成熟を目指して進もう 2018年4月08日(日曜 朝の礼拝)
問い合わせ
成熟を目指して進もう
- 日付
-
- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書
ヘブライ人への手紙 5章11節~6章12節
聖書の言葉
5:11 このことについては、話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません。
5:12 実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです。
5:13 乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。
5:14 固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。
6:1 -2だからわたしたちは、死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。
6:3 神がお許しになるなら、そうすることにしましょう。
6:4 一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、
6:5 神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、
6:6 その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです。
6:7 土地は、度々その上に降る雨を吸い込んで、耕す人々に役立つ農作物をもたらすなら、神の祝福を受けます。
6:8 しかし、茨やあざみを生えさせると、役に立たなくなり、やがて呪われ、ついには焼かれてしまいます。
6:9 しかし、愛する人たち、こんなふうに話してはいても、わたしたちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています。
6:10 神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません。
6:11 わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。
6:12 あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです。ヘブライ人への手紙 5章11節~6章12節
メッセージ
関連する説教を探す
序
先週は、イースターの礼拝で、ルカによる福音書からお話をいたしました。今朝から、再び、ヘブライ人への手紙をご一緒に学んでいきたいと思います。
1 成熟を目指して進もう
5章11節から6章3節までをお読みします。
このことについては、話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません。実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです。乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。だからわたしたちは、死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。神がお許しになるなら、そうすることにしましょう。
「このこと」とは、直前の10節にあるように、キリストが「神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれた」ことであります。キリストがメルキゼデクと同じような大祭司であることは、この手紙の大きなテーマであります。ヘブライ人への手紙の著者は、キリストがメルキゼデクと同じような大祭司であることを説明するには、聴衆の準備ができていないと考えています。ヘブライ人への手紙の著者は7章1節から「メルキゼデクの祭司職」について記していますが、それに先立って、聴衆の未熟さを指摘し、学ぶ意欲を高めようとするのです。
ヘブライ人への手紙は、キリストがメルキゼデクと同じような大祭司であることを説明するのが難しいのは、「あなたがたの耳が鈍くなっている」からであると記します。話の内容が難しいので容易に説明できないのではなくて、それを聞く側の耳が鈍くなっているので、容易に説明ができないというのです。ここで「鈍くなっている」と訳されている言葉(ノースロイ)は、6章12節では「怠け者とならず」と訳されています。「あなたがたの耳が鈍くなっている」とは、「あなたがたが聞くことにおいて怠け者となっている」ということでもあるのです。ここで説教者(ヘブライ人への手紙の著者)が問題としていることは、説教の聞き手の問題であります。実際に、私たちは、聞こうとしていない人、学ぼうとしていない人に、教えることはほとんど不可能であることを知っています。ヘブライ人への手紙の著者もそのことを知っているので、たくさんの話をする前に、学ぶことに怠け、幼子にとどまっている聴衆に、挑発とも思える言葉を語るのです。ここに記されていることは、言うまでもなく、たとえ、比喩であります。ここでの「乳」は「神の言葉の初歩」を指しています。また、「固い食物」は「義の言葉」を指しています。神の言葉の初歩にとどまっているあなたがたは幼子であり、義の言葉を理解することができない。義の言葉とは、十戒のことを考えたらよいと思います。教会学校では子供たちに十戒を暗唱させます。しかし、その十戒の意味を本当に理解するには、「善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された」一人前の大人になる必要があるのです。このことは、第七の言葉、「あなたは姦淫してはならない」のことを考えたらすぐ分かります。教会学校の子供たちも「あなたは姦淫してはならない」と暗唱していますが、その義の言葉を理解するには、第二次成長期(生殖能力を有する身体への変化)を経て、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された大人になる必要があるのです。
ヘブライ人への手紙は、あなたがたは乳を飲んでいる幼子であるから、大人が食べる固い食物を食べることができない。だから、あなたがたに話しても無駄であると言いたいのではありません。ヘブライ人への手紙が言いたいことは、乳を飲むことをやめて、固い食物を食べよう。固い食物を食べて一人前の大人になろうということです。
