聖なる生活を追い求めよ 2018年9月02日(日曜 朝の礼拝)

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聖なる生活を追い求めよ

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヘブライ人への手紙 12章14節~17節

聖句のアイコン聖書の言葉

12:14 すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。
12:15 神の恵みから除かれることのないように、また、苦い根が現れてあなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚れることのないように、気をつけなさい。
12:16 また、だれであれ、ただ一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウのように、みだらな者や俗悪な者とならないよう気をつけるべきです。
12:17 あなたがたも知っているとおり、エサウは後になって祝福を受け継ぎたいと願ったが、拒絶されたからです。涙を流して求めたけれども、事態を変えてもらうことができなかったのです。ヘブライ人への手紙 12章14節~17節

原稿のアイコンメッセージ

 前回学んだ13節に、こう記されていました。「また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい」。そのまっすぐな道がどのような道であるのかが、今朝の御言葉に記されています。

1 聖なる生活を追い求めよ

 14節をお読みします。

 すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。

 ここで、ヘブライ人への手紙の著者は、「すべての人との平和と聖なる生活を追い求めなさい」と命じています。

 最初に「すべての人との平和を追い求めなさい」という命令についてお話ししたいと思います。まず確認しておきたいことは、この命令が永遠の大祭司イエス・キリストによって、神様との平和を与えられた私たちに命じられているということです。あなたがたは、永遠の大祭司イエス・キリストの贖いと執り成しによって、すべての罪を赦され、神様との平和を与えられたのだから、すべての人との平和を追い求めなさい、と命じられているのです。イエス・キリストの贖いと執り成しによって与えられた神様との平和を基として、すべての人との平和を追い求める。そのとき、私たちに求められることは、隣人の罪を赦そうという姿勢です。マタイによる福音書の18章で、ペトロは、イエス様にこう尋ねました。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」。それに対して、イエス様はこう答えられました。「七回どころか七の七十倍まで赦しなさい」。七の七十倍まで赦すとは、490回まで赦すが、491回からは赦さないということではありません。数えることを止めて、無制限に赦すということです。自分に対して罪を犯す者がいても、何回でも赦してあげないさいとイエス様は言われたのです。それは、私たちが、イエス・キリストにあって、神様からすべての罪を赦していただいたからです。実際、神様は、私たちの罪をイエス・キリストにあって、何度でも赦してくださいます。ですから、私たちは、主の日の礼拝ごとに罪を告白しているわけです。そのような神様の赦しにあずかっている者として、隣人の罪を赦しなさいと言われているのです。

 イエス様が、「七の七十倍まで赦しなさい」と言われたとき、それは「自分に罪を犯した人が謝ったから赦す」ということではないと思います。私たちには、自分に罪を犯した人が謝らなくても、赦すことが求められているのです。もし、相手が謝ったから赦すということであるならば、赦すことの主導権は相手にあることになります。そうであれば、私たちはいつまでも憎しみや恨みに捕らわれていまうことになってしまいます。しかし、相手が謝るかどうかに関わらず、私たちが赦すならば、私たちは憎しみや恨みから解放されて平和に生きることができるのです。罪を赦すとは、言い換えれば、その罪を忘れてしまうことです。エレミヤ書の31章34節に、「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪を心に留めることはない」と神様が言われているように、隣人の罪を赦して、忘れてしまう。そのようにして、隣人との平和な関係を追い求めなさいと言われているのです(コロサイ3:13参照)。

 次に、「聖なる生活を追い求めなさい」という命令についてお話ししたいと思います。「聖なる生活」とは、具体的に言えば、神の掟である十の言葉、十戒に従う生活のことであります。そもそも、十戒は、イスラエルの民が、聖なる国民として歩むために与えられた御言葉でありました。出エジプト記19章3節から6節までをお読みします。旧約の124ページ。

 モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。

「ヤコブの家にこのように語り/イスラエルの人々に告げなさい。あなたたちは見た/わたしがエジプト人にしたこと/また、あなたたちを鷲の翼に乗せて/わたしのもとに連れて来たことを。今、もしわたしの声に聞き従い/わたしの契約を守るならば/あなたたちはすべての民の間にあって/わたしの宝の民となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって/祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」

 5節の前半に、「今、もしわたしの声に聞き従い/わたしの契約を守るならば」とあります。この契約の基本法こそ、神様がイスラエルの人々に、直接語られる十の言葉、十戒であるのです。神様は、イスラエルの人々が祭司の王国、聖なる国民となるために、続く20章で、十戒を語られるのです。しかし、ここで注意したいことは、新しい契約の祝福にあずかっている私たちは、聖なる国民となるために、十戒を守るのではないということです。そうではなくて、聖なる国民とされているゆえに、私たちは十戒を守るのです。私たちが聖なる生活を追い求めるのは、私たちがイエス・キリストにあって、聖なる神の民とされているからです。イエス・キリストにあって、神の民とされた恵みに対する感謝から、私たちは聖なる生活を追い求めるのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の417ページです。

