キリストにある赦しの共同体 2019年1月06日(日曜 朝の礼拝)
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コリントの信徒への手紙二 2章5節~11節
聖書の言葉
2:5 悲しみの原因となった人がいれば、その人はわたしを悲しませたのではなく、大げさな表現は控えますが、あなたがたすべてをある程度悲しませたのです。
2:6 その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です。
2:7 むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです。
2:8 そこで、ぜひともその人を愛するようにしてください。
2:9 わたしが前に手紙を書いたのも、あなたがたが万事について従順であるかどうかを試すためでした。
2:10 あなたがたが何かのことで赦す相手は、わたしも赦します。わたしが何かのことで人を赦したとすれば、それは、キリストの前であなたがたのために赦したのです。
2:11 わたしたちがそうするのは、サタンにつけ込まれないためです。サタンのやり口は心得ているからです。コリントの信徒への手紙二 2章5節~11節
メッセージ
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序
今朝は、2019年最初の礼拝であります。私たちは今年も、コリントの信徒への手紙二から御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。今朝は、2章5節から11節までを御一緒に学びたいと思います。
1 悲しみの原因となった人
5節に、「悲しみの原因となった人」とあります。この「悲しみの原因となった人」がどのような人であったかは、よく分かりません。パウロとコリントの信徒たちには、それがどのような人であったか、その名前さえも分かっていたと思います。それゆえ、パウロは、それがどのような人であるのかをあえて記さないのです。記されてはいませんが、「悲しみの原因となった人」がどのような人であるかを推測することはできます。一つの推測は、この人は、第一コリント書の第5章に記されていた「みだらな行いをしている人」で、パウロのことを不誠実で信用できないと非難していたということです(二コリント1:12参照)。パウロは第一コリント書の第5章で、「みだらな行いをしている人」を、教会の交わりから除外するようにと記しておりました。第一コリントの5章1節から5節までをお読みします。新約の304ページです。
現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです。それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっているのか。むしろ悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか。わたしは体では離れていても霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように、そんなことをした者を既に裁いてしまっています。つまり、わたしたちの主イエスの名により、わたしたちの主イエスの力をもって、あなたがたとわたしの霊が集まり、このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです。
私たちは、このようなパウロの言葉を読みますと、ここに書いてある通り、コリントの信徒たちが、みだらな行いをしていた人を教会の交わりから除外したのだろうと考えます。しかし、実際は、そうではなかったのです。
では、今朝の御言葉に戻ります。新約の327ページです。
一つ確認しておきたいことは、第一コリント書がコリントに届けられた後で、テモテがコリントに到着したということです。第一コリント書は、「ステファナ、フォルトナト、アカイコ」によってコリントの教会に届けられました(一コリント16:17参照)。そして、その後に、テモテがコリントに到着したのです。ですから、テモテが到着する前に、コリントの信徒たちは、第一コリント書を読んでいたわけです。しかし、テモテがコリントの教会に到着したとき、その交わりの中には、「みだらな行いをしている人」がいたのです。そして、その人は、テモテを侮辱して、さらにはパウロをも侮辱したのです。このことは、この人の立場になるとよく分かります。パウロから送られて来た手紙に、自分を教会の交わりから除外するように書いてある。その人は、必死になって、パウロを非難するわけです。それこそ、パウロは、自分たちの信仰を支配しようとしていると非難するわけです。パウロは、テモテがないがしろにされて、不安のうちに戻って来たことを受けて、急遽、コリントに行くことを決めました。そして、コリントにおいて「みだらな行いをしている人」から、侮辱ともいえる言葉を浴びせられるわけです。また、コリントの信徒たちも、その人をとがめることなく、どっちつかずの態度を取ったようです。それで、パウロは、コリントを去って、エフェソに戻り、涙ながらの手紙を記すのです。この「涙の手紙」は、失われていて内容はよく分かりません。しかし、推測すると、コリントの信徒たちに、悲しみをもって、その人を交わりから除外することを求める内容であったようです。コリントの信徒たちは、涙の手紙に記されていたパウロの言葉に従い、悲しみをもって、その人を教会の交わりから除外したのでした。このようなことを背景にして今朝の御言葉は記されているのです。
