウロたちのことを誇る機会をコリントの信徒たちに提供するためであるのです。コリント教会のある人々は、パウロが使徒であることを疑っていました。その背後には、エルサレムから来た偽使徒たちがいたのです(二コリント10~13章参照)。その偽使徒たちが、ここでは、「内面ではなく、外面を誇る人々」と言われています(元の言葉を直訳すると「心ではなく、顔を誇る人々」となる)。神様はうわべではなく、心を見られる御方でありますが、偽使徒たちは、心ではなくうわべを誇っていたのです(サムエル上16:7「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」参照)。偽使徒たちは、自分たちがエルサレム教会からの推薦状を持っていることや雄弁に語ることができることを誇っていました。また、偽使徒たちは自分たちがヘブライ人であり、イスラエル人であり、アブラハムの子孫であることを誇っていたのです(二コリント11:22参照)。そのような彼らから、「パウロはイエス・キリストの使徒ではない」と言われたときに、コリントの信徒たちは言い返せなかったわけですね。そのようなことがないように、「パウロこそ、イエス・キリストの使徒である」と言い返すことができるように。自分たちは、イエス・キリストの使徒パウロによって、福音を聞いて信じたのだと誇ることができるように、パウロは何度も、自分たちについて記すのです(二コリント2:14参照)。

2 キリストの愛に駆り立てられて

 13節から15節までをお読みします。

 わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。

 13節に「わたしたちが正気でないとするなら」とありますが、口語訳聖書は、「もしわたしたちが、気が狂っているのなら」と訳していました。コリント教会のある者たちが、パウロは気が狂っていると中傷していたのでしょう。そのような中傷を背景にして、「わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです」と記すのです。確かに、パウロは気が狂ったように福音宣教に取り組みました(二コリント11:23~29参照)。しかし、実際に福音を人々に宣べ伝えるときは、正気で、理性の言葉で、宣べ伝えたのです(一コリント14:19参照)。なぜ、パウロは気が狂っていると中傷されるほどに、福音宣教に取り組むことができたのでしょうか。それは、キリストの愛がパウロたちを駆り立てているからです。キリストの愛がパウロたちに強く迫っているので、そうせずにはおれないと言うのです(口語訳参照)。

 14節に、「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の人がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります」とあります。この14節を、岩波書店から出ている新約聖書は次のように翻訳しています。「事実キリストの愛が、〔次のように〕判断している私たちを、しっかりと捕らえている。〔すなわち〕一人の人がすべての者のために死んだのであり、それゆえにすべての者は死んだのである、と」。この岩波書店から出ている新約聖書の方が、もとの言葉に近いのです。キリストの愛は、このように考えるパウロたちを駆り立てるのです。キリストの愛が駆り立てるから、このように考えるのではなくて、このように考えるからこそ、パウロたちをキリストの愛が駆り立てるのです。

 では、パウロたちは、どのように考えるのでしょうか。「一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」。イエス・キリストがすべての人ために死んでくださった。そうであれば、すべての人も死んだことになる。これはどういう理屈でしょうか。ここで注意したいことは、「すべての人」が文字通りのすべての人、全人類ではなく、「多くの人」を意味しているということです。また、ここでの「死」が単なる肉体の死ではなく、罪の刑罰としての死、律法違反者としての呪いの死であるということです。イエス様が、人の子は「多くの人の身代金として自分の命をささげるために来た」と言われたように、イエス様は多くの人の贖いとして、十字架のうえで御自分の命をささげられたのです(マタイ20:28)。また、イエス様の贖いの死を預言しているイザヤ書53章にもこう記されています。「彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った」(イザヤ53:11)。このように、イエス様は、文字通りのすべての人ではなくて、御自分の民である多くの人のために死んでくださったのです。そして、その目的は、「生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きること」であるのです。自分自身のために生きる。これがアダムにあって創造の状態から堕落した人間の姿です。アダムの子孫として生まれた私たちは、自分を神とし、自分自身のために生きる者でありました。しかし、そのような私たちが、イエス・キリストのために生きる者となるために、イエス・キリストは私たちを愛して十字架の死を死んでくださったのです(ガラテヤ2:20参照)。「イエス・キリストのために生きる」というとき、福音を宣べ伝えることを抜きにして考えることはできません。なぜなら、イエス・キリストはここに集っている私たちだけではなく、まだ教会に加わっていない多くの人のためにも死んでくださったからです。このことは、イエス様御自身が教えておられることでもあります。イエス様は、ヨハネによる福音書の10章でこう言われました。「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:10,11)。さらに、こうも言われました。「わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かねばならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(ヨハネ10:15,16)。イエス様は、私たちが神様に対して生きる者となるために、御自分の命を捨ててくださいました。また、イエス様は、まだこの教会に集っていない多くの人を愛して、その多くの人のためにも死んでくださったのです。このように考える私たちに、キリストの愛は強く迫るのです。キリストは私のために死んでくださった。私だけではなく、多くの人のためにも死んでくださった。そのように考えるとき、私たちはキリストの愛に駆り立てられて、福音を宣べ伝えずにはおれなくなるのです。私たちの主イエス・キリストの愛こそが、私たちを福音宣教へと駆り立てる正しい動機付けであり、原動力であるのです。

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