このように、神様の言葉によって、世界を造られたのです。これは聖書が教えていることであり、旧約の信仰者も、私たちも信じていることです。聖書は古代の書物であり、古代の人々の世界像で記されています。ですから、現代の私たちの世界像とは異なっています。具体的に言えば、聖書の世界像は大地が平面な四角形です。大地が丸い、球体であるという世界像ではありません。ですから、私たちは、聖書の世界像をそのまま受け入れる必要はありません。しかし、聖書が教える世界観はそのまま受け入れる必要があります。それは、世界が神によって造られたという世界観です。世界像(A world image)と世界観(View of the world)を区別して理解することが大切です。世界は神様の言葉によって造られた。この世界観は、古代の人であろうが、現代の人であろうが、信仰をもって受け入れるべき聖書の世界観であるのです。
序
今朝からヘブライ人への手紙11章に入ります。11章1節には、有名な信仰の定義が記されています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」。これは、信仰のすべてを言い表しているわけではありませんが、私たちが暗唱すべき御言葉であると思います。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」。この御言葉を踏まえて、自分が信仰によって生きているかを吟味することは有益であると思います。1節の御言葉をすぐに取り上げてもよいのですが、今朝は、先ず1節が、どのような文脈で記されたのかを確認したいと思います。
1 これまでの文脈
「信仰」という言葉は、直前の10章38節、39節にも記されています。36節から読みます。「神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。『もう少しすると、来たるべき方がおいでになる。遅れられることはない。わたしの正しい者は信仰によって生きる。もしひるむようなことがあれば、その者はわたしの心に適わない。』しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です」。36節に、「忍耐が必要なのです」とありますが、この「忍耐」は「信仰」とも言い換えることができます。つまり、信仰による忍耐、信じ続ける忍耐のことが、ここで言われているのです。先々週、お話したことですが、ヘブライ人への手紙の宛先である教会には、集会を怠ることを習慣としている人たちがいました。また、イエス・キリストへの信仰を捨ててしまう恐れのある者たちがいました。この手紙の宛先である教会の信徒たちは、信仰生活に疲れていたのです。説教者(ヘブライ人への手紙の著者)は、そのような彼らの最初の頃の熱心な信仰生活を思い起こさせ、最初の確信にとどまり続けようと記すのです。そして、神の御心を行って約束されたものを受けるには忍耐が必要であることを、旧約聖書のハバクク書から論証するのです。37節の「来たるべき方」とは、天におられる王であり、大祭司であるイエス・キリストのことであります。ヘブライ人への手紙は10章28節で、キリストが「御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださる」と記していました。天におられる王であり、大祭司であるイエス・キリストが再び来られることを待ち望んで、その神様の約束を信じて生きる。それが神様の心に適う生き方である。私たちは、そのような信仰によって命を保っているのだ、説教者は記したのです。それに続いて、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と記されているのです。ですから、この「信仰」とは、これまでの文脈からすれば、天におられる永遠の大祭司イエス・キリストを信じる信仰のことであります。さらには、そのイエス・キリストが再び来られ、救いを完成してくださる。義の宿る新しい天と新しい地を受け継がせてくださるという信仰であります。天におられるイエス・キリストが、十字架の贖いを根拠として、父なる神様にとりなしてくださっている。そのことは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する信仰によってのみ言えることです。私たちの地上の礼拝は、天におられる永遠の大祭司イエス・キリストの執り成しによって成り立っているのですが、それは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する信仰によるのです。
2 信仰とは
文脈を確認しましたので、1節そのものを見ていきたいと思います。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」。この御言葉から私たちは、信仰が将来の希望と、まだ見ていないこととに関わることが分かります。そして、この背後には、神様の約束があるのです。神様が約束してくださった将来の希望を確かに信じて、まだ見ていないことを事実として確認すること。それが神様に認めていただける信仰であるのです。このような信仰に生きることは、なかなか難しいことであると思います。具体的に考えてみたいと思います。例えば、使徒言行録の18章に、次のような御言葉があります。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ」。この御言葉を私たちは、かつて礼拝において、私たちに対する約束として聞きました。年間聖句として掲げたこともあります。しかし、現状を省みるとき、この御言葉は本当であろうか?私たちの教会には当てはまらないのではないか?と考えることがあるわけです。これまでの教会の歩みから考えても、大勢の人がこの教会を訪れることは不可能ではないか?そう考えるわけです。そして、これが信仰とは逆の姿勢、ひるんでいる姿勢であるのです。信仰とは現状を分析して、その延長線上に将来を思い描くことではありません。見えないものを不確かと考えて、見えるものに目を注ぐことではありません。それは現状から将来を予想することで、信仰とは全く別のものです。主イエスが「語り続けよ」と命じられ、「この町にはわたしの民が大勢いるからだ」と言われるのですから、私たちは、この教会に多くの人が集ることを確信し、その光景を事実として確認して歩むべきなのです。すでに、大勢の人が集っているかのように、信仰をもって歩むべきであるのです。
