神の栄光を悟る光 2019年2月03日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

4:1 こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。
4:2 かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます。
4:3 わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。
4:4 この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。
4:5 わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。
4:6 「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。コリントの信徒への手紙二 4章1節~6節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、コリントの信徒への手紙二4章1節から6節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。

1 憐れみを受けた者として

 1節、2節をお読みします。

 こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます。

 パウロは、「私たちは落胆しません」と記します。「落胆」とは「失望してがっかりすること」です(広辞苑)。パウロは、「私たちは、失望してがっかりするようなことはない」と記すのです。なぜなら、パウロは、「憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられている」からです。「この務め」とは、3章に記されていたように、新しい契約に仕える務めであり、霊に仕える務めであります。エレミヤとエゼキエルが預言していた新しい契約は、イエス・キリストにおいて実現しました。イエス・キリストは、御自分を信じる者たちに聖霊を与え、新しい契約の祝福にあずかる者としてくださったのです。この福音、良き知らせを宣べ伝えるために、イエス・キリストは、パウロを使徒とされたのです。パウロは、自分が憐れみを受けた者として、福音を宣べ伝える者とされたと記していますが、このことは、テモテへの手紙一にも記されています。テモテへの手紙一1章12節から17節までをお読みします。新約の384ページです。

 わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。以前、わたしは神を冒瀆する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

 かつてのパウロは、神を冒瀆する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。パウロは、神様に仕えているつもりで、キリストの教会を迫害していたのです。そのパウロを、神様は憐れんでくださって、イエス・キリストの福音を宣べ伝える者としてくださったのです。16節の後半に、「手本となるためでした」とありますが、これはむしろ「見本」と訳すべきであると思います。神を冒瀆する者、迫害する者、暴力を振るう者をも、イエス・キリストは憐れんで救ってくださる、その見本、サンプルとして、パウロは救われたのです。つまり、イエス・キリストの憐れみからもれている人は、誰もいないということを示すために、パウロは憐れみを受け、救われたのです。そのような者として、パウロは、神様をほめたたえているのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の329ページです。

 パウロは、イエス・キリストの福音を宣べ伝えるために、多くの苦しみを体験しました(11章参照)。しかし、パウロが「落胆しません」と記すことができるのは、神様の憐れみによって、栄光ある務めをゆだねられているからです。福音宣教のための労苦に思いを向けるならば、落胆してしまうことでしょう。しかし、パウロは、神様が自分を憐れんで、イエス・キリストの福音を宣べ伝える栄光ある務めをゆだねてくださったことに思いを向けているゆえに、落胆しませんと言い切ることができたのです。

 パウロは、神様の憐れみによって、栄光ある務めをゆだねられている者として、「卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます」と記します。このパウロの言葉の背景には、パウロを中傷する者たちの主張があるようです。彼らは、パウロが卑劣な隠れた行いをしている、悪賢く歩んでいる、神の言葉を曲げて教えていると中傷していたようです。そのことを踏まえつつ、パウロは、かえってそのようなことはせず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます」と記すのです。ここで「ゆだねます」と訳されている言葉は、「推薦する」とも訳すことができます。3章1節に、「わたしたちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか」とありましたが、それと同じ「推薦する」という言葉が記されているのです。新改訳聖書にはこう記されています。「真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています」。これは、パウロが使徒であることを疑う者たちに対する答えですね。恥ずべき隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦する。その私たちの推薦を受け入れてほしい。いや、私たちから神の言葉の真理を聞いて信じたあなたたちは、私たちの推薦を受け入れたはずではなかったか、とパウロは記しているのです。

2 神の似姿であるキリストの栄光

 3節、4節をお読みします。

 わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。

 パウロは、3章14節で、イエス・キリストを信じないユダヤ人の心に覆いが掛かっていると記しました。ここでは、イエス・キリストの福音を聞いても信じない異邦人のことが言われているようです。パウロは、憐れみを受けた者として、イエス・キリストの福音を宣べ伝えました。すべての人が信じたのではありません。福音を信じない人もいたのです。パウロが誰に対しても福音に覆いを掛けるようなことはしませんでした。しかし、滅びの道をたどる人は、自分の心に覆いを掛けてしまっているのです。そして、そのことは、究極的には、「この世の神」の仕業であるのです。「この世の神」とは、悪魔とか、サタンとか呼ばれる者のことです。悪魔が「この世の神」と呼ばれるのは、聖書でここだけです。しかし、それに近い言い方はあります。例えば、ヨハネによる福音書で、イエス様は、悪魔のことを「この世の支配者」と呼んでいます(12:31、16:11参照)。ヨハネの手紙一には、「この世全体が悪い者の支配下にあるのです」と記されています(一ヨハネ5:19)。悪魔は堕落した天使であり、神様と等しい者ではありません。悪魔は被造物であり、神様の御許しの中で活動しているに過ぎないのです。その悪魔が、この世の支配者と言われるのは、なぜか。悪魔はどのようにして、この世の支配者となったのでしょうか。それは、はじめの人アダムを惑わし、罪を犯させるということによってでありました。創世記の3章を見ますと、エデンの園で、アダムとエバが神様の掟に背いて罪を犯したことが記されています。神様は、アダムに一つの掟を与えられました。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と神様は、アダムに命じられたのです(創世2:16、17)。その神様の言葉を曲げて、悪魔は蛇の姿で、アダムの助け手である女を誘惑したのです。蛇は、女にこう言うわけです。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」(創世3:4)。この蛇の言葉を真に受けて、エバは禁じられていた木の実を食べ、アダムも食べたのです。そのようにして、人間は悪魔の支配下に自ら入って行ったのです。神様は、人間を御自分の形に似せて造られました。それは、人間が神様の御心に従って、世界を治めるためであったのです。しかし、その人間が悪魔の言葉に惑わされ、罪を犯したことにより、悪魔の支配下に置かれてしまったのです。人間は、神に逆らう者として、悪魔の仲間となってしまったわけです。そのようにして、悪魔は、この世の支配者となったわけです。その悪魔が、信じようとしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしているのです。肉の欲や目の欲や生活のおごりによって、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光を見えないようにしているのです(一ヨハネ2:16参照)。