2 赦し、力づけ、愛する
5節から8節までをお読みします。
悲しみの原因となった人がいれば、その人はわたしを悲しませたのではなく、大げさな表現は控えますが、あなたがたすべてをある程度悲しませたのです。その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です。むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです。そこで、ぜひともその人を愛するようにしてください。
教会の交わりに、新しい人が加えられる。そのことは、すべての人にとって大きな喜びであります。しかし、教会の交わりから、一緒に礼拝をささげていた人を閉め出すことは、大きな悲しみです。しかもそのことを自分たちの手でしなければならないのですから、なおさらです。そのような悲しみをコリントの教会は体験したのです。「その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です」とありますが、「あの罰」とは、教会の交わりから閉め出すということでしょう。その人が集会に参加することを禁じたのです。ここで、「多数の者から受けた」とありますから、パウロの言葉に従わなかった少数の人がいたようです。コリントの教会には、みだらな行いをしていたり、パウロを非難する者たちが、他にもいたのです(二コリント12:21参照)。しかし、多数の者は、パウロの言葉に従って、その人を教会の交わりから除外したようです。教会の交わりから除外された人は、どうなったのでしょうか。その人は、深い悲しみの中にあったようです。そして、自分の行いを悔い改めていたようです。パウロは、そのことをテトスから聞いていたわけです(二コリント7:5~16参照)。それで、パウロは、「むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです」と記すのです。さらには、「ぜひともその人を愛するようにしてください」と記すのです。パウロは、第一コリント書の第5章で、みだらな行いをする人を、教会の交わりから除外するように記しましたが、その目的は、「その肉が滅ぼされて、主の日に彼の霊が救われるためである」と記しています(一コリント5:5参照)。その人の古い人が滅ぼされて、新しい人として救われるために、パウロは、その人を教会の交わりから除外するように記したのです。そして、実際、その人は教会の交わりから除外されて、悲しみの中で、自分の罪を認め、悔い改めたわけですね。そうであれば、今度はその人を赦して、力づけるべきである。その人を愛するべきであると言うのです。これは具体的に言えば、教会の交わりに再び受け入れるということです。教会訓練は、罪を犯している人に罰を与えることが最終的な目的ではありません。教会訓練の最終的な目的は、罪を犯した人を悔い改めへと導き、赦して、再び教会の交わりへと回復することであるのです。
3 キリストにある赦しの共同体
9節から11節までをお読みします。
わたしが前に手紙を書いたのも、あなたがたが万事について従順であるかどうかを試すためでした。あなたがたが何かのことで赦す相手は、わたしも赦します。わたしが何かのことで人を赦したとすれば、それは、キリストの前であなたがたのために赦したのです。わたしたちがそうするのは、サタンにつけ込まれないためです。サタンのやり口は心得ているからです。
パウロが前に書いた手紙とは、4節の「涙の手紙」のことです。パウロは、涙の手紙を書いたのは、コリントの信徒たちが従順であるかどうかを試すためでありました。つまり、涙の手紙に記したとおりに、パウロを侮辱した人に罰を与えるかどうかによって、パウロはコリントの信徒たちが自分に従順であるかどうかを試したというのです。もし、コリントの信徒たちが、パウロの言葉に従わず、その人を教会の交わりから除外しなければ、コリントの信徒たちは、パウロに不従順であり、パウロをイエス・キリストの使徒として認めていないことになるわけですね。しかし、実際、コリントの信徒たちは、パウロの言葉に従うことによって、パウロに従順であることを示したのでした。そのようにして、コリントの信徒たちは、パウロをイエス・キリストの使徒として重んじたのです。
