兄弟愛を続けなさい 2018年9月16日(日曜 朝の礼拝)

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兄弟愛を続けなさい

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヘブライ人への手紙 13章1節~3節

聖句のアイコン聖書の言葉

13:1 兄弟としていつも愛し合いなさい。
13:2 旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。
13:3 自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。ヘブライ人への手紙 13章1節~3節

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序 

 今朝から、ヘブライ人への手紙の13章に入ります。13章には、手紙を閉じるにあたっての勧告の言葉が記されています。今朝は、1節から3節までを御一緒に学びたいと思います。

1 兄弟愛を続けなさい

 1節をお読みします。

 兄弟としていつも愛し合いなさい。

 このところを口語訳聖書は「兄弟愛を続けなさい」と訳しています。もとの言葉を見ますと、「兄弟愛」と訳される「フィラデルフィア」という言葉が用いられています。兄弟愛(フィラデルフィア)を続けなさい。こう記されているのです。ここでの兄弟は、血縁による兄弟姉妹のことではなくて、主イエス・キリストにある兄弟姉妹のことであります。マタイによる福音書の12章49節で、イエス様は、弟子たちの方を指してこう言われました。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしたちの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」。イエス様を信じる私たちは、イエス様にあって、兄弟姉妹とされているのです。私たちは、神様を父とし、イエス様を長兄とする神の家族の一員であるのです。

 そのような私たちに、イエス様は、互いに愛し合うようにと命じられたのです。ヨハネによる福音書13章34節、35節で、イエス様は弟子たちにこう言われました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」。このように、イエス様は、ご自分の弟子たちが互いに愛し合うことを掟として与えられたのです。これは、私たちにも与えられている掟であります。私たちも、イエス様が私たちを愛してくださったように、互いに愛し合うことが求められているのです。そして、互いに愛し合うことこそ、私たちがイエス・キリストの弟子であることを、世の人々に示す印となるのです。

 「兄弟愛を続けなさい」。この御言葉は、ヘブライ人への手紙の宛先である教会が、兄弟愛に生きていたことを教えています。ヘブライ人への手紙は、6章9節から11節で、こう記していました。

 しかし、愛する人たち、こんなふうに話してはいても、わたしたちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています。神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛を忘れることはありません。わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。

 このように、ヘブライ人への手紙の宛先である教会は、兄弟愛を持っていました。しかし、問題は兄弟愛を続けること。主にある兄弟姉妹として、これからも愛し合うことです。そのための秘訣は、先程お読みしたイエス様の御言葉にあります。イエス様は、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と言われました。私たちが兄弟姉妹として互いに愛し合うためには、私たちを愛してくださったイエス様へと絶えず思いを向けなければならないのです。私たちがイエス様へと思いを向けるとき、それは礼拝をささげているときです。礼拝において、私たちはイエス様からの愛をいただいて、その愛をもって、兄弟姉妹を愛するのです。ですから、礼拝後の交わりのときに、私たちの兄弟愛はもっともよく示されると言えるのですね。イエス様から愛されている者たちとして、私たちも兄弟愛を続けていきたいと思います。そのようにして、私たちは、自分たちがキリストの弟子であることを確認し、また、世の人々に証ししていきたいと願います。

2 旅人をもてなしなさい

 2節をお読みします。

 旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。

 「旅人をもてなすこと」は、当時(紀元1世紀)の社会において、立派な行いと考えられていました。当時は、宿屋などの宿泊施設があまりありませんでした。また、あったとしてもいかがわしい誘惑に満ちていました。それで、旅人をもてなすことが社会的に奨励されていたわけです。

 使徒パウロも、ローマの信徒への手紙12章13節で、「旅人をもてなすよう努めなさい」と記しています。また、テモテへの手紙一の3章に記されている監督の資格の中には、「客を親切にもてなし」と記されています。さらに5章には、教会に登録するやもめの条件として、「旅人を親切にもてなした」ことがあげられています。このように、旅人をもてなすことは、キリスト者がなすべき良い行いの一つと考えられていたのです。

