自分ではなく神を頼りとする 2018年12月02日(日曜 朝の礼拝)

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聖句のアイコン聖書の言葉

1:8 兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。
1:9 わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。
1:10 神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。
1:11 あなたがたも祈りで援助してください。そうすれば、多くの人のお陰でわたしたちに与えられた恵みについて、多くの人々がわたしたちのために感謝をささげてくれるようになるのです。コリントの信徒への手紙二 1章8節~11節

原稿のアイコンメッセージ

 パウロは、差出人、受取人、挨拶の言葉に続けて、神様をほめたたえる言葉を記しました。神様はあらゆる慰めの神であるゆえに、あらゆる苦難の中で私たちを慰めることができるのです。それゆえ、私たちはあらゆる苦しみの中で、神様をあらゆる慰めの神としてほめたたえることができるのです。

 今朝の御言葉には、パウロがアジア州で被った苦難のことが記されています。

 

1 アジア州で被った苦難

 8節をお読みします。

 兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。

 パウロは、コリントの信徒たちに、「アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい」と記します。「アジア州」とは、小アジア、今のトルコ共和国があるところです。パウロは、アジア州のエフェソに三年間滞在し、福音を宣べ伝えました。ですから、アジア州で被った苦難とは、エフェソで被った苦難のことであると思われます。それである人は、使徒言行録の19章に記されている「エフェソでの騒動」のことではないかと推測しています。エフェソで、どのような騒動があったのかを確認したいと思います。新約の252ページです。使徒言行録19章23節から40節までをお読みします。

 そのころ、この道のことでただならぬ騒動が起こった。そのいきさつは次のとおりである。デメトリオという銀細工師が、アルテミスの神殿の模型を銀で造り、職人たちにかなり利益を得させていた。彼は、この職人たちや同じような仕事をしている者たちを集めて言った。「諸君、御承知のように、この仕事のお陰で、我々はもうけているのだが、諸君が見聞きしているとおり、あのパウロは『手で造ったものなどは神ではない』と言って、エフェソばかりでなくアジア州のほとんど全地域で、多くの人を説き伏せ、たぶらかしている。これでは、我々の仕事の評判が悪くなってしまうおそれがあるばかりでなく、偉大な女神アルテミスの神殿もないがしろにされ、アジア州全体、全世界があがめるこの女神の御威光さえも失われてしまうだろう。」

 これを聞いた人々はひどく腹を立て、「エフェソ人のアルテミスは偉い方」と叫びだした。そして、町中が混乱してしまった。彼らは、パウロの同行者であるマケドニア人ガイオとアリスタルコを捕らえ、一団となって野外劇場になだれ込んだ。パウロは群衆の中へ入っていこうとしたが、弟子たちはそうさせなかった。他方、パウロの友人でアジア州の祭儀をつかさどる高官たちも、パウロに使いをやって、劇場に入らないようにと頼んだ。さて、群衆はあれやこれやとわめき立てた。集会は混乱するだけで、大多数の者は何のために集まったのかさえ分からなかった。

 そのとき、ユダヤ人が前へ押し出したアレクサンドロという男に、群衆の中のある者たちが話すように促したので、彼は手で制し、群衆に向かって弁明しようとした。しかし、彼がユダヤ人であると知った群衆は一斉に、「エフェソ人のアルテミスは偉い方」と二時間ほども叫び続けた。そこで、町の書記官が群衆をなだめて言った。「エフェソの諸君、エフェソの町が、偉大なアルテミスの神殿と天から降って来た御神体との守り役であることを、知らない者はないのだ。これを否定することはできないのだから、静かにしなさい。決して無謀なことをしてはならない。諸君がここへ連れて来た者たちは、神殿を荒らしたのでも、我々の女神を冒涜したのでもない。デメトリオと仲間の職人が、だれかを訴え出たいのなら、決められた日に法廷は開かれるし、地方総督もいることだから、相手を訴え出なさい。それ以外のことで更に要求があるなら、正式な会議で解決してもらうべきである。本日のこの事態に関して、我々は暴動の罪に問われるおそれがある。この無秩序な集会のことで、何一つ弁解する理由はないからだ。」こう言って、書記官は集会を解散させた。

 このような騒動の記述を通して、私たちはエフェソがどのような町で、パウロがどのような反対にあって福音を宣べ伝えていたかを知ることができます。パウロがアジア州で被った苦難が、この騒動ではなかったとしても、パウロは、多くの反対者たちから苦しみを受けて、イエス・キリストの福音を宣べ伝えたのです。

 では、今朝の御言葉に戻りましょう。新約の325ページです。

 アジア州で被った苦難によって、パウロは、耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。この記述は、先程の「エフェソでの騒動」とは一致していません。と言いますのも、「エフェソでの騒動」では、パウロは矢面に立たなかったからです。私たちには、アジア州で被った苦難がどのようなものであったのか分かりません。けれども、コリントの信徒たちは知っていたようです。パウロはそのことを思い出させているのです。

