主の栄光を映し出しながら 2019年1月27日(日曜 朝の礼拝)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

聖句のアイコン聖書の言葉

3:7 ところで、石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば、
3:8 霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか。
3:9 人を罪に定める務めが栄光をまとっていたとすれば、人を義とする務めは、なおさら、栄光に満ちあふれています。
3:10 そして、かつて栄光を与えられたものも、この場合、はるかに優れた栄光のために、栄光が失われています。
3:11 なぜなら、消え去るべきものが栄光を帯びていたのなら、永続するものは、なおさら、栄光に包まれているはずだからです。
3:12 このような希望を抱いているので、わたしたちは確信に満ちあふれてふるまっており、
3:13 モーセが、消え去るべきものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、自分の顔に覆いを掛けたようなことはしません。
3:14 しかし、彼らの考えは鈍くなってしまいました。今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです。それはキリストにおいて取り除かれるものだからです。
3:15 このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。
3:16 しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。
3:17 ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。
3:18 わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。コリントの信徒への手紙二 3章7節~18節

原稿のアイコンメッセージ

 前回学んだことでありますが、パウロは6節で、こう記しておりました。「神は、わたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします」。「新しい契約」とは、エレミヤが預言していた契約のことです。エレミヤ書31章31節から34節までをお読みします。旧約の1237ページです。

 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来たるべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。

 また、新しい契約については、エゼキエルも預言しています。エゼキエル書36章25節から28節までをお読みします。旧約の1356ページです。

 わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの心から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。お前たちは、わたしが先祖に与えた地に住むようになる。お前たちはわたしの民となりわたしはお前たちの神となる。

 エレミヤとエゼキエルの預言を重ね合わせるとき、神様がイスラエルの心に掟を記すということが、神様の霊によってなされることが分かります。神様がイスラエルの心に掟を記し、従うことができるようにしてくださり、すべての罪を赦してくださるという新しい契約の祝福は、神様の霊によって私たちにもたらされたのです。そして、その神の霊は、新しい契約を十字架の血潮によって結んでくださった、イエス・キリストを通して、与えられるのです(ルカ22:20、使徒2:33参照)。パウロは、その新しい契約に仕える資格を神様から与えられたと記しているのです。

 では、今朝の御言葉に戻りましょう。新約の328ページです。

 パウロは、6節で、「新しい契約に仕える資格」を「文字ではなく、霊に仕える資格」と言い換えています。「文字」とは、神様がイスラエルの民とシナイ山で結ばれた契約を指しています。神様がシナイ山でイスラエルの民に与えられた律法のことを「文字」と言っているのです。また、「霊」とは、新しい契約によって与えられる神の霊、聖霊を指しています。

 さらに、パウロは、「文字は殺しますが、霊は生かします」と記しています。律法は人を殺してしまうが、聖霊は人に命を与える。なぜ、律法は人を殺してしまうのでしょうか。それは、イエス・キリストを除くすべての人が罪をもって生まれて来るからです。申命記27章26節にこう記されています。「この律法の言葉を守り行わない者は呪われる」。つまり、律法は、律法を守り行うことのできない人間にとって呪いをもたらすことしかできないのです(ガラテヤ3:10参照)。律法は、神の御意志のあらわれであり、善いものですが、それを与えられた人間は行うことができないので、結果として滅びをもたらすことになるのです。そのことは、イスラエルの歴史を思い起こすならば、よく分かります。北王国イスラエルも、南王国ユダも、律法の呪いとして、外国に攻められ、滅ぼされました。そのことは、律法は滅びをもたらす、文字は人を殺すということを示しているのです。しかし、新しい契約によって与えられる神の霊、聖霊は人を生かします。「聖霊は人を生かす」というとき、それは、「聖霊は人を神と共に生かす」という意味です。「わたしはあなたの神となり、あなたはわたしの民となる」という祝福は、イエス・キリストを通して注がれる聖霊によって実現するのです。

