信仰の勇者たち 2018年8月12日(日曜 朝の礼拝)

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信仰の勇者たち

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヘブライ人への手紙 11章32節~40節

聖句のアイコン聖書の言葉

11:32 これ以上、何を話そう。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう。
11:33 信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行い、約束されたものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、
11:34 燃え盛る火を消し、剣の刃を逃れ、弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者となり、敵軍を敗走させました。
11:35 女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました。他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました。
11:36 また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。
11:37 彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、
11:38 荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。世は彼らにふさわしくなかったのです。
11:39 ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。
11:40 神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。ヘブライ人への手紙 11章32節~40節

原稿のアイコンメッセージ

 ヘブライ人への手紙の11章には、信仰のゆえに神に認められた昔の人たちの名前が記されています。私たちは、これまで5回に渡って11章を学んできましたが、今朝は、その最後の学びになります。

1 時間が足りない

 32節をお読みします。

 これ以上、何を話そう。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことを語るならば、時間が足りないでしょう。

 ヘブライ人への手紙は、これまで、アベル、エノク、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、イスラエルの人々、ラハブの信仰について記してきました。しかし、このようなペースで、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエルの信仰について記すならば、時間が足りないと記します。「ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル」の6人の名前が挙げられていますが、最初の四人、ギデオン、バラク、サムソン、エフタは、イスラエルの士師たち(一時的にイスラエルを救った英雄たち)であります。旧約聖書の士師記は、ギデオン、バラク、サムソン、エフタのそれぞれの活躍について記しています。そのときに、気がつくことは、年代順に並んでいないということです。年代順に並べると、バラク、ギデオン、エフタ、サムソンとなります。今朝は、一人一人について、聖書を開いてお話することはしませんが、家に帰って、御自分で聖書を開いて読んでいただければと思います。四人の士師に続いて、「ダビデ、サムエル」と記されていますが、これも年代順に並べると、サムエル、ダビデとなります。ヘブライ人への手紙は、サムエルを預言者たちの最初の人物と見なして、「ダビデ、サムエル」という順で記したのだと思います。と言いますのも、サムエルは最後の士師であり、最初の預言者と見なされていたからです。ダビデは、イスラエルの王であり、アブラハムやモーセと並ぶ偉大な人物でありました。サムエルとダビデの生涯については、サムエル記上下を読んでいただければ知ることができます。士師であるギデオン、バラク、サムソン、エフタ、王ダビデ、預言者サムエルを始めとする預言者たちが、信仰によってどのようなことをしたのかが33節から38節までに羅列されています。

2 信仰の勇者たち

 33節から38節までをお読みします。

 信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行い、約束されたものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、燃え盛る火を消し、剣の刃を逃れ、弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者となり、敵軍を敗走させました。女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました。他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました。また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。世は彼らにふさわしくなかったのです。

 33節に、「信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行い、約束されたものを手に入れ」とあります。これはダビデが約束の地カナンに、王国を築き、正義をもって治めたことを指しているようです(サムエル下8:15参照)。

 次に「獅子の口をふさぎ」とありますが、これは預言者の一人であるダニエルが、獅子の洞窟に投げ込まれても、危害を受けなかったことを指しているようです。そこで、ダニエルは、ダレイオス王にこう言っています。「神様が天使を送って獅子の口を閉ざしてくださいましたので、わたしは何の危害も受けませんでした」(ダニエル6:23)。ダニエルは神様を信頼していたので、何の害も受けなかったのです(ダニエル6:24参照)。

 次に「燃え盛る火を消し」とあります。これはダニエルの三人の友達、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴが、燃え盛る炉から何の害も受けずに出て来たことを指しているようです。バビロンの王ネブカドネツァルは、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴに、こう言いました。「わたしの建てた金の像を拝むつもりでいるなら、それでよい。もし拝まないなら、直ちに燃え盛る炉に投げ込ませる。お前たちをわたしの手から救い出す神があろうか」(ダニエル3:15)。それに対して、三人は、こう答えたのです。「このお定めにつきまして、お答えする必要はございません。わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。そうでなくても、ご承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません」(ダニエル3:16~18)。彼らはこのような信仰によって、神に認められ、燃え盛る炉の中から救われたのです。

 次に「剣の刃を逃れ」とありますが、これは預言者エリヤがアハブ王の后(きさき)シドン人イザベルによって殺されず済んだことを指しているようです。イザベルは、カルメル山でバアルの預言者たちに勝利したエリヤを殺そうとしました。しかし、エリヤは剣の刃を逃れ、主によってパンと水で養われたのです(列王記上19章参照)。

