天の故郷にあこがれて 2018年7月22日(日曜 朝の礼拝)
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天の故郷にあこがれて
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- 村田寿和 牧師
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ヘブライ人への手紙 11章8節~16節
聖書の言葉
11:8 信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。
11:9 信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。
11:10 アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。
11:11 信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。
11:12 それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです。
11:13 この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。
11:14 このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。
11:15 もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。
11:16 ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。ヘブライ人への手紙 11章8節~16節
メッセージ
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序
ヘブライ人への手紙の11章には、信仰のゆえに神に認められた昔の人たちの名前が記されています。前回、私たちは、アベル、エノク、ノアの三人について学びました。今朝は、アブラハムとサラ、その息子イサクと孫のヤコブについて学びたいと思います。
1 土地を与える約束
8節から10節までをお読みします。
信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に住みました。アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。
神様がアブラハムを召し出されたことは、創世記の12章に記されています。旧約の15ページです。創世記12章1節から7節までをお読みします。
主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方へ向かって出発し、カナン地方に入った。アブラムはその地を通り、シケムの聖所、モレの樫の木まで来た。当時、その地方にはカナン人が住んでいた。主はアブラムに現れて、言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。」アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。
主は、アブラハムに、「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」と言われました。その目的は、アブラハムを大いなる国民にし、地上のすべての氏族を祝福に入れるためであったのです。そして、アブラハムは主の言葉に従って旅立ったのです。ここに、アブラハムの信仰が記されています。信仰とは、神の御言葉に従うことであるからです。ヘブライ人への手紙に記されているとおり、アブラハムは「行く先も知らずに出発した」のです。しかし、主はアブラハムを召し出されたとき、「財産として土地を受け継がせる」とは言われませんでした。主がアブラハムに土地を与えると言われたのは、カナンの土地についてからであります。カナン地方には、異教の神々を礼拝する聖所があり、カナン人が住んでいました。しかし、主はアブラハムに現れて、「あなたの子孫にこの土地を与える」と言われたのです。ここで、主はアブラハムに、多くの子孫を与えることと、子孫にカナンの地を与えることを約束しておられます。主はアブラハムに、子孫を増やすこと。子孫にカナンの土地を与えること。この二つのことを約束されたのです。そして、アブラハムは、この二つの約束を信じて、主のために祭壇を築き、礼拝したのです。
今朝の御言葉に戻りましょう。新約の415ページです。
9節に、「信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました」とあります。確かに、アブラハムはヘト人に、自分のことを次のように言いました。「わたしは、あなたがたのところに一時滞在する寄留者です」(創世23:4)。アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住んだのです。また、創世記を読みますと、主はイサクとヤコブに、それぞれ現れて、「これらの土地をすべてあなたの子孫に与える」と約束されました(創世記26:3、28:13参照)。アブラハムもイサクもヤコブも、遊牧民として幕屋に住みました。ヘブライ人への手紙は、その理由を、「アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです」と記すのです。これは、ヘブライ人への手紙の解釈でありますね。アブラハムは、カナンの土地を与えられることに留まらず、そのカナンの土地が指し示すもの、すなわち、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたと言うのです。このような解釈は、3章、4章にも記されていました。そこでは、神の安息が約束の地カナンに入ることではなく、創造の業を終えた神の安息に入ることであると解釈されておりました。それと同じように、ヘブライ人への手紙は、アブラハムが待望していたのは、カナンの土地を得ることではなく、そのカナンの土地が指し示す神の都、天のエルサレムであると言うのです。それゆえ、アブラハムは約束の地に、寄留者として滞在し、どこにでも移動できる幕屋に住んだと言うのです。
2 子孫を増やす約束
11節、12節をお読みします。
信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束なさった方は真実な方であると、信じていたからです。それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数え切れない砂のように、多くの子孫が生まれたのです。
ここでは、アブラハムの妻サラの信仰のことが言われています。サラは不妊の女であり、しかも年齢が盛りを過ぎていました。創世記の18章に、「イサクの誕生の予告」が記されています。そこには、アブラハムが三人の旅人を自分の天幕に迎え入れ、もてなしたことが記されています。この三人の旅人は主と御使いなのですが、アブラハムはそのことを知らずにもてなしたのです。その所を、少し読みたいと思います。旧約の23ページです。創世記18章9節から15節までをお読みします。
彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻のサラはどこにいますか。」「はい、天幕の中におります」とアブラハムが答えると、彼らの一人が言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた。アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、しかもサラは月のものがとうになくなっていた。サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである。主はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」サラは恐ろしくなり、打ち消して言った。「わたしは笑いませんでした。」主は言われた。「いや、あなたは確かに笑った。」