 前置きが長くなりましたが、今朝の御言葉に入りたいと思います。

1 霊に仕える務め

 7節から11節までをお読みします。

 ところで、石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば、霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか。人を罪に定める務めが栄光をまとっていたとすれば、人を義とする務めは、なおさら、栄光に満ちあふれています。そして、かつて栄光を与えられたものも、この場合、はるかに優れた栄光のために、栄光が失われています。なぜなら、消え去るべきものが栄光を帯びていたのなら、永続するものは、なおさら、栄光に包まれているはずだからです。

 ここで、パウロは、出エジプト記の34章に記されている「モーセの顔の光」のお話を、新しい契約に仕える者として、説き明かしています。出エジプト記の34章には、シナイ山から降りて来たモーセの顔が光を放っていたことが記されています。その所を読んで、確認したいと思います。旧約の152ページです。出エジプト記34章29節から34節までをお読みします。

 モーセがシナイ山から下ったとき、その手には二枚の掟の板があった。モーセは、山から下ったとき、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。アロンとイスラエルの人々がすべてモーセを見ると、なんと、彼の顔の肌は光を放っていた。彼らは恐れて近づけなかったが、モーセが呼びかけると、アロンと共同体の代表者は全員彼のもとに戻って来たので、モーセは彼らに語った。その後、イスラエルの人々が皆、近づいて来たので、彼はシナイ山で主が彼に語られたことをことごとく彼らに命じた。モーセはそれを語り終わったとき、自分の顔に覆いを掛けた。モーセは、主の御前に行って主と語るときはいつでも、出て来るまで覆いをはずしていた。彼は出て来ると、命じられたことをイスラエルの人々に語った。イスラエルの人々がモーセの顔を見ると、モーセの顔は光を放っていた。モーセは、再び御前に行って主と語るまで顔に覆いを掛けた。

 このモーセの顔が光りを放っていたというお話に基づいて、今朝の御言葉は記されているのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の328ページです。

 出エジプト記の文脈において、神様から律法を授かったモーセの顔が光りを放っていたことは、神様の栄光を映し出すものでありました。出エジプト記の文脈において、律法は決して否定的なものではありません(律法の再授与!)。しかし、イエス・キリストにおいて結ばれた新しい契約の光に照らして読み解くならば、モーセの務めは、石に刻まれた文字に基づく死に仕える務めと言えるのです。そのような文字に仕える務めが栄光を帯びているならば、霊に仕える務め、命をもたらす務めは、なおさら栄光に満ちていると、パウロは記すのです。

 さらに、パウロは、「人を罪に定める務めが栄光をまとっていたとすれば、人を義とする務めは、なおさら、栄光に満ちあふれている」と記します。シナイ山で結ばれた古い契約は、「掟を守りなさい。そうすれば、あなたは生きる」というものです。しかし、人は誰も完全に掟を守ることができませんので、罪に定められ、死ぬことになるのです。それに対して、新しい契約は、「イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたは生きる」というものです。「イエス・キリストが、私たちに代わって神の掟を落ち度なく守り、私たちに代わって罪の刑罰としての十字架の死を死んでくださいました。そのイエス・キリストを信じる人を神様は正しいと受け入れてくださいます」。これが、新しい契約であり、人を義とする務めであるのです。人を罪に定める務めが栄光をまとっていたのであれば、なおさら、人を義とする務めは栄光に満ちあふれているのです。それは、かつて栄光を与えられた古い契約よりも、はるかに優れた栄光であり、古い契約の栄光を失わせてしまうほどの栄光であるのです。古い契約の栄光は、消え去るべき、ひとときのものであり、新しい契約の栄光は永遠に続くものであるのです(ヘブライ8:13参照)。なぜなら、新しい契約は、十字架の死から三日目に復活して、永遠に生きておられるイエス・キリストにおいて結ばれたものであるからです(ヘブライ7:24参照)。

2 キリストにおいて取り除かれる覆い

 12節から15節までをお読みします。

 このような希望を抱いているので、わたしたちは確信に満ちあふれてふるまっており、モーセが、消え去るべきものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、自分の顔に覆いを掛けたようなことはしません。しかし、彼らの考えは鈍くなってしまいました。今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれず掛かったままなのです。それはキリストにおいて取り除かれるものだからです。このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心に覆いがかかっています。

