土の器の中にある宝 2019年2月10日(日曜 朝の礼拝)
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土の器の中にある宝
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- 村田寿和 牧師
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コリントの信徒への手紙二 4章7節~15節
聖書の言葉
4:7 ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。
4:8 わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、
4:9 虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。
4:10 わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。
4:11 わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。
4:12 こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります。
4:13 「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。
4:14 主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。
4:15 すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。コリントの信徒への手紙二 4章7節~15節
メッセージ
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序
今朝は、コリントの信徒への手紙二の4章7節から15節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。
1 土の器の中にある宝
7節をお読みします。
ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。
「このような宝」とは、パウロが宣べ伝えている「福音」のことであります。また、「土の器」とは、福音を宣べ伝えているパウロ自身のことです。土の器とは、価値の無い、みすぼらしい、壊れやすい器ということです。「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています」。このパウロの言葉は、コリントの信徒たちが、パウロの姿に、神の栄光を見ることができなかったことを背景としているようです。パウロは、イエス・キリストの福音を宣べ伝えることを、モーセの栄光に遙かに優れた栄光に満ちた務めであると記しました。しかし、福音を宣べ伝えるパウロを見ても、栄光に輝いているようには見えなかったのです。この手紙の10章10節で、パウロはこう記しています。「わたしのことを、『手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない』という者たちがいるからです」。また、パウロは、12章でこう記しています。「わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないようにと、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです」。パウロは、どうやら何らかの病気を患っていたようです(ガラテヤ4:13~15参照)。福音を宣べ伝える務めは、モーセより優れた栄光を帯びていると言うけれども、パウロは、弱々しくて、病気を患っているではないか。さらには、いつも迫害に遭い、貧しい暮らしをしているではないか。そのような者がモーセより優れた栄光を帯びた福音を宣べ伝えていると言えるのだろうか。そのような非難があったようなのですね。しかし、パウロは、自分が無価値で、みずぼらしい、壊れやすい土の器であることを否定はしません。確かに、自分は土の器である。しかし、その土の器の中に、福音という宝を納めることが、神様の御心であると言うのです。「この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」、神様は、土の器である自分に福音を宣べ伝える務めを与えてくださったのだと言うのです。「並外れて偉大な力」とは、福音が持つ力のことですね。パウロは、ローマの信徒への手紙1章16節、17節で、こう記しています。「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力である。この福音の偉大な力は神の力であって、それを宣べ伝えるパウロたちから出たものではない。そのことをはっきりと示すために、神様は、土の器であるパウロに、また私たちに、宝である福音を納めることをよしとされたのです。
2 イエスの命がこの体に現れるために
8節から12節までをお読みします。
わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。こうして、わたしたちの内に死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります。