10節に「あなたがたが何かのことで赦す相手は、わたしも赦します」とあります。これは、コリントの信徒たちの懸念を取り除くための言葉です。「自分たちは赦しても、パウロ先生は赦さないのではないか」というコリントの信徒たちの懸念を取り除くために、パウロはこのように記しているのです。そして、パウロの赦しは、キリストの前で、コリントの信徒たちのための赦しであるのです。ここでパウロは、赦しを個人的なこととは考えていません。ここでパウロが考えていることは、キリストが使徒たちに与えられた鍵の権能です。マタイによる福音書の第16章で、イエス・キリストは、ペトロにこう言われました。「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」。この天の国の鍵の権能を、パウロは、キリストの前で、コリントの信徒たちのために行使しているのです。ちなみに、私たちの教会において、鍵の権能は、牧師と長老たちの会議である小会に与えられています(『政治規準』第76条参照)。牧師と長老たちの会議である小会は、鍵の権能として、訓練規定に従って戒規を執行する権能を、主イエス・キリストから与えられているのです。今朝の週報に、参考資料として、『訓練規定』から抜粋したものを印刷しておきました。『訓練規定』の第1条から第4条までと第14条をお読みします。
第1条(訓練)訓練は、教会の会員を教え、導き、教会の純潔と霊的豊かさとを増進するために、主イエス・キリストによって教会に与えられた権能の行使である。訓練という語は、二つの意味をもつ。その一つは、教会がその会員、役員および教会会議に持つ統治、査察、訓育、保護および管理の全体をいい、他の一つは狭義かつ法的な意味のもので、主として裁判手続きを言う。
第2条(訓練の対象)教会員すなわち洗礼を受けたすべての人々は、前条に定める第一の意味における訓練に服し、またその恩恵にあずかる資格をもつ。第二の意味における訓練は、キリストに対する信仰告白をした人々にのみ関する。
第3条(裁判による訓練の目的)裁判による訓練の目的は、キリストの栄誉の擁護、違反者の霊的利益、違反の譴責、つまずきの除去、教会の純潔および霊的豊かさの増進にある。
第4条(訓練の権能)キリストが教会に与えられた権能は、建てあげるためであって、破壊のためではなく、またあわれみをもって行使すべきであって、怒りをもってすべきではない。教会は、母がその子どもをかれらの益のために矯正するように、かれらがみなキリストの日にとがなきものとして御前に立ちうるように行為すべきである。
第14条(戒規)戒規とは、教会会議によって課せられる法的訓練であり、訓戒、停止、除名および免職から成る。一つの軽い戒規が違反者を矯正し得ないときは、教会会議は場合によりさらに重い戒規を課さなければならないことがある。
パウロは、みだらな行いをした人を、教会の交わりから除外すべきであると記しました。それは、第3条の「裁判による訓練の目的」に適ったことでありました。パウロは、キリストの栄誉の擁護、違反者の霊的利益、違反の譴責、つまずきの除去、教会の純潔および霊的豊かさの増進のために、みだらな行いをした人を教会の交わりから除外するように命じたのです。そして、それと同じ目的で、悔い改めた人を、赦し、励まし、愛するようにと命じるのです。すなわち、悔い改めた人を、再び、教会の交わりに迎え入れるようにと命じるのです。それは、第4条にあるように、教会訓練は、教会を破壊するためではなくて、建て上げるための権能であるからです(二コリント13:10参照)。教会訓練は、教会を壊すためではなく、教会を造り上げるために主イエスから牧師と長老たちの会議に与えられている権能である。そのことを今朝の御言葉は、私たちに教えているのです。
パウロは、11節で、サタンのことを記しています。サタンとは、悪魔とも呼ばれる神様の敵のことです。もし、パウロとコリントの信徒たちが、悔い改めた人を赦さずに、教会の交わりに受け入れなければ、どうなるか。パウロはサタンにつけ込まれることになるというのです。サタンは、そのことにつけ込んで、コリントの教会を破壊してしまうだろうと言うのです。そうさせないためにも、「わたしは、キリストの前で、あなたがたのために、その人を赦した」とパウロは記すのです。
今朝の説教題を「キリストにある赦しの共同体」としました。それは教会がどのような交わりであるのかを端的に言い表したものです。私たちは、だれもが罪深い者です。その罪深い者をイエス・キリストは赦してくださり、御自分との交わりに受け入れてくださいました。そのようなキリストとの交わりである教会が、自分の罪を悲しみ、悔い改めた人を受け入れないならば、もはや、その交わりはキリストにある交わりとは言えません。ですから、パウロは、悲しみの原因になった人を赦し、力づけ、愛するように。その人を教会の交わりに再び受け入れるように、と記したのです。教会訓練は、罪を犯した人の訓練にとどまらず、教会全体にとっても訓練であるのです。