6章1節、2節には、乳である神の言葉の初歩が具体的に記されています。「死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教え」。これらは、イエス・キリストを信じていないユダヤ人も学んでいたことでありました。多くの研究者が指摘しているように、ここに上げられている教えは、イエス・キリストを信じていないユダヤ人も信じていた神の言葉の初歩であるのです。しかし、ヘブライ人への手紙は、それを「キリストの教えの初歩」と言い換えています。それは、イエス・キリストを信じない者とイエス・キリストを信じる者とでは、その内容が変わっているからです。例えば、「死者の復活」とありますが、イエス・キリストを信じる者たちにとって、死者の復活はイエス・キリストにおいて実現しました。イエス・キリストは私たちの初穂として復活されたのです。そして、イエス・キリストを信じる私たちも復活すると信じているのです。「永遠の審判」についても同じであります。イエス・キリストを信じる者たちは、自分たちの罪のために十字架にかかって死んでくださり、復活してくださったイエス・キリストが、永遠の審判を下されると信じているのです。ヘブライ人への手紙は、「キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう」と記します。ここで「成熟」と訳されている言葉は、「完全」とも訳すことができます。「完全を目指して進みましょう」。これは、イエス・キリストが弟子たちに言われたことでもあります。「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5:48)。また、使徒パウロも、次のように記しています。「わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ち溢れる豊かさになるまで成長するのです」(エフェソ4:13)。このように、私たちは完全な者へと成長していくことが求められているのです。そのために、私たちは固い食物を食べなければならない。キリストはメルキゼデクのような大祭司であることを学ばなければならないのです。
2 背教に対する警告
6章4節から8節までをお読みします。
一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです。土地は、度々その上に降る雨を吸い込んで、耕す人々に役立つ農作物をもたらすなら、神の祝福を受けます。しかし、茨やあざみを生えさせると、役に立たなくなり、やがて呪われ、ついには焼かれてしまいます。
ヘブライ人への手紙の受取人は、ヘレニストのユダヤ人キリスト者であったと考えられています。彼らはイエス・キリストを信じる前も、聖書を学び、天地を造られた神様を信じる者たちであったのです。ですから、イエス・キリストへの信仰を捨てても、彼らはまことの神様を信じているように思えるわけです。しかし、ヘブライ人への手紙の著者は、そのようには考えませんでした。聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、イエス・キリストへの信仰を捨てるならば、その人は自らに滅びを招くことになると警告するのです。それは、悔い改めることのできない堕落であるのです。なぜなら、その人は、神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者であるからです。イエス様を信じて、天の祝福にあずかった者が信仰を捨てることは、神の子を自分の手で再び十字架につけ、侮辱することであるのです。
イエス・キリストへの信仰を捨てることは堕落であり、滅びを意味する。それゆえ、ヘブライ人への手紙は、「キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指しましょう」と記したのです(3節)。ここでの「成熟」は固い食物を食べて完全な者となること、キリストがメルキゼデクと同じような大祭司であることを学んで成熟したキリスト者になることであります。キリストがメルキゼデクと同じような大祭司であることをはっきりと理解しなければ、堕落して、自らに滅びを招いてしまう危険があるのです。このことは、私たち日本人においても言えることであります。多くの日本人にとって、大祭司は、天皇であるからです。天皇は今も、宮中祭祀(きゅうちゅうさいし)において、国民のためにとりなす祭司の務めをしています。天皇が「国民のために祈っている」と語るとき、それは口先だけの言葉ではありません。天皇は、実際、祭司として、神々(天照大神や歴代天皇や皇族の御霊や国の神々)に祈っているのです(詳しくは宮内庁のホームページを参照)。しかし、私たちキリスト者にとりまして、私たちの大祭司は天皇ではありません。私たちの大祭司はメルキゼデクと同じような大祭司、イエス・キリストであるのです。そのことを私たちもはっきりと理解しなければならないのです。そうでなければ、私たちも堕落して、自らに滅びを招くことになってしまうのです。
3 神は不義な方ではない
9節から12節までをお読みします。
しかし、愛する人たち、こんなふうには話していても、わたしたちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています。神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません。わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです。
ヘブライ人への手紙は、聴衆が霊的に未熟であること、また、そのままでは堕落して、自らに滅びを招く恐れがあることを記しました。しかし、それは、聴衆を愛するゆえの言葉であったのです。ヘブライ人への手紙は、聴衆への愛を、「愛する人たち」という呼びかけによってはっきりと表します。そして、「わたしたちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信している」と記すのです。この「確信」は根拠のない希望的予測ではありません。この確信は、神様は不義な方ではないことを根拠としているのです。「神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示した愛をお忘れになるようなことはありません」。「聖なる者たち」とは、「イエス・キリストを信じる者たち」のことであります。聴衆は、イエス・キリストを信じる仲間たちに、以前も今も仕えておりました(10:32~34参照)。その彼らの奉仕を、神様は御自分に対する愛の奉仕として覚えていてくださるのです。正しいお方として、その愛の奉仕に報いてくださるのです。これは、イエス様が教えられたことでもあります。マタイによる福音書の25章に、イエス様が栄光の人の子として来られ、すべての民族を裁くことが預言されています。そこで、イエス様は、天の国を受け継ぐ祝福された者たちにこう言われるのです。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25:40)。イエス・キリストは、御自分を信じる者たちへの奉仕を、御自分への愛の業として受け入れてくださる。その報いを必ず与えてくださる。それゆえ、ヘブライ人への手紙は、「あなたがたが、おのおの最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたい」と記すのです。私たちは、キリスト者の仲間に熱心に仕えることによって、最後まで希望を持ち続けることができる。それは、神様が不義な方ではなく、神の名によって行った私たちの愛の業を決して忘れられることはないからであるのです。私たち人間はすぐに忘れてしまいますが、神様は、忘れることなく報いてくださるのです。