ここには、神様の言葉を信じることができず、ひそかに笑ったサラの姿が記されています。サラがひそかに笑ったのも致し方ないことであります。この時、アブラハムは99歳、サラは89歳でありました。しかもサラは月のものがとうになくなっていたのです。12節に、「サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである」とあります。この「楽しみ」は、夫婦の楽しみ、夫婦の性的な営みのことです。17章で、主はアブラハムに、「あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする」と言われていました(創世17:19)。アブラハムは、妻サラにこのことを伝えたはずです。サラは、夫アブラハムからそのことを聞いていたはずです。しかし、アブラハムとサラは夫婦の営みをしていなかったのです。なぜか?それは二人が多くの日を重ねて老人になっており、しかもサラは月のものがとうになくなっていたからです。そのようなアブラハムとサラの前に、主は現れてくださり、その不信仰を責められるのです。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻って来る。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている」。その言葉をアブラハムとサラは信じたのです。年老いた自分たちに子供が与えられる。そのような望んでいる事柄を確信して、夫婦の営みをしたのです。そのようにして、サラは子をもうける力を得たのです。約束なさった方は真実である。主に不可能なことは何もないと信じて、約束の子イサクを授かったのです。そのようにして、子供を産むという点から言えば死んだも同然の一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです(創世15:5、22:17参照)。
では、今朝の御言葉に戻ります。新約の415ページです。
3 天の故郷にあこがれて
13節から16節までをお読みします。
この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上でよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。
「この人たち」とは、アブラハムとサラ、その息子であるイサクとその孫ヤコブのことであります。彼らは、カナンの土地を与えるとの約束を受けていました。創世記13章15節で、主はアブラハムにこう言われています。「見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える」。このように、主はアブラハムに、カナンの土地を与え、継がせると約束されていたのです。イサクとヤコブも同じです。主は、イサクとヤコブに、「カナンの土地をあなたとあなたの子孫に与える」と約束されたのです(創世26:3「あなたがこの土地に寄留するならば、わたしはあなたと共にいてあなたを祝福し、これらの土地をすべてあなたとその子孫に与え、あなたの父アブラハムに誓ったわたしの誓いを成就する」、28:13「あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える」参照)。しかし、その約束は、この人たちが生きている間は、実現しませんでした。彼らは皆、信仰を抱いて死んだのです。そして、その信仰とは、約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声を上げる信仰、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する信仰であったのです。彼らは、地上で自分のことをよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表しました。そのようにして、彼らは自分が故郷を探し求めていることを表したのです。その故郷とは、カルデアのウルではありません。彼らは更にまさった故郷、すなわち、約束の地カナンが指し示すところの天の故郷を熱望していたのです(新改訳「天の故郷にあこがれていた」参照)。彼らは、天の故郷を熱心に望んで、地上を旅する者たちであったのです。このことは、私たちにおいても同じことです。ペトロの手紙一2章11節に、次のように記されています。「愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい」。また、フィリピの信徒への手紙3章20節には、こう記されています。「わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」。父なる神が天におられるゆえに、私たちにとって、天が本国(Home country)であり、故郷(Home town)であるのです。私たちも地上においては、旅人であり、仮住まいの身であるのです。
16節の後半に、「だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです」とあります。神様は、モーセに御自身を示されたとき、「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と言われました(出エジプト3:6)。神様は、御自分をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であると言って恥じるようなことはありません。なぜなら、神様は、アブラハム、イサク、ヤコブに約束されていたとおり、彼らのために天の都を準備されていたからです(二コリント9:1~4参照)。
アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主は、終わりの時代に、イエス・キリストの神として、御自身を示してくださいました。神様は、イエス・キリストを信じる者たちの神であるのです。なぜなら、アブラハム、イサク、ヤコブとの神様の約束は、その子孫であるイエス・キリストにおいてことごとく成就したからです(二コリント1:20参照)。神様は、イエス・キリストを信じる私たちにも天の都、新しいエルサレムを準備してくださっています。今朝はそのところを読んで終わりたいと思います。新約の479ページ。ヨハネの黙示録21章9節から22章5節までをお読みします。
さて、最後の七つの災いの満ちた七つの鉢を持つ七人の天使がいたが、その中の一人が来て、わたしに語りかけてこう言った。「ここへ来なさい。小羊の妻のである花嫁を見せてあげよう。」この天使が、霊に満たされたわたしを大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のもとを離れて、天から下ってくるのを見せた。都は神の栄光に輝いていた。その輝きは、最高の宝石のようであり、透き通った碧玉のようであった。都には、高い大きな城壁と十二の門があり、それらの門には十二人の天使がいて、名が刻みつけてあった。イスラエルの子らの十二部族の名であった。東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。都の城壁には十二の土台があって、それは小羊の十二使徒の名が刻みつけてあった。
わたしに語りかけた天使は、都とその門と城壁とを測るために、金の物差しを持っていた。この都は四角い形で、長さと幅が同じであった。天使が物差しで都を測ると、一万二千スタディオンであった。長さも幅も高さも同じである。また、城壁を測ると、百四十四ペキスであった。これは人間の物差しによって測ったもので、天使が用いたものもこれである。都の城壁は碧玉で築かれ、都は透き通ったガラスのような純金であった。都の城壁の土台石は、あらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイア、第三はめのう、第四はエメラルド、第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七はかんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉、第十はひすい、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。また、十二の門は十二の真珠であって、どの門もそれぞれ一個の真珠でできていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。
わたしは、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである。この都には、それを照らす太陽も月も必要ではない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。諸国の民は、都の光の中を歩き、地上の王たちは、自分たちの栄光を携えて、都に来る。都の門は、一日中決して閉ざされない。そこには夜がないからである。人々は、諸国の民の栄光と誉れとを携えて都に来る。しかし、汚れた者、忌まわしいことと偽りを行う者はだれ一人、決して都に入れない。小羊の命の書に名が書いてある者だけが入れる。
天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。神は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。
長く読みましたが、これが私たちが受け継ぐことになる天の都の幻であります。この天の故郷に住むことを熱心に望む旅人として、私たちも信仰をもって歩んでいきたいと願います。