 次に「弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者となり、敵軍を敗走させました」とあります。これは士師の一人であるギデオンのことを指しているようです。ギデオンは、ミディアン人を恐れて、酒ぶねの中で小麦を打っていた弱い者でした。しかし、主によって強い者とされ、戦いの勇者となり、わずか三百人の兵で、ミディアンの大軍を敗走させました。ギデオンは、主がミディアン人の陣営を自分たちの手に渡してくださるという信仰によって強い者とされ、戦いの勇者となり、ミディアン軍を敗走させたのです(士師7章参照)。

 次に「女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました」とあります。この女たちは、預言者エリヤによって息子を生き返らせてもらったサレプタの女と預言者エリシャによって息子を生き返らせてもらったシュネムの女のことを指しているようです(列王上17章、列王下4章参照)。信仰によって、女たちは、預言者たちに死んだ息子を生き返らせてもらったのです。

 次に「他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました」とあります。これは旧約聖書続編のマガバイ記二に出てくるエレアザルと七人の兄弟たちのことを指しているようです。ヘブライ人への手紙は、ヘブライ語聖書のギリシャ語訳である七十人訳聖書を用いていますが、七十人約聖書には旧約聖書続編が含まれていました。私たち改革派教会は、ウェストミンスター信仰基準の聖書論の立場から、旧約聖書続編を神の言葉であるとは信じていません。私たちにとっての信仰と生活の規準は、66巻から成る旧新約聖書であるのです。では、旧約聖書続編は、何の益もないかと言えばそうではありません。旧約時代と新約時代の間の時代、いわゆる中間時代のことを知るうえで貴重な文献であるのです(40周年宣言「聖書について」参照)。中間時代のことを知らないならば、新約聖書の教えを正しく理解できないとさえ言えるのです。なぜなら、使徒パウロも、そしてヘブライ人への手紙の著者も、旧約聖書続編に親しんでおり、それを踏まえて教えているからです。ここでもそうです。「更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられ」たのは、マカバイ記二に記されているエレアザルや七人の兄弟たちであったのです。今朝は、週報に、マカバイ記二の134ページと135ページを印刷して挟んでおきました。その6章18節から7章9節までを読みたいと思います。

 さて律法学者として第一人者で、既に高齢に達しており、立派な容貌の持ち主であったエレアザルも、口をこじあけられ、豚肉を食べるように強制された。しかし彼は、不浄な物を口にして生き永らえるよりは、むしろ良き評判を重んじて死を受け入れることをよしとし、それを吐き出し、進んで責めの道具に身を任せようとした。これこそ、生命への愛着があるとはいえ、口にしてはならないものを断固として退けねばならない人々の取るべき態度である。ところがそのとき、禁じられていたいけにえの内蔵を食べさせる係の者たちは、エレアザルと旧知の間柄であったので、ひそかに彼に席を外させて、王が命じたいけにえの肉を口にした振りをして、彼自身が用意し、持参している清い肉を食べることを勧めた。そうすれば、彼は死を免れ、その上、彼らとの昔からの友情のゆえに優遇されることになるからであった。これに対して、彼は筋の通った考えを持っていて、その年齢と老年のゆえの品位、更に新たに加わった立派な白髪、だれにもまさった幼いときからの生き方にふさわしく、とりわけ神が定められた聖なる律法に従って、毅然とした態度でちゅうちょすることなく、「わたしを陰府へ送り込んでくれ」と言った。「我々の年になって、うそをつくのはふさわしいことではない。そんなことをすれば、大勢の若者が、エレアザルは九十歳にもなって異教の風習に転向したのか、と思うだろう。その上彼らは、ほんのわずかの命を惜しんだわたしの欺きの行為によって、迷ってしまうだろう。またわたし自身、わが老年に泥を塗り、汚すことになる。たとえ今ここで、人間の責め苦を免れえたとしても、全能者の御手からは、生きていても、死んでも逃れることはできないのだ。だから今、男らしく生を断念し、年齢にふさわしい者であることを示し、若者たちに高貴な模範を残し、彼らも尊く聖なる律法のためには進んで高貴な死に方ができるようにしよう。」こう言い終わると、直ちに攻め道具の方へ歩いて行った。今し方まで、彼に好意を寄せていた人々も、この語られた言葉のゆえに、反感を抱くようになった。彼らはエレアザルの気が違ったのだと思った。鞭の下で、まさに息絶えんとしたとき、彼はうめき声をあげて言った。「聖なる知識を持っておられる主は、すべてのことを見通しておられる。わたしは死を逃れることもできたが、鞭打たれ、耐えがたい苦痛を肉体で味わっている。しかし、心では、主を畏れ、むしろそれを喜んで耐えているのだ。」彼はこのようにして世を去った。その死はただ単に若者ばかりか、少なからぬ同胞の心に高潔の模範、勇気の記念として残されたのである。

