神の然りであるキリスト 2018年12月09日(日曜 朝の礼拝)
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神の然りであるキリスト
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- 村田寿和 牧師
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コリントの信徒への手紙二 1章12節~22節
聖書の言葉
1:12 わたしたちは世の中で、とりわけあなたがたに対して、人間の知恵によってではなく、神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきました。このことは、良心も証しするところで、わたしたちの誇りです。
1:13 -14わたしたちは、あなたがたが読み、また理解できること以外何も書いていません。あなたがたは、わたしたちをある程度理解しているのですから、わたしたちの主イエスの来られる日に、わたしたちにとってもあなたがたが誇りであるように、あなたがたにとってもわたしたちが誇りであることを、十分に理解してもらいたい。
1:15 このような確信に支えられて、わたしは、あなたがたがもう一度恵みを受けるようにと、まずあなたがたのところへ行く計画を立てました。
1:16 そして、そちらを経由してマケドニア州に赴き、マケドニア州から再びそちらに戻って、ユダヤへ送り出してもらおうと考えたのでした。
1:17 このような計画を立てたのは、軽はずみだったでしょうか。それとも、わたしが計画するのは、人間的な考えによることで、わたしにとって「然り、然り」が同時に「否、否」となるのでしょうか。
1:18 神は真実な方です。だから、あなたがたに向けたわたしたちの言葉は、「然り」であると同時に「否」であるというものではありません。
1:19 わたしたち、つまり、わたしとシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。この方においては「然り」だけが実現したのです。
1:20 神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます。
1:21 わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。
1:22 神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に“霊”を与えてくださいました。コリントの信徒への手紙二 1章12節~22節
メッセージ
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序
今朝の御言葉には、パウロの弁明の言葉が記されています。コリントの教会には、パウロのことを非難する者たちがおりました。彼らは、「パウロは不誠実な人間である。パウロの言葉は信用できない」と非難していたようです。そのような非難を念頭において、パウロは今朝の御言葉を記しているのです。
1 パウロの誇り
12節から14節までをお読みします。
わたしたちは世の中で、とりわけあなたがたに対して、人間の知恵によってではなく、神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきました。このことは、良心も証しするところで、わたしたちの誇りです。わたしたちは、あなたがたが読み、また理解できること以外何も書いていません。あなたがたは、わたしたちをある程度理解しているのですから、わたしたちの主イエスの来られる日に、わたしたちにとってもあなたがたが誇りであるように、あなたがたにとってもわたしたちが誇りであることを、十分に理解してもらいたい。
コリントの信徒たちのある者たちは、パウロは不誠実であると非難していました。そのことを念頭において、パウロは、自分が誠実な人間であることを弁明しています。パウロは、コリントに1年6ヶ月の間とどまって、福音を宣べ伝えました(使徒18:11参照)。コリントの教会は、パウロの福音宣教によって生まれた教会であったのです。そのコリントでの宣教活動を思い起こさせるように、「わたしたちは世の中で、とりわけあなたがたに対して、人間の知恵によってではなく、神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきました」と記すのです。ここで「人間の知恵」と訳されている言葉は、直訳すると「肉的な知恵」となります。肉とは、聖霊を与えられていない人間のことです。パウロは、自分が、コリントの信徒たちに対して、聖霊を与えられていない人間の知恵ではなく、神から受けた純真と誠実によって、神の恵みのもとに行動してきた、と記しているのです。そして、このことは、パウロの良心も証しするところであり、パウロたちの誇りである、と記すのです。「パウロは邪(よこしま)で、不誠実な人間である」と非難する者たちに対して、「あなたたちに対して、神から受けた純真と誠実によって、神の恵みのもとに行動してきたこと、それが私たちの誇りである」とパウロは言うのです。
