キリストの香り 2019年1月13日(日曜 朝の礼拝)
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キリストの香り
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- 村田寿和 牧師
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コリントの信徒への手紙二 2章12節~17節
聖書の言葉
2:12 わたしは、キリストの福音を伝えるためにトロアスに行ったとき、主によってわたしのために門が開かれていましたが、
2:13 兄弟テトスに会えなかったので、不安の心を抱いたまま人々に別れを告げて、マケドニア州に出発しました。
2:14 神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。
2:15 救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。
2:16 滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。
2:17 わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。
コリントの信徒への手紙二 2章12節~17節
メッセージ
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序
今朝は、コリントの信徒への手紙二の2章12節から17節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1 トロアスからマケドニア州へ
12節から13節までをお読みします。
わたしは、キリストの福音を伝えるためにトロアスに行ったとき、主によってわたしのために門が開かれていましたが、兄弟テトスに会えなかったので、不安の心を抱いたまま人々に別れを告げて、マケドニア州に出発しました。
トロアスは、小アジアにある港町です。聖書巻末の地図で、場所を確認したいと思います。「8 パウロの説教旅行2,3」の小アジアの先端に、「トロアス」と記されています。パウロは、エフェソからキリストの福音を伝えるためにトロアスに行ったのです。そして、このトロアスで、どうやら兄弟テトスと会うことになっていたようです。
では、今朝の御言葉に戻ります。新約の327ページです。
パウロは、エフェソで、コリントの信徒たちに、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました。その手紙は、誰かによって届けられたようですが、パウロとしては、コリントの信徒たちがどのような反応を示すか、気がかりであったようです。それで、パウロは、テトスを遣わしてコリントの信徒たちの反応を知ろうとしました。そのテトスとトロアスで会うことに決めていたのですが、会うことができませんでした。パウロは、自分が「キリストの福音のためにトロアスに行った」と記しています。しかも、主によって、福音を信じる者たちが多く起こされていたのです。しかし、パウロは、兄弟テトスに、会うために、マケドニア州へと出発しました。パウロにとって、コリントの信徒たちは、それほど大切であったのです。ある研究者によれば、パウロは、海路でテトスが来るのを待っていたが、冬になり、陸路で来ることが明かとなったので、マケドニア州に出発したようです。マケドニア州には、フィリピ、テサロニケ、ベレアに教会がありました。そのどこかの教会で、パウロはテトスと会うことができたのです。そのことについては、7章5節以下に記されています。新約の332ページ。7章5節から16節までをお読みします。
マケドニア州に着いたとき、わたしたちの身には全くやすらぎがなく、ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです。しかし、気落ちした者を力づけてくださる神は、テトスの到着によって、わたしたちを慰めてくださいました。テトスが来てくれたことによってだけではなく、彼があなたがたから受けた慰めによっても、そうしてくださったのです。つまり、あなたがたがわたしを慕い、わたしのために嘆き悲しみ、わたしに対して熱心であることを彼が伝えてくれたので、わたしはいっそう喜んだのです。あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、わたしは後悔しません。確かに、あの手紙が一時にもせよ、あなたがたを悲しませたことは知っています。たとえ後悔したとしても、今は喜んでいます。あなたがたがただ悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことなので、わたしたちからは何の害も受けずに済みました。神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。神の御心に適ったこの悲しみが、あなたがたにどれほどの熱心、弁明、憤り、恐れ、あこがれ、熱意、懲らしめをもたらしたことでしょう。例の事件に関しては、あなたがたは自分がすべての点で潔白であることを証明しました。ですから、あなたがたに手紙を送ったのは、不義を行った者のためでも、その被害者のためでもなく、わたしたちに対するあなたがたの熱心を、神の御前であなたがたに明らかにするためでした。こういうわけでわたしたちは慰められたのです。
この慰めに加えて、テトスの喜ぶさまを見て、わたしたちはいっそう喜びました。彼の心があなたがた一同のお陰で元気づけられたからです。わたしはあなたがたのことをテトスに少し誇りましたが、そのことで恥をかかずに済みました。それどころか、わたしたちはあなたがたにすべて真実を語ったように、テトスの前で誇ったことも真実となったのです。テトスは、あなたがた一同が従順で、どんなに恐れおののいて歓迎してくれたかを思い起こして、ますますあなたがたに心を寄せています。わたしは、すべての点であなたがたを信頼できることを喜んでいます。
このように、パウロが記した涙の手紙は、コリントの信徒たちに神様の御心に適った悲しみをもたらし、救いに通じる悔い改めを生じさせたのでした。コリントの信徒たちは、パウロの言葉に従って、パウロを中傷していた人を教会の交わりから除外することにより、自分たちがパウロを使徒として重んじ、従順であることを示したのです。そのような者たちとして、パウロから遣わされたテトスを、コリントの信徒たちは、恐れおののいて歓迎したのです。
では、今朝の御言葉に戻りましょう。新約の327ページです。
2 キリストの香り
14節から16節前半までをお読みします。
神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。
ここで気がつくことは、これまでとは随分、雰囲気が変わったということです。先程、読みましたように、2章13節は、文脈としては、7章5節に繋がっています。2章14節から7章4節までは、テトスによってもたらされた喜びの知らせを受けての大いなる脱線です。そして、その主題は「福音宣教者」であるのです。
