揺り動かされない御国 2018年9月09日(日曜 朝の礼拝)
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揺り動かされない御国
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- 村田寿和 牧師
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ヘブライ人への手紙 12章18節~29節
聖書の言葉
12:18 -19あなたがたは手で触れることができるものや、燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、更に、聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声に、近づいたのではありません。
12:20 彼らは、「たとえ獣でも、山に触れれば、石を投げつけて殺さなければならない」という命令に耐えられなかったのです。
12:21 また、その様子があまりにも恐ろしいものだったので、モーセすら、「わたしはおびえ、震えている」と言ったほどです。
12:22 しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、
12:23 天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、
12:24 新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。
12:25 あなたがたは、語っている方を拒むことのないように気をつけなさい。もし、地上で神の御旨を告げる人を拒む者たちが、罰を逃れられなかったとするなら、天から御旨を告げる方に背を向けるわたしたちは、なおさらそうではありませんか。
12:26 あのときは、その御声が地を揺り動かしましたが、今は次のように約束しておられます。「わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう。」
12:27 この「もう一度」は、揺り動かされないものが存続するために、揺り動かされるものが、造られたものとして取り除かれることを示しています。
12:28 このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。
12:29 実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です。
ヘブライ人への手紙 12章18節~29節
メッセージ
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序
今朝は、ヘブライ人への手紙12章18節から29節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。
1 私たちが近づいたのではないもの
18節から21節までをお読みします。
あなたがたは手で触れることができるものや、燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、更に、聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声に、近づいたのではありません。彼らは、「たとえ獣でも、山に触れれば、石を投げつけて殺さなければならない」という命令に耐えられなかったのです。また、その様子があまりにも恐ろしいものだったので、モーセすら、「わたしはおびえ、震えている」と言ったほどです。
ここには、「私たちが近づいたのではないもの」が記されています。ここに描かれているのは、イスラエルの民がシナイ山で主にお会いしたときの光景です。出エジプト記の19章10節から19節までをお読みします。旧約の125ページです。
主はモーセに言われた。「民のところに行き、今日と明日、彼らを聖別し、衣服を洗わせ、三日目のために準備させなさい。三日目に、民全員の見ている前で、主はシナイ山に降られるからである。民のために周囲に境を設けて、命じなさい。『山に登らぬよう、また、その境界に触れぬよう注意せよ。山に触れる者は必ず死刑に処せられる。その人に手を触れずに、石で打ち殺すか、矢で射殺さねばならない。獣であれ、人であれ、生かしておいてはならない。角笛が長く吹き鳴らされるとき、ある人々は山に登ることができる。』」
モーセは山から民のところに下って行き、民を聖別し、衣服を洗わせ、民に命じて、「三日目のために準備をしなさい。女に近づいてはならない」と言った。三日目の朝になると、雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み、角笛の音が鋭く鳴り響いたので、宿営にいた民は皆、震えた。しかし、モーセが民を神に会わせるために宿営から連れ出したので、彼らは山のふもとに立った。シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。角笛の音がますます鋭く鳴り響いたとき、モーセが語りかけると、神は雷鳴をもって答えられた。
エジプトから導き出されたイスラエル民がシナイ山で体験した主との出会いは、吹き荒れる嵐や火山の噴火を思わせる恐ろしいものでした。イスラエルの民は、その神様から、直接、十の言葉、十戒を告げられるのです。20章の1節から17節に十戒が記されています。ここでは18節から21節までをお読みします。旧約の127ページです。
民全員は、雷鳴がとどろき、稲妻が光り、角笛の音が鳴り響いて、山が煙りに包まれる有様を見た。民は見て恐れ、遠く離れて立ち、モーセに言った。「あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞きます。神がわたしたちにお語りにならないようにしてください。そうでないと、わたしたちは死んでしまいます。」モーセは民に答えた。「恐れることはない。神が来られたのは、あなたたちを試すためであり、また、あなたたちの前に神を畏れる畏れをおいて、罪を犯させないようにするためである。」民は遠く離れて立ち、モーセだけが神のおられる密雲に近づいて行った。
