慰めを豊かにくださる神 2018年11月25日(日曜 朝の礼拝)
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慰めを豊かにくださる神
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- 村田寿和 牧師
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コリントの信徒への手紙二 1章3節~7節
聖書の言葉
1:3 わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。
1:4 神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。
1:5 キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。
1:6 わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。
1:7 あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです。コリントの信徒への手紙二 1章3節~7節
メッセージ
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序
先週からコリントの信徒への手紙二を学び始めました。前回、私たちは、この手紙の差出人、受取人、挨拶の言葉を学びました。今朝は、それに続く、賛美の言葉をご一緒に学びたいと思います。
1 慰めを豊かにくださる神
3節をお読みします。
わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。
新約聖書の原文はギリシャ語で記されています。そのギリシャ語の原文では、「ほめたたえられますように」と訳されている言葉が最初に記されています。「ほめたたえられよ、私たちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神」、こう記されているのです。このような神様へのほめたたえの言葉は、ユダヤ人たちが用いていたものをパウロが更新(アップデート)したものと言えます。イスラエルの神様、唯一のまことの生ける神様は、御子イエス・キリストにおいて、最終的に語られました(ヘブライ1:2参照)。神様の恵みと真理は、御子イエス・キリストにおいて示されたのです(ヨハネ1:17参照)。それゆえ、パウロは、神様を、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神」と呼び、ほめたたえるのです。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神」という言葉に続いて、「慈愛に満ちた父」と記されています。この「慈愛に満ちた父」は、イエス・キリストを信じる私たちの慈愛に満ちた父でもあります。なぜなら、イエス・キリストを信じる者は神の子とされる資格が与えられるからです(ヨハネ1:12)。イエス・キリストを信じた私たちは、神様を慈愛に満ちたわたしの父として知り、ほめたたえることができるのです。私たちは、独り子を与えられたほどに、このわたしを愛してくださった、わたしの父として神様をほめたたえることができるのです。また、神様は、「慰めを豊かにくださる神」でもあります。この所はもとの言葉を直訳しますと、「あらゆる慰めの神」と記されています。あらゆる慰め、すべての慰めは、神様から与えられるということです(ローマ15:5参照)。「慰める」という言葉の意味を国語辞典で引くと、「相手の悲しみや苦しみをなだめる」とあります。しかし、聖書の「慰める」という言葉(パラカレオー)は、「励ます」、「力づける」とも訳せます。聖書において、慰めは、励ましでもあり、力づけでもあるのです。
2 キリストの苦しみと慰め
4節、5節をお読みします。
神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。
「あらゆる苦難」と記されていますが、これが3節の「あらゆる慰め」と対応しているわけです。「あらゆる苦難」とは「すべての苦難」とも訳すことができます。神様は、あらゆる苦難、すべての苦難の中で、私たちを慰めることができる。それゆえ、パウロは、3節で、「あらゆる慰めの神」「すべての慰めの神」と記したわけです。先程、私は、「慰め」は励ましでもあり、力づけでもあると申しましたが、ここでもそのことが言えます。神様は、あらゆる苦難の中で、私たちを慰め、励まし、力づけてくださるのです。このあらゆる苦難とは、イエス・キリストのための苦難を指しています(聖書は「何故の苦しみか」ではなく、「何のための苦しみか」を問う)。と言いますのも、パウロは、5節で、「キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちに及んでいる」と記しているからです。自分たちのあらゆる苦しみは、キリストのための苦しみである。それゆえ、パウロは、「わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれている」と記すのです。キリストのための苦しみが満ちあふれるところに、キリストによって神の慰めも満ち溢れる。それゆえ、パウロは神様からいただく慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができると言うのです。実際、パウロが苦しみの中で神様の励ましによって福音を宣べ伝えている姿を見て、他の人たちも苦しみの中で神様の励ましを受け、福音を宣べ伝えたのでした(フィリピ1:12~14参照)。