パウロは、ここで福音宣教者としての苦難を記しています。パウロは、福音を宣べ伝える者として、四方から苦しめられ、途方に暮れ、虐げられ、打ち倒されたのです。しかし、パウロは、福音を宣べ伝えることを止めたわけではありません。パウロは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされませんでした。それは、パウロの苦難がイエス様の死に通じる苦しみであり、その苦しみによってイエス様の命が現れるためであったのです。パウロを非難する人たちが、パウロはイエス・キリストの使徒としてふさわしくないと考えたのも、パウロが、至るところで苦しめられ、途方に暮れ、虐げられ、打ち倒されていたからです。このようなことを含めて、パウロは自分のことを、価値の無い、みすぼらしい、壊れやすい土の器であると言ったのです。しかし、その土の器は壊されてしまうことはない。むしろ、そのような苦難を通して、土の器の中にある宝が輝き出るのだと言うのです。この場合の「宝」は「福音」というよりも、「イエス様の命」であります。土の器である私たちは、「福音」という宝だけではなく、「イエス様の命」という宝をも納めているのです(二コリント13:5参照)。そして、このイエス様の命は、イエス様の死のさま(死につつある状態)を体に担うときに、この体に現れるのです。一つの具体例を挙げてみたいと思います。使徒言行録の14章に、パウロとバルナバがリストラで福音を宣べ伝えたことが記されています。そこには、リストラの人々が、バルナバをゼウスと呼び、パウロをヘルメスと呼んで、いけにえをささげようとしたことが記されています。パウロとバルナバは、群衆を説得して、自分たちにいけにえをささげることを、やっとやめさせることができました。その続きとしてこう記されているのです。「ところが、ユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやって来て、群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って、町の外へ引きずり出した。しかし、弟子たちが周りを取り囲むと、パウロは起き上がって町に入って行った。そして翌日、バルナバと一緒にデルベへ向かった」(使徒14:19、20)。ここに、イエス様の死のさまを体に担うパウロの姿と、イエス様の命を体に現すパウロの姿がよく描かれています。なぜ、パウロは苦しめられても、行き詰まらずにいることができたのか。それは、パウロの苦しみがイエス様の死のさまを担う苦しみであり、その苦しみを通してこそ、イエス様の命が自分の体に現れることを知っていたからです。
11節に、「わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために」と記されています。これがイエス・キリストの福音という宝を納める土の器の生き方です。パウロは、命がけでイエス・キリストの福音を宣べ伝えました。パウロは、絶えずイエス様のために、自らを死に引き渡していたのです(一コリント15:31参照)。それは、死ぬはずのパウロの身に、イエス様の命が現れるためであったのです。イエス様の死とイエス様の命は、一体的な関係にあります。イエス様の十字架の死と復活が一体的な関係にあるように、私たちがイエス様のために死に渡されることと、私たちの身にイエス様の命が現れることは一体的な関係にあるのです。
パウロは、12節で、「こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります」と記しています。これは、パウロの福音宣教によって、コリントの信徒たちがイエス・キリストを信じた事実を言い表したものです。パウロは、絶えずイエス様のために死に渡されながら、コリントで福音を宣べ伝えました。そして、そのパウロの福音宣教によって、コリントの信徒たちはイエス・キリストを信じて、命を得たのです。コリントの信徒たちがイエス様の命に生きることができるのは、パウロがイエス様のために死に渡されて福音を宣べ伝えてくれたからなのです。同じことが、私たちにおいても言えます。私たちは今、イエス様の命に生かされています。私たちの内にはイエス様の命が働いているのです。しかし、その背後には、絶えずイエス様のために死に渡されて福音を宣べ伝えた人々がいたのです(命がけで、日本に来た宣教師たち)。
3 信じたことを語る信仰の霊
13節から15節までをお読みします。
「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。
「わたしは信じた。それで、わたしは語った」とは、ギリシャ語訳旧約聖書の詩編116編10節からの引用です。「わたしは信じた。それで、わたしは語った」。この御言葉は、信じることと語ることが一体的な関係にあることを教えています。その詩人に働いたのと同じ信仰の霊をもっているからこそ、パウロは自分たちも信じ、語っていると記すのです。このことは、私たちにもよく分かることではないかと思います。イエス様を信じたならば、誰かに伝えずにはおられない。そのような思いを私たちも知っていると思います。それは、私たちにも、詩人と同じ信仰の霊が与えられているからなのです。
ここで注意したいことは、「信じたことを、語った」と記されていることです。私たちは信じていないことを語るのではありません。私たちが信じたこと、私たちがイエス様と人格的に出会い、イエス様との命の交わりに生かされているという信仰の体験を語るのです。イエス・キリストの福音は、誰でも語れるものではありません。イエス・キリストを信じて、その命の交わりに生かされている私たちだけが語ることができるのです。
パウロは、8節で「途方に暮れても失望せず」と記しておりましたが、14節では、パウロの福音宣教を支えた希望が記されています。「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています」。この信仰こそ、パウロの福音宣教を支えた希望です。主イエス・キリストを復活させた神様が、イエス様を復活させられたように、私たちをも復活させてくださる。私たちは、復活して、イエス様の前に、共に立つことができる。地上の生涯を終えて、天に召された兄弟姉妹と共に、栄光の体で、イエス様の前に立つことができるのです。そのことを信じているからこそ、私たちは途方に暮れても失望せずに、福音を宣べ伝えることができるのです。
15節には、パウロの福音宣教の目的が記されています。「すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです」。パウロは、多くの人が豊かに恵みを受けるために、多くの人々が感謝の念に満ちて神様に栄光を帰すようになるために、福音を宣べ伝えました。これこそ、私たちがイエス・キリストを信じる者とされ、福音を宣べ伝えている目的です。私たちは、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神様に栄光を帰するようになるために、福音を宣べ伝えているのです。そのために、神様は、土の器である私たちに、福音を、イエス・キリストの命を、与えてくださったのです。