イスラエルの民は神様の直接の語りかけに耐えることができませんでした。これ以上、神様が語りかけるならば、自分たちは死んでしまうと恐れたのです。それにしても、なぜ、神様は、このような嵐や火山の噴火や地震などの恐ろしい自然現象によって、御自身をイスラエルの人々に現されたのでしょうか。その目的を、モーセはここで告げています。神様がこのような恐ろしい自然現象によって御自身を現されたのは、イスラエルの人々を試し、御自分に対する畏れをおいて、罪を犯させないためであったのです。イスラエルの民が十戒を神の言葉として守るために、このような仕方で神様は御自身を現されたのです。
では、今朝の御言葉に戻ります。新約の418ページです。
ヘブライ人への手紙は、出エジプト記の御言葉を背景にして18節から21節までを記し、「あなたがたが近づいたのはこのようなものではない」と語っています。シナイ山に降られた主と、イエス・キリストにおいて御自身を現された神様は、同じお方です。けれども、イスラエルの人々と私たちとでは、近づき方が違うわけです。私たちは、永遠の大祭司イエス・キリストを通して、神様に近づいたのです。もし、聖なる神様に、永遠の大祭司イエス・キリストを抜きにして近づけばどうなるか。それは、ここに記されているような恐ろしい有様で神様にお会いすることになるわけです。しかし、私たちは新しい契約の仲介者であるイエスを持っていますので、大胆に恵みの座に近づくことができるのです(4:16参照)。
2 私たちが近づいたもの
22節から24節までをお読みします。
しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人の霊、新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。
ここには、イエス・キリストにあって、新しい契約の祝福に生かされている「私たちが近づいたもの」が記されています。「シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会」は、いずれも同じものを指しています。それは、神様とイエス・キリストがおられる天の御国です。
「シオンの山」は、エルサレムの丘のことで、そこには神殿が建っていました。ヨハネの黙示録14章1節に、こう記されています。「わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っており、小羊と共に十四万四千人の者たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とが記されていた」。
「生ける神の都」はアブラハムが待望していたものですね。11章10節に、こう記されていました。「アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです」。
「天のエルサレム」も、神様とイエス・キリストがおられる都のことです。ヨハネの黙示録21章2節に、こう記されています。「わたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た」。
「無数の天使たちの祝いの集まり」とあります。天の御国では、私たちは無数の天使たちと共に神様とイエス・キリストを礼拝することになります。ヨハネの黙示録5章11節、12節に、こう記されています。「わたしは見た。そして、玉座と生き物と長老たちとの周りに、多くの天使の声を聞いた。その数は万の数万倍、千の数千倍であった。天使たちは大声でこう言った。『屠られた小羊は、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、そして賛美を受けるにふさわしい方です』」。このように天の御国では、多くの天使たちが神様と小羊であるイエス・キリストを礼拝しているのです。
「天に登録されている長子たちの集会」とあります。「天に登録されている長子たち」とは、神の長子であるイエス・キリストを信じて、天の御国を受け継ぐ者たちのことです。ヨハネの黙示録の21章27節に、新しいエルサレムには「小羊の命の書に名が書いてある者だけが入れる」と記されています。また、イエス様は弟子たちに、「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」と言われました(ルカ10:20)。イエス様を信じている私たちの名前が天に書き記されている。それゆえ、私たちは、天に登録されている長子たちの集会の一員であるのです。ここで「集会」と訳されている言葉(エクレーシア)は「教会」とも訳されます。地上の教会の一員である私たちは、天上の教会の一員でもあるのです。私たちは、今、大祭司イエス・キリストの贖いと執り成しによって、礼拝をささげています。そのようにして、私たちは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの教会に近づいているのです。