 「神の似姿であるキリストの栄光に関する福音」とありますが、キリストが神の似姿であるという時、イエス・キリストの神性(神の性質)と人性(人の性質)の両方から考える必要があると思います。イエス・キリストは、神の永遠の御子が、おとめマリアの胎に宿り、人としてお生まれになったお方です。イエス・キリストは、その神性において、神と等しいお方、神の栄光そのものであるのです。また、人性について言えば、本来、人は神の形に似せて造られており、神の栄光を表す者でありました。しかし、はじめの人アダムの堕落によって、人の神の形は歪められてしまいました。神様に従うよりも、かえって背く者となってしまったのです。しかし、第二のアダムであるイエス・キリスト、聖霊によっておとめマリアから生まれたイエス・キリストは、歪められていない神のかたちを持っておられるのです。それゆえ、神の御子であり、第二のアダムであるイエス・キリストこそ、神の似姿であり、神の栄光を輝かせるお方であると言えるのです(ヨハネ14:9「わたしを見た者は父を見たのだ」参照)。悪魔は、信じようとはしない人々の心に、覆いをかけることにより、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。それは、パウロの時代だけではなくて、今も同じです。悪魔は、今も、信じようとはしない人々の心に、覆いを掛けて、福音の光が見えないようにしているのです。

3 神の栄光を悟る光

 5節、6節をお読みします。

 わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。

 パウロのことを中傷する者たちは、パウロが自分自身のことを宣べ伝えていると言っていたようです。しかし、パウロは、私が宣べ伝えているのは、自分自身ではなく、主であるイエス・キリストであると記します。「イエス・キリストは主である」。このことを、パウロは、ダマスコ途上において、栄光の主イエスから直接示されたのでした。パウロは、主に仕えているつもりで、キリストの教会を迫害していました。しかし、パウロは、栄光の主に見えることによって、自分が迫害しているイエスこそ、主であることを知らされたのです(使徒9:4,5参照)。

 「イエス・キリストは主である」と告白することは、「自分はイエス・キリストの僕(奴隷)」であると告白することです。しかし、パウロは、「わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです」と記しています。パウロはイエス・キリストに仕える僕として、コリントの信徒たちを高めるために、自分を低くして神の福音を無報酬で告げ知らせたのでした(二コリント11:7参照)。イエス様は、ヨハネによる福音書の13章で、弟子たちの足を洗った後で、こう言われました。「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりにあなたがたもするようにと、模範を示したのである」(ヨハネ13:14,15)。このように、イエス様を主と信じる者たちは、イエス様がされたように、互いに僕として仕え合うことが求められているのです。パウロは、コリントの信徒たちに、そのことを実践していたのです。

 6節でパウロは、御言葉と共に働く、聖霊なる神について記しています。パウロは、3節、4節で、イエス・キリストを信じようとしない者たちについて記していましたが、5節、6節では、イエス・キリストを信じる者たちについて記しています。なぜ、私たちは、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟ることができたのでしょうか。言い方を変えれば、イエス・キリストこそ、神の御子であり、救い主であると信じることができたのでしょうか。また、イエス・キリストを通して、唯一のまことの生ける神を知ることができたのでしょうか。それは、「闇から光が輝き出よ」と命じられた神様が、私たちの心を、聖霊によって照らしてくださったからです。創世記の第1章に、「天地の創造」について記されています。神が「光あれ」と言われると「光があった」のです(創世1:3)。力ある御言葉によって、光を創造された神様は、福音によって、私たちの闇の心に光を与えてくださったのです。それは、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光であります。イエス・キリストを神の御子、救い主と信じる私たちは皆、神の栄光を悟る光を与えられているのです。「イエス・キリストは主である」と告白することは、天地創造に匹敵する、神の御業であるのです。その神の御業によって、私たちは「イエス・キリストは主である」と告白し、互いに仕え合う僕(しもべ)仲間とされているのです。

 

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