3 共にする苦しみと慰め
6、7節をお読みします。
わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです。
パウロは、自分たちが体験したあらゆる苦難について記しました(4節)。また、その苦難が「キリストの苦しみが満ちあふれて自分たちに及んでいるもの」であると記しました(5節)。このように、パウロが自分たちの苦しみについて記すのは、なぜでしょうか。それはイエス・キリストのための苦しみこそ、自分がイエス・キリストの使徒であることのしるしであるからです。コリント教会には、パウロがイエス・キリストの使徒であることを疑う者たちがいました。そのような者たちのことを念頭において、パウロは自分がイエス・キリストの使徒として受けた苦難を記すのです。ですから、使徒パウロが受けた苦難は、コリントの信徒たちのための苦難でもあるのです。それゆえ、パウロは、6節で、「わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります」と記すことができたのです。パウロは、コリントの信徒たちを慰め、救うために、悩み苦しんでいるのです。
さらに、パウロはこう記すします。「また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです」。パウロたちが苦難の中で励まされ、力を与えられるとき、コリントの信徒たちも励まされ、力を与えられます。それは、パウロたちの苦難がコリントの信徒たちのための苦難であるからですね。そして、コリントの信徒たちもパウロたちと同じ苦しみ、キリストのための苦しみを耐えることができるのです。このように、使徒パウロとコリントの教会は、キリストのための苦しみと慰めにおいて、一体的な関係にあるのです。そして、ここに、パウロが「あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません」と記す理由があるのです。
結 キリストのために苦しむとは
聖書は、人は生きるために苦しむことを教えています。そして、その苦しみは、はじめの人アダムの罪に由来すると教えています。創世記の3章を見ますと、禁じられていた木の実を食べたアダムに、神様はこう言われました。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して/土は茨とあざみを生え出でさせる。野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵に過ぎないお前は塵に返る」。このように、アダムの最初の罪によって、人は食べるために苦しみ、最後には死ぬ者となったのです。創世記47章で、年老いたヤコブは、エジプトの王ファラオにこう言っています。「わたしの旅路の年月は130年です。わたしの生涯の年月は短く、苦しみ多く、わたしの先祖たちの生涯や旅路の年月には及びません」。ヤコブの生涯は、まことに苦しみ多い人生であったのです。ヨブ記には次のような御言葉があります。「塵からは、災いは出てこない。土からは苦しみは、生じない。それなのに、人間は生まれれば必ず苦しむ。火花が必ず上に向かって飛ぶように」(ヨブ5:6,7)。聖書は、神様が人間を土の塵から造ったと教えています。その土の塵から苦しみは生じない。しかし、その土の塵から造られた人間は生まれれば必ず苦しむ、と言うのです。私たちにも生きるための苦しみがあると思います。では、その苦しみは、キリストのための苦しみと言えるのでしょうか。結論から言えば、わたしは言えると思います。なぜなら、私たちキリスト者は、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬ者であるからです(ローマ14:8参照)。キリストのために生きる私たちの苦難は、すべてキリストのための苦難であるのです。健康や仕事や人間関係の苦しみであれ、すべてがキリストのための苦難であると言えるのです。それゆえ、私たちは、あらゆる苦難の中で、神様からの慰め、励まし、力づけをいただくことができるのです。苦難の中で、神様を慰めを豊かにくださる神としてほめたたえることができるのです。
今朝は最後に、私たちが生きるための苦しみとキリストのための苦しみが一つのものであることを、少し具体的にお話して終わりたいと思います。
神様は、主の日ごとに御自分の民を集め、礼拝をささげさせ、福音を宣べ伝えることをよしとされました。(一コリント1:21参照)。私たちがイエス・キリストを信じ続けることができるのは、教会があり、そこで主の日ごとに礼拝がささげられているからです。また、教会はキリストの体であると言われています(使徒9:4、一コリント12:27参照)。そうであれば、私たちにとってキリストのために苦しむとは、教会のために苦しむことであるのです。もっと言えば、教会の一員として礼拝をささげ続けるために苦しむことであるのです。私たちが労苦するのは、何より仕事においてでしょう。私たちは、仕事の労苦に対する報酬として給料をもらいます。そして、給料の一部を神様への献金としてささげているのです。その献金で、主の日の礼拝を中心とする教会のすべての営みが支えられているのです。そうであれば、私たちの仕事の労苦もイエス・キリストのためであるのです。人間は生きて行くためには、働かなくてはならない。そして、どんな仕事にも労苦が伴います。しかし、その労苦の報酬の一部を、私たちがキリストのためにささげているならば、その私たちの労苦はキリストのための労苦であると言えるのです。それゆえ、私たちは、仕事の苦しみにおいても、神様の慰め、励まし、力づけを受けることができるのです。労苦の報いの一部をささげる礼拝において、神様をあらゆる慰めの神として、ほめたたえることができるのです。