 パウロは、モーセが自分の顔に覆いを掛けたのは、消え去るべきものの最後をイスラエルの子らに見られまいとしたからだと記します。これは、パウロの解釈です。新しい契約の祝福の中で、モーセが自分の顔に覆いを掛けたことを解釈すると、このように解釈できるのです。つまり、モーセが自分の顔に覆いを掛けたことは、古い契約の栄光が消え去ることを指し示していたのです。しかし、新しい契約に仕えるパウロたちは、そのようなことをする必要はありません。なぜなら、新しい契約は永遠の契約であり、その栄光は永遠に続くからです(エゼキエル37:26参照)。

 パウロは、モーセが自分の顔に覆いを掛けたことから連想して、イスラエルの子らの心に覆いが掛かっていると記します。神の民であるイスラエルの子らが、約束のメシア、イエス・キリストを信じないのは、なぜか。その理由がここに記されているのです。イスラエルの子らの心は頑なになってしまった。それは、今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、彼らの心に覆いがかかったままであるからだとパウロは記すのです。出エジプト記の記述によれば、モーセは、神の言葉を語るとき、顔から覆いをはずしておりました。しかし、イスラエルの子らは、モーセの書が読まれているのに、その心に覆いがかかったままなのです。では、どうすれば、心から覆いを取り除くことができるのでしょうか。出エジプト記の記述によれば、モーセは主の御前に行って主と語るときはいつでも、覆いを外していたと記されています。それゆえ、パウロは、主であるキリストの御前に行き、祈るならば、心の覆いは取り除かれると記すのです。イスラエルの子らは、キリストを信じないで、モーセの書を読んでいるので、彼らの心には覆いが掛かったままであり、正しく読み解くことができないのです。すなわち、モーセの書をイエス・キリストを証しする書物として読むことができないのです(ヨハネ5:46「あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである」参照)。

3 主の栄光を映し出しながら

 16節から18節までをお読みします。

 しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。ここでいう主とは、霊のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。

 モーセが主の御前では覆いを掛けなかったように、イスラエルの子らも、主イエス・キリストに立ち返るならば、覆いは取り除かれます。「ここでいう主とは、霊のことです」とありますが、霊とは、神の霊である聖霊のことです。そして、聖霊は、十字架の血潮によって新しい契約を結ばれたイエス・キリスト、復活して、父なる神の右に座しておられるイエス・キリストを通して注がれるのです。ですから、聖霊は主イエスの霊でもあります。そして、主イエスの霊がおられるところに自由があるのです。私たちは、前に、ローマの信徒への手紙を学びました。そこでパウロは、すべての人が罪人であること。また、すべての人が正しいとされるのは、イエス・キリストへの信仰によると記しました。さらには、信仰によって義とされた人は、罪と死と律法から解放され、聖霊によって神の子とされ、自由な者とされていることを記しました。主の霊によって与えられている自由、それは、イエス・キリストによって罪と死と律法から解放され、神の子とされた者の自由であるのです。神の子とされた恵みに感謝して、神様への愛から、神様の掟を守る自由であるのです。そのような広々とした愛の自由を、私たちは、主の聖霊において与えられているのです。

 主イエス・キリストのもとへ立ち返り、主の霊を与えられている私たちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主イエスと同じ姿に造りかえられていきます。礼拝の後に、私たちの顔が光りを放つわけではありません。しかし、私たちは主の栄光を映し出す者とされているのです。私たちの内なる人が、栄光から栄光へと、主イエスと同じ姿に造りかえられることによって、私たちは、主の栄光をあらわす者に造りかえられているのです。それは、御言葉と共に働かれる聖霊のお働きによるものであります。主の霊は、私たちに、神の子としての法的な資格を与えてくださっただけではなく、実質的にも、神の子としてふさわしい者にしてくださるのです。すなわち、私たち一人一人をイエス様に似た者としてくださるのです。

関連する説教を探す関連する説教を探す