13節に、「わたしたちは、あなたがたが読み、また理解できること以外何も書いていません」とあります。これもパウロを非難する者たちを念頭において記されています。パウロを非難する者たちは、「パウロが記していることと、パウロが意図していることは異なる」と非難していたようです。例えば、パウロは第一コリント書でこう記していました。「わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。あなたがたがはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています」(一コリント1:4,5)。このパウロの言葉を、パウロのことを邪で不誠実な人間であると非難している人が読むと、そのまま読むことができないわけです。パウロ先生は、自分たちに嫌味を言っているのではないかと読むわけです。書いてあることと反対のことを読み取ってしまうのです。そのような者たちのことを念頭において、パウロは、「わたしたちは、あなたがたが読み、また理解できること以外何も書いていません」と記すのです。パウロは、自分の言葉をその言葉どおりに受け入れてもらいたいと記すのです。
さらに、パウロはこう記します。「あなたがたは、わたしたちをある程度理解しているのですから、わたしたちの主イエスの来られる日に、わたしたちにとってもあなたがたが誇りであるように、あなたがたにとってもわたしたちが誇りであることを、十分に理解してもらいたい」。コリントの信徒たちの中にはパウロのことを誤解して非難する者たちがおりました。ですから、パウロは、「あなたがたは、わたしたちをある程度理解している」と記します。しかし、そこに留まらないで、主イエスの来られる日に理解することになるように、十分に理解してもらいたいと言うのです。すなわち、パウロたちとコリントの信徒たちは、互いを誇りとすることができる間柄であることを十分理解してほしいと言うのです。パウロにとって、コリントの信徒たちが誇りであることはよく分かると思います。コリントの信徒たちは、パウロの福音宣教によって、イエス・キリストを信じたからです。イエス様が来られる日、パウロは、コリントの信徒たちを指差して、わたしはこの人たちにあなたの福音を宣べ伝えましたと誇ることができるのです。では、コリントの信徒たちにとって、パウロが誇りであるとは、どのような意味でしょうか。主イエスの来られる日には、すべてのことがあらわとされます。そのとき、コリントの信徒たちは、パウロのことをある程度ではなく十分に知ることになるのです。パウロが神から受けた純真と誠実によって、神の恵みのもとに行動してきたことを知ることになるのです。そのとき、コリントの信徒たちは、自分たちの牧師であるパウロを誇りとすることができるのです。牧師と信徒たちは、そのように互いを誇りとすることができる間柄なのです。そのことを、今朝、私たちも十分に理解したいと思います。
2 然りと否
15節から17節までをお読みします。
このような確信に支えられて、わたしは、あなたがたがもう一度恵みを受けるようにと、まずあなたがたのところへ行く計画を立てました。そして、そちらを経由してマケドニア州に赴き、マケドニア州から再びそちらに戻って、ユダヤへ送り出してもらおうと考えたのでした。このような計画を立てたのは、軽はずみだったでしょうか。それとも、わたしが計画するのは、人間的な考えによることで、わたしにとって「然り、然り」が同時に「否、否」となるのでしょうか。
「このような確信」とは、牧師と信徒たちが互いを誇りとすることができる間柄にあるという確信です。そのような確信に支えられて、パウロは、コリントの信徒たちが二度恵みを受けるように、旅行の計画を立てました。新共同訳聖書は「もう一度恵みを受けるように」と翻訳していますが、新改訳聖書は、「恵みを二度受けられるように」と翻訳しています。二度恵みを受けるように、パウロは旅行の計画を立てたのです。それは、コリントを経由してマケドニア州に赴き、マケドニア州から再びコリントに戻って、ユダヤに送り出してもらうという計画でした。ここに記されている旅行の計画は、第一コリント書に記していたものと異なっています。第一コリント書の16章5節から7節で、パウロはこう記していました。「わたしは、マケドニア経由でそちらへ行きます。マケドニア州を通りますから、たぶんあなたがたのところに滞在し、場合によっては、冬を越すことになるかもしれません。そうなれば、次にどこに出かけるにしろ、あなたがたから送り出してもらえるでしょう。わたしは、今、旅のついでにあなたがたに会うようなことはしたくない。主が許してくだされば、しばらくあなたがたのところに滞在したいと思っています」。パウロは、第一コリント書では、マケドニア州に行ってから、コリントに行くと記していました。また、「わたしは、今、旅のついでにあなたがたに会うようなことはしたくない」とも記していました。しかし、第二コリント書では、コリントに行って、マケドニア州に行き、再びコリントに戻り、ユダヤに送り出してもらうと旅行の計画が変わっているのです。それは、パウロが遣わしたテモテが、コリント教会のある者にないがしろにされ、不安のうちに帰って来たからです。それで、パウロは、コリントの信徒たちが、二度恵みを受けることができるように、コリントを経由してマケドニア州に行き、再びコリントに戻って、ユダヤに送り出してもらおうと考えたのでした。そして、実際、パウロは、コリントを訪れたわけです。