「すべての人の審判者である神」とあります。私たちが近づいている神様は、世の終わりにすべてに人を裁かれるお方です。そうであれば、私たちも昔のイスラエルの人々やモーセと同じように、「わたしはおびえ、震えている」と言わねばならないのでしょうか?そうではありません。なぜなら、私たちは新しい契約の仲介者であるイエス様を通して神様に近づくからです。アベルの血よりも立派に語る、イエス様の血を通して近づくからです。「アベルの血よりも立派に語る注がれた血」とは、どのような意味でしょうか。アベルについては、11章4節に記されていました。アベルは正しい者であったのに、兄のカインによって殺されてしまいました。そのアベルの血が土の中から神様に向かって叫んでいる。その叫びは、「わたしの血の復讐をしてください。そのようにして神様の正しさをお示しください」という言葉でしょう(黙示6:10参照)。しかし、自らを献げ物として注がれたイエス様の血は、そのアベルの血よりも良いことを語るのです。それは、「父よ、彼らをお赦しください。わたしが彼らに代わって、血を流しましたから」という言葉です。「わたしの贖いの血によって、わたしの民の罪を赦してください。そのようにしてあなたの正しさをお示しください」という言葉です。そのように語るイエス様の血によって、信仰をもって生きた昔の人たちは、「完全なものとされた正しい人たちの霊」として、天の御国にいるのです。
3 揺り動かされない御国
25節から29節までをお読みします。
あなたがたは、語っている方を拒むことのないように気をつけなさい。もし、地上で神の御旨を告げる人を拒む者たちが、罰を逃れられなかったとするなら、天から御旨を告げる方に背を向けるわたしたちは、なおさらそうではありませんか。あのときは、その御声が地をゆり動かしましたが、今は次のように約束しておられます。「わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう。」この「もう一度」は、揺り動かされないものが存続するために、揺り動かされるものが、造られたものとして取り除かれることを示しています。このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です。
25節の「語っている方」とは、血によって語られる新しい契約の仲介者イエス・キリストです。イエス様が「わたしはあなたの罪のために死んだのだから、あなたはわたしを信じて命を得なさい」と語っておられる。そのイエス様を拒むことのないように気をつけなさい、とヘブライ人への手紙は警告するのです。「もし地上で神の御旨を告げる人、モーセを拒む者たちが、罰を逃れられなかったとするなら、天から御旨を告げる方、イエス・キリストに背を向けるわたしたちは、なおさら厳しい罰を受けることになる」。ここで注意したいことは、モーセを通して語られた方も、イエス・キリストを通して語られた方も、同じ神様であるということです(1:1、2参照)。では、なぜ、モーセを拒むことよりも、イエス・キリストを拒むことは、厳しい罰を受けることになるのでしょうか。それは、モーセによってよりも、イエス・キリストによって神様の御意志がはっきりと示されたからです(1:3参照)。また、モーセによってよりも、イエス・キリストによって大いなる救い、罪からの救いが成し遂げられたからです(2:3参照)。イエス様は、「すべて多く与えられた者は、多く求められ」ると言われました(ルカ12:48参照)。イエス・キリストによってより多くの恵みを与えられている私たちは、より多く求められるのです。
26節に、「あのときは、その御声が地を揺り動かしました」とあります。これはいつのことを言っているのでしょうか。これはおそらく、「イスラエルの民の前で、主がシナイ山に降られたとき」のことであるようです。主がシナイ山に降られたとき、震えたのはイスラエルの民だけではありませんでした。山全体が激しく震えたのです(出エジプト19:18参照)。そのように地を揺り動かされた神様が、「わたしはもう一度、地だけでなく天をも揺り動かそう」と約束しておられるのです。「わたしはもう一度、地だけでなく天をも揺り動かそう」。この御言葉はハガイ書の2章6節に記されています。ヘブライ人への手紙は、この御言葉が、イエス・キリストが再び来られる世の終わりに実現すると語るのです。世の終わりに、天と地が揺り動かされることによって、造られたものが取り除かれる。そして、揺り動かされない御国(王国)だけが残るのです。その王国を私たちは与えられている。その王国の住民台帳には、私たち一人一人の名前が記されているのです。ですから、感謝しよう。神様の恵みを持っているのだから、感謝しよう。そして、畏れ敬いながら、神様に喜ばれるように仕えていこう、とヘブライ人への手紙は記すのです。「神に喜ばれるように仕える」とは、「神様が定めておられるとおりに、神様を礼拝する」ということです。それは、廃棄された動物犠牲によってではなくて、新しい契約の仲介者、永遠の大祭司イエス・キリストを通して礼拝をささげるということです。
29節に、「実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です」とあります。シナイ山において、神様はご自身を焼き尽くす火として示されました(申命5:25参照)。それは、神様が罪を焼き尽くす厳しいお方であるということです。このことは、新約においても変わりません。「旧約の神は厳しいお方で、新約の神は愛のお方だ」と考えるならば、それは間違いです。わたしたちの神は、焼き尽くす火なのです。では、そのようなお方に、どうして私たちは近づくことができるのでしょうか。全幅の信頼をもって「アッバ、父よ」と呼び、近づくことができるのでしょうか。それは、私たちがイエス・キリストを通して、神様に近づくからです。
「わたしたちの神は、焼き尽くす火です」。このことがはっきりと示されたのが、イエス・キリストの十字架でありました。イエス・キリストの十字架を見つめるとき、私たちは、確かに「私たちの神は焼き尽くす火である」ことが分かるのです。イエス・キリストは、私たちに代わって、十字架のうえで焼き尽くされてくださいました。ですから、私たちはもう焼き尽くされることはありません。しかし、もし、イエス・キリストの福音を拒むならどうなるか。私たちは自らの罪のゆえに、焼き尽くされることになるのです。「実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です」。この厳粛なる事実を、私たちは心に刻みたいと願います。