もう一つ具体例を挙げます。使徒言行録の16章に、次のような御言葉があります。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」。この御言葉も、すでに私たちは礼拝において、私たちに対する約束として聞きました。私は未信者の家庭に生まれたのですが、親も兄弟も、イエス様を信じていません。私は牧師になる前から、この御言葉を聞いて、家族の救いのために祈っていますが、まだ、家族は救われていません。そうすると、この御言葉は、私の家族には実現しないのではないかと考えてしまうわけです。これまでの歩みから、現状から分析して、これからも主イエスを信じるようなことはないと予想を立ててしまうのです。しかし、それは信仰とは何の関係もありません。これまでの歩み、また現状を分析して、将来の予想を立てること、それは信仰でも何でもないのです。信仰とはむしろ、これまでの歩みと現状に抗って、神の約束を信じること、神様が約束しておられることが、必ずそのとおりになると確信して、神様の御心を行って生きることです。そのとき、神様は、その私たちの無言の行いを用いて、家族の救いを実現してくださるのです(一ペトロ3:1、2参照)。
最後にもう一つだけ具体例を挙げます。使徒言行録の2章に、次のような御言葉があります。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」。この御言葉も、私たちは礼拝の中で、私たちに対する約束として聞きました。ここでペトロは、神様の約束が私たちの子供にも及んでいること、私たちの子供も救いに招かれていることを語っています。この箇所を一つの根拠として、私たちの教会では、信者の子供に幼児洗礼を授け、契約の子と呼んでいるわけです。しかし、その子供が大きくなって成人になると、この神様の約束は、その子供には実現しなかったのではないかと考えてしまうわけですね。その理由は、「もう大人だから」と言うのです。このようなことは、「恐れるな語り続けよ。この町にはわたしの民が大勢いる」という御言葉にも、また、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」という御言葉にも言えるわけです。つまり、コリントは大都市であったから、田舎の町には当てはまらないとか、フィリピの看守は家長であり、家父長制社会であったから、そう言えるのであろうというようなことが言われるのです。そのように色々と理由を付けるのですが、その根本にあるのは、ひるんだ思い、不信仰であるのです。信仰とは何か。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」。そのような信仰をもって、親は、幼児洗礼の誓約をしたわけです。神様によって授かった子供が、成長し、やがては自分の口で信仰を言い表し、教会の一員として歩むこと。そのような望んでいる事柄を確信し、そのようなまだ見ていない光景を事実として確認して、誓約をしたのです。神様の約束に信頼して、神様がそのようにしてくださることを信じて誓約したのです。そして、それは、子供が大きくなってからも変わらないはずです。これは親だけの問題ではなくて、教会全体の問題です。成人した契約の子供について、どのように考えるか。そこに、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する、私たちの信仰が問われているのです。
3 御言葉の力
2節に、「昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました」とあります。この御言葉に導かれて、4節以下に、旧約聖書に出て来る信仰に生きた人々が記されています。しかし、そのような人々に先立って、ヘブライ人への手紙は、神様の天地創造の御業について記すのです。3節。「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」。この世界が神様の御言葉によって創造されたことは、創世記の1章に記されています。旧約の1ページです。創世記1章全体を読みたいのですが、ここでは1節から5節までをお読みします。
初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
このように、神様の言葉によって、世界を造られたのです。これは聖書が教えていることであり、旧約の信仰者も、私たちも信じていることです。聖書は古代の書物であり、古代の人々の世界像で記されています。ですから、現代の私たちの世界像とは異なっています。具体的に言えば、聖書の世界像は大地が平面な四角形です。大地が丸い、球体であるという世界像ではありません。ですから、私たちは、聖書の世界像をそのまま受け入れる必要はありません。しかし、聖書が教える世界観はそのまま受け入れる必要があります。それは、世界が神によって造られたという世界観です。世界像(A world image)と世界観(View of the world)を区別して理解することが大切です。世界は神様の言葉によって造られた。この世界観は、古代の人であろうが、現代の人であろうが、信仰をもって受け入れるべき聖書の世界観であるのです。
3節に、「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」とあります。元のヘブライ語を見ますと、「光があれ」と「光があった」は同じ言葉です。「神は言われた。『光あれ。』そして、光あれ」と書いてあるのです。そのようにして聖書は、神様の言葉はそのとおりになることを私たちに教えているのです。神様の御言葉は、無から有を生じさせる力ある御言葉であります。世界が神の言葉によって無から創造されたという信仰は、神様の御言葉は無から有を生じさせる力ある御言葉であるという信仰でもあるのです。
もし、神様がおられず、偶然にこの世界ができあがり、その営みを続けているならば、どうでしょうか?そこに私たちの生きている意味はあるでしょうか?そのような世界観で、生きる力が沸いてくるでしょうか?少なくとも私は、そのような世界観では生きていけません。しかし、聖書は何と教えているでしょうか?「初めに神は天地を創造された」。この世界が存在する前から神様はおられます。そして、その神様によって世界は造られたのです。神様が言葉によって、世界を造られたとは、神様の御意志によって世界は造られたということです。そうであれば、この世界の意味は、神様が握っておられるということです。私たちは、なぜ、生まれて来たのだろうか?と考えます。その答えは、自分だけで考えていても分かりません。あなたを造られた神様に聞かなければ分かりません。そして、神様は聖書を通して、私たちに語ってくださるのです。あなたが生まれた意味、神様があなたを造られた目的は、あなたが神様と共に生きること、神様から愛されている者として、神様を愛して生きることです。その神様の愛を伝えるために、神の御子が人となって生まれてくださったのです。神の御子であるイエス・キリストが十字架について死んでくださったのです。私たちが信じている神様は、「天地の造り主、全能の父なる神」であります。そして、ここに、私たちの信仰の土台があるのです。「初めに神は天地を創造された」という御言葉は、世界の始まりだけではなくて、私たちの信仰の始まりでもあるのです。