これが使徒言行録が記していない、いわゆる「中間の訪問」です。しかし、テモテを侮辱した者は、パウロをも侮辱しました。また、コリントの信徒たちは、その者をとがめることをしなかったのです。それで、パウロはコリントを去って、エフェソに戻り、そこで、三通目の手紙である涙の手紙を記し、コリントの教会に届けさせたのです。コリントの教会のある者が問題としたのは、パウロが再び来ないということでありました。パウロはコリントの信徒たちが恵みを二度受けられるように計画をたてましたが、二度目の訪問を延期していたのです。そのことを、コリント教会のある者たちは、問題にして、パウロは不誠実な人間だ。パウロの言葉は信用できないと、中傷していたのです。17節に、「このような計画を立てたのは、軽はずみだったのでしょうか」と記されています。おそらく、パウロを中傷していた者たちが、「パウロの計画は軽はずみだ」と言っていたのでしょうね。パウロは、自分に対する非難の言葉を用いて、「このような計画を立てたのは、軽はずみだったのでしょうか」と問うているのです。このところは、元の言葉を見ますと、否定の答えを期待する疑問文で記されています。パウロは、「このような計画を立てたのは、軽はずみではない」と言っているのです。
パウロは、続けて、「それとも、わたしが計画するのは、人間的な考えによることで、わたしにとって『然り、然り』が同時に『否、否』となるのでしょうか」と問うています。ここで「人間的な考え」と訳されている言葉も、直訳すると「肉の考え」となります。「聖霊を与えられていない人間の考え」ということです。また、「わたしにとって『然り、然り』が同時に『否、否』となる」とは、矛盾したことを言う二枚舌であるということです。「然り」とは肯定の言葉で、「はい」という意味です。「否」は否定の言葉で、「いいえ」という意味です。「はい」が同時に「いいえ」となる。そのように、パウロの言葉は信用できないと中傷されていたのです。これはパウロにとって、聞き捨てならない中傷でありました。牧師が信徒から、「あの先生の言葉は信用できない」と中傷されて、そのことを放置したまま、説教を語り続けることはできません。パウロはそのような所に立たされていたわけです。ですから、パウロは、神の真実にかけて、「あなたがたに向けたわたしの言葉は、『然り』であると同時に『否』であるというものではありません」と記すのです。パウロの言葉は信用できないという中傷は、旅行の計画だけではすまない、パウロが宣べ伝えたイエス・キリストの福音にも及ぶものであるのです。
3 神の然りであるキリスト
19節から22節までをお読みします。
わたしたち、つまり、わたしとシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。この方においては「然り」だけが実現したのです。神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます。わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に霊を与えてくださいました。
パウロは、コリントの信徒たちに向けた自分たちの言葉が「然り」であると同時に「否」であるというものではない理由として、自分たちがコリントの信徒たちに宣べ伝えた神の子イエス・キリストは「然り」と同時に「否」となったような方ではありません、と記します。もし、パウロの言葉が「然り」と同時に「否」となるような信用できない言葉であるならば、そのパウロが宣べ伝えた福音も信用できないということになります。しかし、パウロは、自分たちが宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではない。この方においては「然り」だけが実現したと告げるのです。なぜなら、神の約束はことごとく、イエス・キリストにおいて「然り」となったからです。旧約聖書に記されている神様の約束は、ことごとくイエス・キリストにおいて実現したのです。それゆえ、私たちは神をたたえるために、イエス・キリストを通して「アーメン」と唱えるのです。「アーメン」とは、ヘブライ語で、「本当です」とか「そのとおりです」という意味です。今朝の御言葉で言えば、「然り」ということです。神様は、約束をことごとくイエス・キリストにおいて実現してくださった。この神様の然りに対して、私たちもイエス・キリストを通して「アーメン」「然り」と言うのです。
では、なぜ、私たちは、神様の然りに対して、然りと言うことができるのでしょうか。それは、神様が私たちに油、聖霊を注いでくださり、キリストに堅く結びつけてくださったからです。神様が私たちに洗礼という証印を押し、私たちの心に保証(手付金)としての聖霊を与えてくださったからです。そのことにおいては、パウロもコリントの信徒たちも同じです(二コリント10:7参照)。そのことをパウロは、コリントの信徒たちに思い起こさせたいのです。パウロのことを信用できないとすることは、パウロに保証として聖霊を与えてくださった神様を信用できないとすることです。そして、それは自分に保証として聖霊を与えてくださった神様を信用できないとすることでもあるのです。パウロを信用できないとすることは、パウロと自分たちに聖霊を与えてくださった神様を信用できないとすることであるのです。