2 自分ではなく神を頼りとする

 9節、10節をお読みします。

 わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。

 パウロは、アジア州で被った苦難の中で耐えがたいほど圧迫され、生きる望みさえ失ってしまいました。その苦難は、パウロにとって「死の宣告」のような厳しいものであったのです。しかし、そのような厳しい苦難の中で、パウロは自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになるのです。そのようにして、パウロは苦しみの中で、神様からの慰め、励まし、力づけをいただくことができたのです。パウロは、4節で、「神はあらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださる」と記しました。神様はあらゆる苦しみの中で、私たちを慰め、励まし、力づけてくださるお方です。その神様の慰め、励まし、力づけを、私たちは苦しみの中で、どのようにしていただくのでしょうか。それは、苦しみの中で、自分ではなく、神様を頼りとすることによるのです。苦しみの中で、自分ではなく、神様を頼りとするとき、私たちは、神様の慰め、励まし、力づけを受けることができるのです。

 ここでパウロが知ってほしいと言っている苦難が、耐えられないほどの圧迫であり、生きる望みさえ失い、死の宣告に等しいものであったと記していることに注意したいと思います。パウロはこのような苦難を通して、自分ではなく、死者を復活させられた神様を頼りとするように導かれたのです。同じようなことが、私たちにおいても言えると思います。私たちは耐えられないほど圧迫され、生きる望みさえ失い、死の宣告に等しい苦しみの中で、神様に出会ったのです。私たちが神様を信じて生きるのは、苦難の中で、自分を頼りとしては生きていけないと悟らせていただいたからです。もし、苦難の中で、自分に死の宣告をくだすならば、自死ということになってしまいます。しかし、苦難の中で、「あなたの罪は赦された」「わたしを求めて、生きよ」という神様の宣告を聞くならば、私たちは生きることができるのです。

 10節に、「神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう」と記されています。ある人は、パウロを死の危険から救ったのは、エフェソに滞在していたアキラとプリスキラ夫妻であると推測しています。パウロは神様が救ってくれたと記していますが、それは神様がアキラとプリスキラ夫妻を用いて、パウロを救ってくれたと言うのです。そのように考える一つの根拠が、ローマ書の16章3節、4節の御言葉です。そこにはこう記されています。「キリスト・イエスに結ばれてわたしの協力者となっている、プリスカとアキラによろしく。命がけでわたしの命を守ってくれたこの人たちに、わたしだけでなく、異邦人のすべての教会が感謝しています」。プリスカとアキラは、命がけで、自分の首を差し出して、パウロの命を守ってくれた。それは、エフェソでの苦難の時であったと推測できるのです。神様は、私たちの身近な人たちを用いて、私たちを苦難の中から救い出してくださるのです。それは必ずしもキリスト者とは限りません。神様は、未信者である人々をも用いて、私たちを死の宣告に等しい苦しみから救い出してくださるのです。そのような神様に希望を置いて、私たちは生きることができるのです。私たちの希望は、イエス・キリストを死者の中から復活させられた神にかかっている。それゆえ、私たちは、「死の陰の谷を行くときも、災いを恐れない」で生きることができるのです(詩23:4参照)。

3 祈りの援助

 11節をお読みします。

 あなたがたも祈りで援助してください。そうすれば、多くの人のお陰でわたしたちに与えられた恵みについて、多くの人々がわたしたちのために感謝をささげてくれるようになるのです。

 パウロは、コリントの信徒たちに、自分が死の危険から救われるようにと神様に祈って助けてほしいと記します。パウロは、神様がこれからも自分たちを死の危険から救ってくださると希望を抱いているのですが、その希望は、コリントの信徒たちの祈りによって、いよいよ確かなものとなるのです。また、パウロのために祈ることは、コリントの信徒たちにとっても益となります。コリントの信徒たちがパウロが死の危険から救われるように祈り、その祈りのとおりに、パウロが死の危険から救われるならば、彼らは自分たちの祈りを聞いてくださった神様に感謝をささげることができるからです。そのようにして、コリント信徒たちは祈ることによって、パウロの使徒としての働きにあずかる者になるのです。卑近な例で言えば、信徒は牧師の説教準備のために祈ることによって、牧師の説教の働きにあずかる者になるわけです。説教を聞いて、「今日はよく分からなかった」と思えば「ますます祈ろう」と思い、「今日はよく分かった。神様からの慰め、励まし、力づけを受けた」と思えば、「神様は祈りを聞いてくださった」と思って感謝をささげることができるのです。あるいは、病気で入院している兄弟姉妹のために祈る。その兄弟姉妹の病状が思わしくなければ、「ますます祈ろう」と思い、回復して、退院されたと聞けば、「神様は祈りを聞いてくださった」と思って感謝をささげることができるわけです。このように、私たちは、祈りによっても恵みを共有し、神様に感謝をささげることができるのです。私たちはそれぞれに苦難があります。その苦しみを教会として分かち合い、祈り合いたいと願います。パウロが願ったのも、まさにそのことであったのです。

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