 しかし、見ず知らずの人を自分の家に泊めることに抵抗を覚える人もいたと思います。そのような人たちのことを念頭において、ヘブライ人への手紙は、「そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました」と記すのです。気づかずに天使たちをもてなした「ある人たち」とは、アブラハムとその甥であるロトのことです。

 創世記18章を読みますと、アブラハムが、天使たちとは気づかずに三人の旅人をもてなしたことが記されています。創世記の18章1節から10節までをお読みします。旧約の23ページです。

 主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、言った。「お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから。」その人たちは言った。「では、お言葉どおりにしましょう。」アブラハムは急いで天幕に戻り、サラのところに来て言った。「早く、上等の小麦粉三セアほどこねて、パン菓子をこしらえなさい。」アブラハムは牛の群れのところへ走って行き、やわらかくておいしそうな子牛を選び、召し使いに渡し、急いで料理させた。アブラハムは、凝乳、乳、出来立ての子牛の料理などを運び、彼らの前に並べた。そして、彼らが木陰で食事をしている間、そばに立って給仕をした。彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻サラはどこにいますか。」「はい、天幕の中におります」とアブラハムが答えると、彼らの一人がいった。「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた戻ってきますが、そのころには、あなたの妻サラに男の子が生まれているでしょう。」サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた。

 このように、アブラハムは天使たちとは気づかずに旅人をもてなしました。そして、その一人の天使から、「来年の今ごろ、あなたの妻サラに男の子が生まれているでしょう」との約束をいただくことができたのです。

 また、創世記19章を読みますと、アブラハムの甥であるロトが二人の御使いをもてなしたことが記されています。ロトも二人の旅人が天使たちであることに気づかずにもてなしたのです。19章1節から3節までをお読みします。旧約の25ページです。

 二人の御使いが夕方ソドムに着いたとき、ロトはソドムの門の所に座っていた。ロトは彼らを見ると、立ち上がって迎え、地にひれ伏して、言った。「皆様方、どうぞ僕の家に立ち寄り、足を洗ってお泊まりください。そして、明日の朝早く起きて出立なさってください。」彼らは言った。「いや、結構です。わたしたちはこの広場で夜を過ごします。」しかし、ロトがぜひにと勧めたので、彼らはロトの所に立ち寄ることにし、彼の家を訪ねた。ロトは、酵母を入れないパンを焼いて食事を供し、彼らをもてなした。

 この後に、ソドムの男たちがロトの家を取り囲んで一悶着あったことが記されています。これによって、ソドムの罪が確かめられ、二人の御使いはソドムを滅ぼすことにします。しかし、ロトは、二人の旅人を天使たちとは気づかずにもてなしたことよって、ソドムの人々と一緒に滅ぼされずに済んだのです。

 アブラハムも、ロトも、旅人をもてなすことによって祝福を受けました。それゆえ、あなたたちも、旅人をもてなすことを忘れてはいけないと、ヘブライ人への手紙は記すのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の418ページです。

 「旅人をもてなすことを忘れてはいけません」。この御言葉を、私たちはどのように自分と結びつけて聞いたらよいのでしょうか。現在は、多くの宿泊施設があります。また、旅人をもてなすことが立派な行いとして社会的に奨励されているわけでもありません。そのような時代にあって、「旅人をもてなしなさい」という御言葉をそのまま当てはめることは難しいと思います。皆さんは、どのように考えられるでしょうか。「旅人をもてなしなさい」という御言葉を、どのように自分は実践できると考えられるでしょうか。