 また、次のようなこともあった。七人の兄弟が母親と共に捕らえられ、鞭や皮ひもで暴行を受け、律法で禁じられている豚肉を口にするよう、王に強制された。彼らの一人が皆に代わって言った。「いったいあなたは、我々から何を聞き出し、何を知ろうというのか。我々は父祖伝来の律法に背くくらいなら、いつでも死ぬ用意はできているのだ。」王は激怒した。そして大鍋や大釜を火にかけるように命じた。直ちに火がつけられた。王は命じて、他の兄弟や母の面前で、代表して口を開いた者の舌を切り、スキタイ人がするように頭の皮をはぎ、その上、体のあちらこちらをそぎ落とした。こうして見るも無惨になった彼を、息のあるうちにかまどの所へ連れて行き、焼き殺すように命じた。鍋から湯気が辺り一面に広がると、兄弟たちは母ともども、毅然として、くじけることなく死ねるよう互いに励まし合い、そして言った。「主なる神がわたしたちを見守り、真実をもって憐れんでくださる。モーセが不信仰を告発する言葉の中で、『主はその僕を力づけられる』と明らかに宣言しているように。」

 こうして最初の者の命を奪うと、次に二番目の者を引き出し、これを辱めた。頭の皮を、髪の毛もろともはぎ取ってから、「肉を食え。それとも体をばらばらにされたいのか」と言った。しかしそれに対して彼は、父祖たちの言葉で、「食うものか」と答えた。そこで彼は最初の者と同じように拷問にかけられた。息を引き取る間際に、彼は言った。「邪悪な者よ、あなたはこの世から我々の命を消し去ろうとしているが、世界の王は、律法のために死ぬ我々を、永遠の新しい命へよみがえらせてくださるのだ。」

 このように、エレアザルと七人の兄弟は、永遠の新しい命へのよみがえりのために、釈放を拒み、拷問にかけられたのです。それはまさしく、望んでいる事柄を確信し、まだ見ぬ事実を確認する信仰によるものであったのです。

 36節に、「また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄される目に遭いました」とあります。私たちは、その代表的な人物として、預言者エレミヤを挙げることができます(エレミヤ20:2、37:25、38:6参照)。

 次に「彼らは石で打ち殺され」とあります。私たちは、その代表的な人物として、ゼカルヤを挙げることができます。歴代誌下の24章21節には、預言者であり祭司であるゼカルヤが、主の神殿において石で打ち殺されたことが記されています。

 次に「のこぎりで引かれ」とあります。『イザヤの昇天』という外典によれば、預言者イザヤは、マナセの時代、のこぎりで引き殺されたと記されています。ですから、イザヤのことが考えられているようです。

 次に「羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました」とあります。このことは多くの信仰者たちに当てはまります。神様に造られながらも神様を認めない世、神様を信じる者たちを迫害する世は、信仰者たちにはふさわしくなかったのです。

3 私たちを除いては

 39節、40節をお読みします。

 ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。

 ヘブライ人への手紙は、「この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした」と記します。33節に、「約束されたものを手に入れ」と記しているにもかかわらず、39節では、「約束されたものを手にいれませんでした」と記すのです。これは、どういうことでしょうか?具体例を一つ挙げて説明すると、33節の「手に入れた約束のもの」とは、カナンの土地のことであります。そして、39節の「手に入れていない約束のもの」とはカナンの土地が指し示すところの天の故郷、新しい天と新しい地であるのです。元の言葉を見ますと、39節の「約束されたもの」は複数形で記されています。「約束された諸々のものを手に入れなかった」と記されているのです。そこには、神の安息、神の都、また、それに相応しい栄光の体へのよみがえりが含まれています。そのような諸々のものを彼らが手に入れることができるのは、すべての民を祝福に入れるアブラハムの子孫イエス・キリストが栄光の主として天から来られるときであるのです(創世12:3参照)。

 40節に、「神はわたしたちのために、更にまさったものを計画してくださった」とあります。「更にまさったもの」とは、とこしえの王であり大祭司であるイエス・キリストにおいて実現した新しい契約のことでありましょう。神様が計画して実現してくださった新しい契約によって、私たちはすべての罪を赦され、神様に近づくことができる完全な者とされたのです。昔の人たちと私たちとの違いは何でしょうか。それは、私たちがイエス・キリストによって実現された新しい契約の時代に生きているということです。儀式律法の目的である罪の赦しと神様との交わりという点では、完全な者とされているということです。しかし、昔の人たちと私たちに共通していることもあります。それが「わたしの正しい者は信仰によって生きる」ということです(ハバクク2:4、ヘブライ10:38参照)。その信仰のバトン(たすき)は、今や、私たちに渡されています。それゆえ、ヘブライ人への手紙は、私たち一人一人に、「自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こう」と記すのです(ヘブライ12:1)。信仰の勇者たちに連なる者として、私たちも雄々しく、強く歩んでいきたいと願います。

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