愛する者を鍛える神 2018年8月26日(日曜 朝の礼拝)
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愛する者を鍛える神
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ヘブライ人への手紙 12章4節~13節
聖書の言葉
12:4 あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。
12:5 また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、/力を落としてはいけない。
12:6 なぜなら、主は愛する者を鍛え、/子として受け入れる者を皆、/鞭打たれるからである。」
12:7 あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。
12:8 もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。
12:9 更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。
12:10 肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。
12:11 およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。
12:12 だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。
12:13 また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。ヘブライ人への手紙 12章4節~13節
メッセージ
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序
今朝は、ヘブライ人への手紙12章4節から13節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。
1 罪との戦い
4節をお読みします。
あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。
この御言葉は唐突な印象を受けますが、直前の3節とのつながりで読むのがよいと思います。3節にこう記されていました。「あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい」。「御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方」とは、イエス・キリストのことです。イエス様は、罪人たちの反抗を死に至るまで耐え忍ばれました。そのことは、イエス様が、十字架の上で、御自分を十字架につけた者たちのために祈られたことからも分かります。イエス様は、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈られたのです(ルカ23:34)。そのように、イエス様は、罪と戦って血を流すまで抵抗されたのです。そのイエス様と比べて、あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません、とヘブライ人への手紙は記すのです。罪との戦いを命がけでしていない、と言うのです。私たちの主イエスが、血を流すまで罪と戦われたのと比べて、あなたたちは、罪との戦いを命がけでしていない。罪の誘惑にすぐに屈してしまっている。あるいは、罪と戦うことなく、まるで罪との戦いがないかのように、日常をやり過ごしてしまっている。そのように、聖書は、私たちにも語りかけているのです。このことは、私たち一人一人が、神様と自分との関係において、自己吟味すべきことであると思います。イエス様がゲツセマネにおいて、自分の意志よりも神様の意志がなりますようにと祈られ、十字架の死を自らの意志とされたように。そのような祈りにおいて、罪の誘惑と戦われたように、私たちも自分の意志よりも、神様の意志がなることを願っているだろうか。古いアダムのまま、自己中心的に歩んでいないだろうか。そのようにして、罪と戦わずに、日常の生活を送っていないか。そのことを、私たちは、神様の御前に自己吟味したいと思います。
ヘブライ人への手紙の著者は、読者たちを、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがない者と見なしています。そして、その原因を、彼らが罪との戦いを主の鍛錬として受けとめていないことにあると考えていたようです。それゆえ、ヘブライ人への手紙は、子供たちに対するように語られている主の御言葉を記すのです。
2 愛する者を鍛える神
5節から11節までをお読みします。
また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。
ここで、ヘブライ人への手紙は、罪との戦いを、主の鍛錬として受けとめるよう教えています。そして、旧約聖書の知恵の言葉、箴言3章の御言葉を引用して、主の鍛錬を軽んじてはいけないと言うのです。箴言の3章を開いて読んでみたいと思います。旧約の993ページです。箴言3章1節から12節までをお読みします。
わが子よ、わたしの教えを忘れるな。わたしの戒めを心に納めよ。そうすれば、命の年月、生涯の日々は増し/平和が与えられるであろう。慈しみとまことがあなたを離れないようにせよ。それらを首に結び/心の中の板に書き記すがよい。そうすれば、神と人の目に/好意を得、成功するであろう。心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず/常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば/主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。自分自身を知恵ある者と見るな。主を畏れ、悪を避けよ。そうすれば、あなたの筋肉は柔軟になり/あなたの骨は潤されるであろう。それぞれの収穫物の初物をささげ/豊かに持っている中からささげて主を敬え。そうすれば、主はあなたの倉に穀物を満たし/搾り場に新しい酒をあふれさせてくださる。わが子よ、主の諭しを拒むな。主の懲らしめを避けるな。かわいい息子を懲らしめる父のように/主は愛する者を懲らしめられる。
ヘブライ人への手紙は、11節、12節を引用して、「主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない」と記すのです。
では、今朝の御言葉に戻ります。新約の417ページです。
