神を畏れ敬う態度 2018年3月25日(日曜 朝の礼拝)
問い合わせ
神を畏れ敬う態度
- 日付
-
- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書
ヘブライ人への手紙 5章1節~10節
聖書の言葉
5:1 大祭司はすべて人間の中から選ばれ、罪のための供え物やいけにえを献げるよう、人々のために神に仕える職に任命されています。
5:2 大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。
5:3 また、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分自身のためにも、罪の贖いのために供え物を献げねばなりません。
5:4 また、この光栄ある任務を、だれも自分で得るのではなく、アロンもそうであったように、神から召されて受けるのです。
5:5 同じようにキリストも、大祭司となる栄誉を御自分で得たのではなく、/「あなたはわたしの子、/わたしは今日、あなたを産んだ」と言われた方が、それをお与えになったのです。
5:6 また、神は他の個所で、/「あなたこそ永遠に、/メルキゼデクと同じような祭司である」と言われています。
5:7 キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。
5:8 キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。
5:9 そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、
5:10 神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。ヘブライ人への手紙 5章1節~10節
メッセージ
関連する説教を探す
序.受難週を迎えて
今週は、イエス・キリストの御苦しみを覚える受難週であります。少し乱暴な言い方かもしれませんが、イエス・キリストは今からおよそ2000年前の今週の金曜日の午後3時頃、十字架のうえで死なれました。ですから、今週の金曜日、3月30日を受難日と言います。今から、およそ2000年前の今週の金曜日に、イエス様が、私たちの罪のために十字架に磔にされて死んでくださった。このことを覚えて、この一週間を過ごしたいと思います。
私たちは、今年の1月からヘブライ人への手紙を学び始めて、今朝は5章1節から10節までを読んでいただきました。この所は、受難週の礼拝として、まことにふさわしい御言葉であります。それで、今朝は、いつものようにヘブライ人への手紙から御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。
1.大祭司の条件と働き
1節から4節までをお読みします。
大祭司はすべて人間の中から選ばれ、罪のための供え物やいけにえを献げるよう、人々のために神に仕える職に任命されています。大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。また、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分自身のためにも、罪の贖いのために供え物を献げねばなりません。また、この光栄ある任務を、だれも自分で得るのではなく、アロンもそうであったように、神から召されて受けるのです。
ここには、大祭司の条件と働きが記されています。大祭司の第一の条件は、人間の中から選ばれるということです(出エジプト28:1参照)。ここで「人間」と訳されている言葉は、元の言葉では複数形で記されています。ですから、「人々」という意味であります。大祭司は人々の中から選ばれ、人々を代表する者として、罪のための供え物やいけにえを神様にささげたのです。大祭司はすべて人々の中から選ばれる。この条件をイエス様は満たしておられます。なぜなら、イエス様は、神の永遠の御子でありながら、罪を別にして、私たちと同じ人となってくださったからです。なぜ、神の永遠の御子が人となられたのか?それは、私たちの大祭司となるためであったのです。
大祭司の第二の条件は、無知な人、迷っている人を思いやることができるということです。「思いやる」とは、「その人の置かれた立場に立って、その心中などを同情的に考えること」を意味します。大祭司は、無知で迷っている人の立場に立って、同情的に考えることが求められるのです。このことは、大祭司自身が弱さを身にまとっていることが利点となります。大祭司は自分も弱さを身にまとっているので、無知で迷っている人を思いやることができるのです。この条件も、イエス様は満たしておられます。前回学んだ4章15節にこう記されていました。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」。イエス様には、生まれながらの罪、いわゆる原罪はありませんでした。しかし、イエス様は、私たちと同じ肉体の弱さを持っておられました。そして、私たちと同様に罪の誘惑に遭われ、なおかつ、罪を犯されなかったのです。そのようなお方こそ、無知で迷っている私たちを本当の意味で思いやることができるのです。
ヘブライ人への手紙が、「大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので」と記すとき、その弱さは、神の掟に従うことのできない罪の弱さをも含んでいます。それゆえ、大祭司は、民のためだけでなく、自分自身のためにも、罪の贖いの供え物を献げねばなりませんでした(レビ9:7参照)。この点について、イエス様はあてはまりません。イエス様は弱さをとられましたが、それは神の掟に背いてしまう罪の弱さではありませんでした。イエス様は、罪を償ういけにえとして、十字架の死を死んでくださいました。それは御自分の罪のためではなく、私たちの罪のためであったのです。
誰も大祭司という光栄ある任務を、自分で得るのではありません。最初の大祭司であったアロンもそうであったように、神様から召されて受けるのです。そして、このことは、イエス・キリストにおいても言えることであるのです。
2.神を畏れ敬う態度
5節から10節までをお読みします。
同じようにキリストも、大祭司となる栄誉を御自分で得たのではなく、「あなたはわたしの子、わたしは今日、あなたを産んだ」と言われた方が、それをお与えになったのです。また、神は他の個所で、「あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である」と言われています。キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。