 ヘブライ人への手紙の著者は、12章14節の後半で、「聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません」と記しています。主を見るとは、やがて来られる主イエス・キリストとお会いすることを指しています。聖なる生活を抜きにして、だれも栄光の主イエスにお会いすることはできない。そうであれば、聖なる生活は、私たちが主イエスにお会いするための準備であると言えるです(一ヨハネ3:2、3参照)。

2 苦い根

 15節をお読みします。

 神の恵みから除かれることのないように、また、苦い根が現れてあなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚れることのないように、気をつけなさい。

 「苦い根」とありますが、これは、申命記29章17節に出て来る言葉です。そこには、こう記されています。「今日、心変わりして、我々の神、主に背き、これらの国々の神々のもとに行って仕えるような男、女、家族、部族があなたたちの間にあってはならない。あなたたちの中に、毒草や苦よもぎを生ずる根があってはならない」。申命記において、「苦い根」とは、「主に背いて、木や石で作られた他の国々の神々に仕える者たち」のことを指しています。しかし、ヘブライ人への手紙において、「苦い根」とは、「イエス・キリストの十字架の贖いをなかったことにして、動物犠牲を献げる旧い契約に生きる者たち」のことであるのです。そのような者たちは、ヘブライ人への手紙によれば、「神の子を足げにし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、恵みの霊を侮辱する」者でありました(10:29参照)。そのような者たちによって、教会全体が汚されることがないように気をつけなさいと、ヘブライ人への手紙は言うのです。このことは、特に、長老たちの会議(小会)に委ねられている務めであります。『政治規準』の第76条に、「小会の議会権能と任務」が記されています。その一つに、「教会を損なう恐れのある内外の誤謬と不道徳に対し抗議すること」とあります。苦い根によって、多くの人が汚されないように気をつけること。そのことを、主イエスから群れの監督を委ねられている長老たちは、特に求められているのです。

3 エサウのようになるな

 16節、17節をお読みします。

 また、だれであれ、ただ一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウのように、みだらな者や俗悪な者とならないよう気をつけるべきです。あなたがたも知っているとおり、エサウは後になって祝福を受け継ぎたいと願ったが、拒絶されたからです。涙を流して求めたけれども、事態を変えてもらうことができなかったのです。

 ここには、反面教師としてのエサウの姿が記されています。エサウが弟のヤコブに、一杯の食物と引き換えに長子の権利を売ってしまったことは、創世記の25章に記されています。創世記の25章27節から34節までをお読みします。旧約の39ページです。

 二人の子供は成長して、エサウは巧みな狩人で野の人となったが、ヤコブは穏やかな人で天幕の周りで働くのを常とした。イサクはエサウを愛した。狩りの獲物が好物だったからである。しかし、リベカはヤコブを愛した。ある日のこと、ヤコブが煮物をしていると、エサウが疲れきって野原から帰って来た。エサウはヤコブに言った。「お願いだ、その赤いもの(アドム)、そこの赤いものを食べさせてほしい。わたしは疲れきっているんだ。」彼が名をエドムとも呼ばれたのはこのためである。ヤコブは言った。「まず、お兄さんの長子の権利を譲ってください。」「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」とエサウが答えると、ヤコブは言った。「では、今すぐ誓ってください。」エサウは誓い、長子の権利をヤコブに譲ってしまった。ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えた。エサウは飲み食いしたあげく立ち、去って行った。こうしてエサウは、長子の権利を軽んじた。

 長子の権利、それは父イサクから神様の祝福を受け継ぐ権利であります。しかし、エサウは、その長子の権利を軽んじて、一杯の食物と引き換えに、ヤコブに売ってしまったのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の418ページです。

 ヘブライ人への手紙が、長子の権利を軽んじたエサウのようになってはならないと記すとき、その「長子の権利」は、私たちにとって、神の長子であるイエス・キリストと共に、御国を受け継ぐ権利を意味します。少し先の23節に、「天に登録されている長子たちの集会」とありますように、私たちは、神の長子であるイエス・キリストにあって、御国を受け継ぐ長子たちとされているのです。その長子の権利を、目に見える豊かさと引き換えに手放すことがないように気をつけなさい、とヘブライ人への手紙は記すのです。

 エサウが自分のしたことの重大さに気づいたのは、父イサクが弟のヤコブを祝福した後でした。エサウは自分も祝福してほしいと願いましたが、拒絶されました。涙を流して求めましたが、事態を変えてもらうことはできなかったのです。17節の後半に「涙を流して求めたけれども、事態を変えてもらうことができなかったのです」とありますが、口語訳聖書は、この所を次のように訳しています。「涙を流してそれを求めたが、悔い改めの機会を得なかったのである」。涙を流して祝福を求めたが、悔い改めるの機会を得ることはできなかった。このことが、そのまま、私たちへの警告となっているわけです。地上の財産を重んじて、イエス・キリストにある長子の権利を軽んじて捨ててしまう。そのときは、何も考えないかも知れません。しかし、イエス・キリストが再び来られる時に、わたしも祝福してくださいと泣いて願っても、もう遅い。そのときは、悔い改めの機会を得ることはないのです。エサウの姿は、そのことを私たちに教えてくれているのです。

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