私たちは、永遠の大祭司イエス・キリストのただ一度の贖いによって、すべての罪を赦された者たちであります。しかし、私たちは罪の残る者であり、日々、罪を犯してしまうのです。それは言い換えれば、日々、罪との戦いがあるということです。この罪との戦いを、主の鍛錬と考えよ。主の鍛錬として忍耐せよとヘブライ人への手紙は記すのです。そして、ここに、私たちが神様から愛されていることの証拠があると言うのです。主は愛する者を鍛えられる。父親が自分の愛する子を鍛えるように、また躾けるように、霊の父である神様も、私たちを神様の子としてふさわしい者として鍛え、躾けられるのです。このことは、神様の独り子であるイエス様においても言えることであります。5章7節から10節にこう記されていました。
キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。
イエス・キリストも、多くの苦しみによって、すなわち、罪の誘惑との戦いを通して、従順を学ばれたのです。そして、イエス様は、十字架の死に至るまで父なる神様に従うことによって、完全な者となられた。永遠の救いの源、メルキゼデクと同じような大祭司となられたのです。このように、父なる神様は、私たちをも罪の誘惑との戦いを通して、御自分に従順な子とされるのです。
12章9節、10節は、肉の父と霊の父とが対比して語られています。肉の父、肉親である父親は、しばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれました。そして、私たちは、その肉の父を尊敬しているわけです。そうであれば、霊の父、父なる神様を、私たちはなおさら尊敬すべきであります。なぜなら、父なる神様は、私たちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的で私たちを鍛えられるからです。父なる神様は、私たちに永遠の命を与えるために、イエス・キリストに似た者となるようにと、私たちを鍛えられるのです。そして、その鍛錬は、生涯、死に至るまで続くわけです。神様の鍛錬には、殉教の死も含まれるのです。
イエス・キリストを信じて、信仰生活を送って行くと、いままで罪と思っていなかったことが罪であると気づくようになります。神様のことを知れば知るほど、罪が分かってくる。いままでは、平気で人の悪口を言っていたのに、そのことが罪であることを知るようになる。そればかりか、人のことを悪く思うことも、罪であることが分かってくる。こう聞きますと、何だか息苦しい、堅苦しい生活のように思えてくる。しかし、そうではないのです。なぜなら、神様は、聖霊によって、私たちを新しく造りかえてくださるからです。私たちを、御言葉に従う生活を楽しみ好む者へと造りかえてくださるからです(ハイデルベルク問90参照)。先程の例で言えば、私たちを人の悪口を語ることを嫌う者としてくださるのです。そのようにして、神様は、私たちに、義という平和に満ちた実を結ばせてくださるのです。
3 まっすぐな道を作れ
12節、13節をお読みします。
だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。
ヘブライ人への手紙は、ここで再び、長距離走のたとえに戻っているようです。この手紙の最初の読者たちは、信仰生活という長距離走に疲れ、気力を失い、座り込んでいました。しかし、ヘブライ人への手紙は、「主は、あなたたちを愛する子として訓練しておられる。それは、義という平和に満ちた実をあなたがに結ばせるためだ。だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい」と記すのです。「萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい」。これも旧約聖書からの引用であります。旧約の1116ページ。イザヤ書35章3節、4節をお読みします。
弱った手に力を込め/よろめく膝を強くせよ。心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」
弱った手に力を込め、よろめく膝を強くする秘訣は何でしょうか。それは、神を見ることです。敵を打ち、悪を滅ぼされる神が来る。その神を見るとき、弱った手とよろめく膝がまっすぐになる。このことは、私たちにもそのまま言えそうです。ヘブライ人への手紙は、それぞれに定められている競争を、信仰の創始者であり完成者であるイエスを見つめながら、走り抜こうと記しました。イエス・キリストが来られるとき、私たちは、完全に罪から清められ、聖なる者とされます。イエス様が来られるとき、悪魔は火と硫黄の池に投げ込まれるのです(黙20:10参照)。そのイエス様を見上げるときに、私たちの弱った手とよろめく膝がまっすぐになる。イエス様を見上げる礼拝においてこそ、私たちのよろめく膝はまっすぐになるのです。
では、今朝の御言葉に戻ります。新約の417ページです。
13節の最後に、「自分の足でまっすぐな道を歩きなさい」とありますが、ここで「歩きなさい」と訳されている言葉(ポイエオー)は「つくりなさい」とも訳されます(口語訳、新改訳参照)。たとえば、『新改訳2017』では、13節を次のように訳しています。「また、あなたがたは自分の足のために、まっすぐな道を作りなさい。足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろ癒されるためです」。13節の「足の不自由な人」とは、集会を怠ることを習慣としている人たちのことであるようです(10:25参照)。その彼らが、再び礼拝に集うことができるように、また、礼拝に集っている私たち自身のために、まっすぐな道を作りなさいと、とヘブライ人への手紙は記すです。
「自分の足のために、まっすぐな道を作りなさい」。この御言葉は、旧約聖書の箴言4章26節からの引用であると言われています。ここでは、少し前の4章20節から読みたいと思います。旧約の995ページ。箴言4章20節から27節までをお読みします。
わが子よ、わたしの言葉に耳を傾けよ。わたしの言うことに耳を傾けよ。見失うことなく、心に納めて守れ。それらに到達する者にとって、それは命となり/全身を健康にする。何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある。曲がった言葉をあなたの口から退け/ひねくれた言葉を唇から遠ざけよ。目をまっすぐに注げ。あなたに対しているものに/まなざしを正しく向けよ。どう足を進めるかをよく計るなら/あなたの道は常に確かなものとなろう。右にも左にも偏ってはならない。悪から足を避けよ。
足の不自由な人が癒されるために、また自分の足のために、まっすぐな道を作る。それは、私たちが踏み出す足の一歩、一歩によって作られるようです。命の源である信仰を守りながら、イエス・キリストに目を注いで歩む、その一歩、一歩が、まっすぐな確かな道(人生)を作るのです。
そうであれば、礼拝において御言葉を語る説教者の働きが大切であることを、今更ながら思わされます。どうぞ、私の説教準備のために祈っていただきたいと思います。また、祈りながら、私が語る言葉に耳を傾けていただきたいと思います。そのようにして、語られる御言葉を信仰によって自分と結びつけて、まっすぐな道を作っていただきたいと思います。そのためにも、私たち羽生栄光教会は、週ごとにささげる礼拝によって、まっすぐな道を作っていきたいと願います。