 私として、「困っている人に親切にしなさい」という意味で実践できるのではないかと思います。実際、教会には、旅人といいますか、生活に困っている人が訪ねて来ることがあります。その人をロトのように泊めることはできなくても、アブラハムのように食事を提供することはできるわけです。そのように、自分ができる範囲で、困っている人に親切にする。そのとき、その困っている人は、あなたに祝福をもたらす天使(神様から遣わされた者)かも知れないのです。

3 牢に捕らわれている人たちを思いやりなさい

 3節をお読みします。

 自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。

 ここでの「牢に捕らわれている人たち」は、イエス・キリストへの信仰のゆえに、牢に捕らわれている人たちのことであると思います。といいますのも、10章34節に、信仰のゆえに捕らえられた人たちのことが記されていたからです。10章32節から34節までをお読みします。

 あなたがたは、光に照らされた後、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してください。あざけられ、苦しめられて、見せ物にされたこともあり、このような目に遭った人たちの仲間となったこともありました。実際、捕らえられた人たちと苦しみを共にしたし、また、自分がもっとすばらしい、いつまでも残るものを持っていると知っているので、財産を奪われても、喜んで耐え忍んだのです。

 このように、ヘブライ人への手紙の読者たちは、実際に、イエス・キリストへの信仰のゆえに捕らえられた人たちと苦しみを共にしたのでした。

 今朝の御言葉、13章3節に、「自分も一緒に捕らえられているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやりなさい」とあります。ここで「思いやりなさい」と訳されている言葉は、「想い起こしなさい」とか「覚えていなさい」とも訳すことができます。「自分も一緒に捕らえられているつもりで、牢に捕らわれている人たちを覚えていなさい」。それは自分も牢に捕らわれている人たちと同じ信仰を持っているからです。自分と同じ信仰のゆえに牢に捕らえられている人たちがいる。そのことを想い起こして、覚えていることが求められているのです。

 ヘブライ人への手紙は、続けて次のように記しています。「また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい」。ここでの「虐待されている人たち」を、口語訳聖書は「苦しめられている人たち」と訳しています。ここでは「体」のことが言われていますから、信仰のゆえに体に苦しみを受けている人たちのことが言われているようです。そのような人たちを、私たちも体をもって生きている者として、覚えていることが求められているのです。

 信仰のゆえに牢に捕らえられ、体に苦しみを受けている人たちと同じ信仰と体をもって私たちは生きている。そうであれば、その人たちは、わたしであり、あなたであると言えるのです。

 今朝の週報に参考資料として、『CHRISTIAN TODAY』の記事を印刷して挟んでおきました。その記事によると、2016年は「世界のキリスト教徒の12人に一人が迫害に直面」しており、「その人数は2億1500万人余りに上る」とのことです。「キリスト教徒への迫害が厳しい上位21カ国は、上から順に、北朝鮮、ソマリア、アフガニスタン、パキスタン、スーダン、シリア、イラク、イラン、イエメン、エリトリア、リビア、ナイジェリア、モルディブ、サウジアラビア、インド、ウズベキスタン、ベトナム、ケニア、トルクメニスタン、カタール、エジプトとなっている」とのことです。「北朝鮮は16年連続で最悪」とのことですが、北朝鮮の状況について、次のように記しています。

 北朝鮮では、キリスト教徒は信仰を実践することが禁じられており、聖書を所有するだけで殺害されたり、投獄されたりする畏れがある。金正恩(キム・ジョンウォン)政権は、金(キム)一族が神の家系であるとするカルト的信念を国民に強要しており、キリスト教信仰を実践したり、朝鮮労働党から離党しようとしたりしたために、数千人のキリスト教徒が殺害されたり、家族全員が拷問のような労働「再教育」収容所に入れられたりしている。

 このように、私たちと同じ信仰と体をもった人たちが、今も牢に捕らえられ、虐待されているのです。この人たちも主にある兄弟姉妹です。主にある兄弟姉妹が、信仰のゆえに牢に捕らえられている。そのことを覚えて、自分も一緒に捕らわれているつもりで、神様に祈りたいと願います。

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