見えないものに目を注ぐ
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- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書 コリントの信徒への手紙二 4章16節~18節
4:16 だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。
4:17 わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。
4:18 わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。コリントの信徒への手紙二 4章16節~18節
序
今朝は、コリントの信徒への手紙二の4章16節から18節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1 私たちの内なる人
16節をお読みします。
だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの外なる人は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。
パウロは、4章1節で、「こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません」と記しておりました。今朝の16節でも、パウロは「わたしたちは落胆しません」と記しています。どうして、パウロたちは、失望してがっかりしないのでしょうか。その理由が、前回学んだ14節、15節に記されています。「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです」。パウロは、主イエスを復活させた神が、パウロたちとコリントの信徒たちをイエス様と同じように、復活させてくださることを知っておりました。また、パウロは、福音宣教の目的が、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神様に栄光を帰すようになるためであることを弁えていたのです。これらのことのゆえに、パウロは、私たちは落胆しない。私たちは失望して、がっかりすることはないと記すのです。もし、私たちの中に、今、落胆している人がいるならば、14節、15節の御言葉をよく味わっていただきたいと思います。私たちの身の回りには、私たちを落胆させるような出来事が起こります。けれども、主イエスを復活させた神様を信じる私たちは、最後には、イエス様と同じように復活させられ、一緒に神様の御前に立つことができるのです。ある人は、「キリスト者の人生は必ずハッピーエンドである」と申しました。そのことを想い巡らすとき、私たちは、パウロと共に、「落胆しません」と語ることができるのです。また、私たちの教会の営み、福音宣教においても、私たちは落胆することがあるかも知れません。わたしが牧師として赴任したのは2003年ですが、その頃に比べて、礼拝出席者数は減っています。天に召された兄弟姉妹もおりますし、高齢のために礼拝に出席できない兄弟姉妹もおられます。進学や就職の関係で他県に引っ越した兄弟姉妹もおられます。何よりもイエス・キリストを信じて、洗礼を受ける方がなかなか起こされません。そのような現状を顧みるとき、私たちは落胆してしまうかも知れません。けれども、私たちが教会に集い、礼拝をささげ、福音を宣べ伝えているのは、私たち自身が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神様をほめたたえるためであるのです。福音宣教の目的は、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰するようになるためですが、その「多くの人々」の中に私たち自身が含まれているのです。
続けて、パウロは、「たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます」と記します。「わたしたちの外なる人」とは、アダムの子孫として地上に生まれて、生活を営んでいる人のことです。パウロは、この時およそ60歳であり、持病もあったようですから、外なる人の衰えを実感していたことでしょう。皆さんの中にも、そのことを実感している方がおられるかも知れません。では、「わたしたちの内なる人」とは何でしょうか。それは、イエス・キリストを信じたことにより、私たちの内に形づくられている新しい人のことです。パウロは、3章18節でこう記していました。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと主と同じ姿に造りかえられていきます。これは、主の霊の働きによることです」。聖霊は、私たちを栄光から栄光へと、主イエスと同じ姿に造りかえてくださっている。これが私たちの内なる人であります。パウロは、「わたしたちの内なる人は日々新たにされていきます」と記していますが、それは具体的にはどのようなことなのでしょうか。そのことを知る手がかりが、エフェソの信徒への手紙3章に記されているパウロの祈りの言葉にあります。新約の355ページです。エフェソの信徒への手紙3章14節から19節までをお読みします。
こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。
聖霊は、信仰によって、私たちの心にキリストを住まわせ、愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者とすることによって、私たちの内なる人を強めてくださいます。私たちの内なる人はキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解することにより、日々新たにされていくのです。
では、今朝の御言葉に戻ります。新約の329ページです。
2 重みのある永遠の栄光
17節をお読みします。
わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。
パウロは、「わたしたちの一時の軽い艱難」と記しています。ちなみに、「艱難」とは「困難に出会って苦しみなやむこと」を言います(広辞苑)。パウロは、福音を宣べ伝えるために、多くの困難に出会って苦しみ悩みました。そのパウロの艱難が、11章23節以下に記されています。新約の338ページ。11章23節から29節までをお読みします。
キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、わたしは彼ら以上にそうなのです。苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度、鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。
パウロは、福音を宣べ伝える使徒として、このように多くの厳しい艱難を耐えてきたのです。
では、今朝の御言葉に戻ります。新約の329ページです。
パウロは福音を宣べ伝えるために、多くの厳しい艱難を耐えてきました。しかし、その艱難を、今朝の御言葉では、「わたしたちの一時の軽い艱難」と記しています。それは、やがてあずかることになる重みのある永遠の栄光と比べているからです。「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほどの重みのある永遠の栄光をもたらす」。ここに、パウロが多くの厳しい艱難に耐えながら、福音を宣べ伝えることができた秘訣があるのです。「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」。これは、イエス様が山上の説教において、教えられたことでもあります。イエス様は、マタイによる福音書の5章10節から12節でこう仰せになりました。「義のために迫害される人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」。パウロは、天の大きな報いに目を向けていたゆえに、イエス様のための艱難を耐えることができたのです。そして、この天の大きな報いこそ、天の御国であるのです。イエス・キリストのために苦しむ私たちは、イエス・キリストと共に、栄光の御国を受け継ぐことになるのです(ローマ8:17参照)。
3 見えないものに目を注ぐ
18節をお読みします。
わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。
パウロは、「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」と記しましたが、そのように記すことができたのは、パウロが見えるものではなく、見えないものに目を注いでいたからです。見えるものではなく、見えないものに目を注いで生きる。これこそ、内なる人の姿勢であり、信仰者のあるべき姿と言えます。なぜなら、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」だからです(ヘブライ11:1参照)。私たちは、イエス・キリストを信じる信仰によって、すべての罪を赦され、正しい者とされています。また、イエス・キリストの聖霊を与えられて神の子とされ、栄光の御国を受け継ぐ者とされています。しかし、このようなことを目に見ることはできません。私たちは、イエス・キリストを信じて、聖霊を与えられ、新しい契約の祝福に生かされておりますが、そのようなことも目に見ることはできません。私たちは、その目に見えないものに目を注いで、信仰をもって歩んでいるのです。
このように神様の救いや祝福は見ることはできないのですが、そもそも神様を私たちは見ることができません。イエス様が「神は霊である」と言われたように、神様は目に見ることはできません(ヨハネ4:24)。パウロも、テモテへの手紙一6章で、次のように記しています。「神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です」(一テモテ6:15、16)。神様は霊であり、だれ一人見たことがなく、見ることのできないお方であります。その神様が、聖書を通して、また聖書の証するイエス・キリストを通して、御自身を現してくださいました。それゆえ、私たちは、神様を、聖書の言葉によって、聖書が証しするイエス・キリストによって人格的に知ることができたのです。そして、それが神様の御心に適うことであったのです。サムエル記上16章7節に、「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」という有名な御言葉があります。神様が見られるのは、私たちの容姿ではなく、心であるのです。そのような神様は、私たちに人間にも、目に映ることによってではなく、心によって知ってほしいと願っておられるのです。ですから、神様は目に見える仕方によってではなく、御言葉を聞かせることによって、ご自身をお示しになられたのです。それは、御言葉の源にある御心を私たち人間が知るためであるのです。しかも神様は、天から御声を響かせるというような仕方ではなくて、土の器である私たちを通して御言葉を語らせることをよしとされたのです。(一コリント1:21参照)。
「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます」。私たちが、このパウロの言葉を実践している場が、礼拝であります。私たちは、この地上で、見えない神様に目を注いで礼拝をささげているのです。しかし、私たちは、いつまでも神様を見ることができないのではありません。イエス・キリストが再び来られることによって実現する新しい天と新しい地において、私たちは神様を見ることができるのです。そのことを聖書から確認して、今朝は終わりたいと思います。コリントの信徒への手紙一13章12節で、パウロはこう記しています。新約の317ページです。
わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知ることになる。
また、私たちは、イエス様をもありのままに見ることができます。ヨハネの手紙一3章2節にこう記されています。新約の443ページです。
愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。
私たちはイエス様を見ないで信じておりますが、やがてはイエス様をありのままに見ることになるのです。私たちは、新しい天と新しい地において、神様とイエス様の御顔を見て、礼拝をささげることができるのです。ヨハネの黙示録22章3節にはこう記されています。新約の479ページです。
神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。
このように新しいエルサレムにおいて、私たちは、神様とイエス様の御顔を仰ぎ見ることができるのです。私たちは、このような約束をいただいている者たちとして、永遠に存在する見えない御方に目を注いで歩んでいきたいと願います。