ここでの「キリスト」は「イエス・キリスト」のことであります。何度も申していますが、「キリスト」とは「油を注がれた者」という意味であります。イスラエルにおいて、人が祭司の職務に就く時、その人の頭に油を注ぐという儀式をしました。ですから、キリストという言葉そのものに、神様から任命された大祭司という意味が込められているわけです。
ヘブライ人への手紙は、キリストが大祭司となる栄誉を御自分で得たのではなく、神様に召されて受けたことを論証するために、聖書を引用しています。イエス様に油を注いで大祭司となさったのは、「あなたはわたしの子、わたしは今日、あなたを産んだ」と言われた神様であるのです。しかも神様は、「あなこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である」と言われているのです。ここで主張されていることは、イエス・キリストが大祭司の条件を満たしている以上のことであります。イエス様こそ、神の御子であり、永遠の大祭司であるのです(4:14参照)。では、神の御子であるイエス様はどのようにして、永遠の大祭司となられたのでしょうか?それは、多くの苦しみによって従順を学ばれることによってでありました。7節に、「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」とあります。「肉において生きておられたとき」とは、直訳すると「彼の肉の日々に」となります。ヘブライ人への手紙によれば、イエス様の地上の生涯は、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげる日々であったのです。このようなイエス様の日々の祈りが、あらわとなったのが、十字架につけられる前の夜になされたゲツセマネの祈りであります。マルコによる福音書の14章32節から42節までをお読みします。新約の92頁です。
一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみのときが自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心が行われますように。」それから、戻ってご覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。再び戻ってご覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」
ここには、イエス様が「ひどく恐れてもだえ始め」られ、「死ぬばかりに悲しい」と言われたことが記されています。また、イエス様が「この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り」、「この杯をわたしから取りのけてください」と言われたことが記されています。イエス様は、まさに、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげられたのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の406頁です。
イエス様は、地上の日々において、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある神様に、祈りと願いをささげられました。そして、そのイエス様の日々の祈りがあらわとなったのが、十字架につけられる前の前夜になされたゲツセマネの祈りであったのです。そうであるならば、一つ、気にかかることがあります。それは、ヘブライ人への手紙が、「その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」と記していることです。イエス様は、「この杯をわたしから取りのけてください」と祈られました。この杯とは、すべての人の罪を担って十字架につき、神の裁きを受けることです。しかし、イエス様は、この後、罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられました。私たちはそのことを知っているので、イエス様の祈りは聞き入れられなかったではないかと思うのです。イエス様が罪人の手に引き渡され、十字架につけられたことと、イエス様の祈りが聞き入れられたという記述は矛盾していると思うのです。しかし、そうではありません。神様は、イエス様の祈りを確かに聞いてくださいました。神様は、イエス様の「あなたの御心が行われますように」という祈りを聞いてくださったのです。イエス様は「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください」という言葉に続けてこう祈られました。「しかし、わたしが願うことではなく、御心が行われますように」。このイエス様の祈りは、私たちに祈りについて大切なことを教えています。それは、私たちが祈りの中において、自分の願いを神様に押しつけないということです。自分の願いよりも、神様の御心が行われることを願うということです。これこそ、私たちの祈りをささげるときに求められる、神を畏れ敬う態度であるのです。
3.完全な者となられたキリスト
ヘブライ人への手紙が、9節で、キリストが「完全な者となられた」と記すとき、それは従順な者として完全な者となられたということであります。キリストは神の御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。キリストは、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順であられたのです(フィリピ2:8参照)。それゆえ、神様はキリストを、死から三日目に、栄光の体で復活させられました。神様は、死から救う力のある方として、イエス様を死者の中から復活させられたのです。そして、天へとあげられ、御自分の右の座に着かせられたのです。それゆえ、イエス様は御自分に従順であるすべての人に永遠の救いを与えることができるのです。イエス様が獲得された永遠の救いにあずかるために、私たちもイエス様に従順であることが求められます。私たちも自分の思いよりも、イエス様において表された神様の御心が行われることを祈り求めたいと思います。なぜなら、私たちの思いよりも、神様の思いはいつも善いものであるからです。神様は、「この杯を過ぎ去らせてください」というイエス様の祈りを退けられました。しかし、神様は、イエス様を死から復活させられることによって、イエス様の祈りに応えてくださったのです。神様は、イエス様を十字架と復活を通して、とこしえに生きる者とされたのです。そして、それはイエス様が、私たちの永遠の救いの源、私たちの永遠の大祭司となるためであったのです。