14節に、「神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます」とあります。ここで、パウロは、ローマの凱旋行列を念頭において記しています。戦いに勝利した将軍と兵士たちは、多くの戦利品と捕虜たちを引き連れて都ローマに帰ってきました。町のあちこちでは香が焚かれ、その行列は良い香りに包まれていたと言われます。そのような凱旋行列を念頭において、パウロは、福音宣教者の務めを記すのです。「キリストの勝利の行進」とありますが、キリストは何に対して勝利されたのでしょうか。それは神の敵である悪魔であり、その悪魔が支配する世であります。イエス様は、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって無力なものとされました(ヘブライ2:14参照)。イエス様は、既に世に勝っておられるのです(ヨハネ16:33参照)。神様は、そのようなキリストの勝利の行進に、パウロを連なる者としてくださったのです。パウロだけではなくて、私たちをも連なる者としてくださったのです。では、神様は、どのようにして、私たちをキリストの行進に連なる者としてくださったのか。そのことについては大きく二つの解釈があります。一つは、キリストの兵士として、キリストの勝利の行進に連なっているという解釈です。そして、もう一つは、キリストに敗北した捕虜として勝利の行進に連なっているという解釈であります。わたしは、このどちらの解釈も正しいのではないかと思います。なぜなら、キリストは、御自分の捕虜である私たちを殺すことなく、御自分の兵士として生かしてくださるお方であるからです。このことは、パウロのことを考えると分かりやすいと思います。かつてのパウロは、キリストの教会を迫害する者でした。パウロは、イエス様にこぶしを振るう者であったのです。しかし、そのようなパウロに、栄光の主イエスは現れてくださったのです。パウロは、天からの光に照らされて、倒れ伏し、目が見えなくなりました。人々に手を引いてもらわなければ歩くことができなくなりました。これはパウロの敗北であり、キリストの勝利であります。このようにして、パウロはキリストの捕虜とされたのです。そして、キリストは、そのパウロを御自分の名を伝える兵士とされたのです。このように、神様は、私たちをキリストの捕虜とし、さらには、キリストの兵士としてくださって、キリストの勝利の行進に連なる者としてくださったのです。私たちキリスト者の歩み、キリスト教会の歩みは、キリストの勝利の行進に連なる歩みであるということです。ですから、私たちは、うつむいて、うなだれて歩んではなりません。前を向いて、胸を張って、喜びに溢れて歩むことができるのです。そのような私たちを通して、神様は、キリストを知るという知識の香りを至るところに漂わせてくださるのです。キリストの捕虜とされ、キリストの兵士とされた私たちを通して、神様は、キリストを知るという知識の香りを至るところに漂わせてくださる。そのようにして、私たちを福音を宣べ伝える者としてくださるのです。このことは、私たちが神様に感謝すべき、神様の一方的な恵みによるのです。
15節に、「救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです」とあります。ここでは、ローマの凱旋行進から、聖書の焼き尽くす献げ物にたとえが変わっています。焼き尽くす献げ物とは、燃やして主にささげる宥めの香りのことです(レビ1:9参照)。煙と共に、芳ばしい香りが天へと昇っていく。そのような焼き尽くす献げ物のことを念頭において、パウロは、「わたしたちはキリストによって神にささげられる良い香りです」と記すのです。永遠の大祭司であるキリストは、私たちを生きたまま、神様にささげられる良い香りとしてくださいました。キリストの福音を宣べ伝える私たちは、キリストによって神様にささげられる良い香りであるのです。そして、この良い香りは、救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、良い香りであるのです。救いの道をたどる者とは、イエス・キリストを信じて、神様の救いにあずかる者のことです。他方、滅びの道をたどる者とは、イエス・キリストを信じないで、自分の罪のゆえに滅びる者のことです。イエス・キリストの福音という良い香りは、救われる者にとっても、滅びる者にとっても良い香りであります。しかし、その効果はまったく異なるのです。滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りであるのです。
3 このような務めにだれがふさわしいか
16節後半から17節までをお読みします。
このような務めにだれがふさわしいでしょうか。わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。
私たちを通して漂うキリストの福音は、信じても、信じなくてもよい知らせではありません。「キリストを信じるならば、あなたは、神様の恵みによって救われる。しかし、キリストを信じないならば、あなたは自分の罪のゆえに滅んでしまう」という厳粛な事実を告げるものです。キリストの福音は、人々を救いか、滅びかにふるい分ける決定的な言葉であるのです。ですから、パウロは、「このような務めにだれがふさわしいでしょうか」と問うのです。信じない人が沢山いる。そのような人々のことを思って涙を流すパウロだからこそ、このように問わざるを得ないのですね(フィリピ3:18参照)。そして、その答えは、「だれもふさわしい人はいない」のです。パウロは、自分がふさわしいと思ったから、使徒になったのではありません。パウロは、「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされた」のです(1:1参照)。もし、福音宣教者の務めにふさわしい人がいるとしたら、その人は自分がふさわしくないことを知っている人です。ふさわしくない自分を、神様は恵みによって福音を宣べ伝える者としてくださった(一コリント15:9、10参照)。そのことを知っていたからこそ、パウロは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語ることができたのです。ここでの「多くの人々」とは、パウロを非難していた偽使徒たちのことであるようです(二コリント10~13章参照)。彼らは、自分たちの利益を得るために、神の言葉を語っていました。聞く人が喜ぶように、神の言葉を薄めて語っていたのです。しかし、パウロは、キリストの使徒として、神の言葉を誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語ったのでした。神の言葉を誠実に、神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語る。このことが公になされるのが、礼拝における説教であります。神の言葉を語る説教者は、ふさわしくない自分が神様の恵みによって立てられていることを感謝して、誠実に、神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語るのです。そうであれば、私たちがキリストの香りをかぐことができるのは、この礼拝においてであるのです。