大胆に恵みの座に近づこう 2018年3月18日(日曜 朝の礼拝)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

大胆に恵みの座に近づこう

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヘブライ人への手紙 4章14節~16節

聖句のアイコン聖書の言葉

4:14 さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。
4:15 この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。
4:16 だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。
ヘブライ人への手紙 4章14節~16節

原稿のアイコンメッセージ

序.年間聖句、年間テーマ

 私たちの教会では、毎年、年間テーマ、年間聖句を定めて、歩んでおります。週報の表紙にありますように、今年の年間テーマは「大胆に恵みの座に近づこう!」、年間聖句は「わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから・・・憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」であります。お気づきのように、今朝の御言葉は、今年の年間聖句であります。また、今朝の説教題は、年間テーマと同じであります。そのことを念頭に置いていただいて、ご一緒に御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

1.偉大な大祭司イエス

 ヘブライ人への手紙4章14節をお読みします。

 さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。

 旧約聖書に記されている最初の礼拝は、創世記4章のカインとアベルの礼拝であります。そこには、カインが土の実りを献げ物として持ってきたことと、アベルが羊の群れの中から肥えた初子を献げ物として持ってきたことが記されています。このことから、私たちは、献げ物をささげることと、神様を礼拝することは一つであることが分かります。この後に記されているノアも祭壇を築き、動物をいけにえとして捧げて、神様を礼拝しました。動物をいけにえとして屠り、焼き尽くして、神様にささげたのです。アブラハム、イサク、ヤコブの時代、一族を代表する者として族長が、いけにえをささげておりました。一族の長が、その家の祭司の役割を果たしていたのです。エジプトに寄留したイスラエルの子孫は、長い年月を経て、おびただしい数に増え広がりました。イスラエルの人々は、神様によってエジプトから導き出され、シナイ山で掟と法を与えられて、契約を結び、神の宝の民となりました。そのイスラエルの民を代表して、神様にいけにえをささげるのが祭司であります。出エジプト記の24章に、神様とイスラエルの人々が契約を結んだことが記されています。そして、25章以下で、主は、御自分がイスラエルの民の只中に住むための幕屋と祭具をどのように作ればよいのかをお示しになるのです。28章を見ますと、小見出しに「祭服」とありまして、その1節、2節にこう記されています。「次に、祭司としてわたしに仕えさせるために、イスラエルの人々の中から、兄弟アロンとその子ら、すなわち、ナダブ、アビフ、エルアザルとイタマルを、アロンと共にあなたの近くに置きなさい。あなたの兄弟アロンに威厳と美しさを添える聖なる祭服を作らねばならない」。このように、アロンとその子らが、イスラエルにおいて最初の祭司となったのです。主は祭司たちに、毎日、朝と夕に、いけにえをささげることを命じられました。また、イスラエルの中で罪を犯した者は、祭司によっていけにえをささげ、罪の赦しにあずかりました。このように、神様にいけにえをささげることは、罪の赦しを得るためであったのです。神様は聖なるお方、正しいお方ですから、アダムにあって堕落し、罪を犯している人間は、本来、神様の御前に立つことはできません。聖なる神様の御前に立つならば、罪人である私たちは滅ぼされてしまうのです(イザヤ6:5参照)。そうならないように、神様は、イスラエルの民の中から祭司を任命し、献げ物をささげるよう定められたのです。イスラエルの民は、動物をいけにえとしてささげましたが、それは自分の身代わりとしてささげたのです。罪を犯したイスラエルの民は、雄山羊を連れて行き、その頭に手を置き、所定の場所で、贖罪の献げ物としてささげました。雄山羊の頭に手を置くということによって、その雄山羊に自分の罪を負わせるわけですね。そして、その雄山羊の血を流すことによって、罪の赦しを得て、神様との交わりの中に保たれるわけです。

 神様が任命された祭司たちの中で、大いなる祭司が大祭司でありました。レビ記の16章に、「贖罪日」のことが記されています。贖罪日とは、年に一度、イスラエルの人々のすべての罪を贖う儀式をする日であります。その贖罪日に、神様が御臨在される至聖所に入り、イスラエルの罪のためにいけにえをささげたのが大祭司でありました。ヘブライ人への手紙が執筆されたのが60年代後半であるとすれば、エルサレムには神殿があり、そこには大祭司がおりました。そのようなことを踏まえて、ヘブライ人への手紙は、「わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられている」と記すのです。ここで「与えられている」と訳されている言葉は直訳すると「持っている」となります。「私たちは大祭司を持っている。それはもろもろの天を通過された偉大な大祭司である」とヘブライ人への手紙は記すのです。旧約聖書に記されている大祭司は、年に一度だけ、神様が御臨在される至聖所に入ることができました。何枚かの垂れ幕を通過して、至聖所に入り、いけにえをささげ、民のために執り成しをしたのです。しかし、私たちの大祭司であるイエス様は、もろもろの天を通過されて、神様の右の座について、私たちのために執り成しておられるのです。このことは、使徒パウロも記していることであります。ローマの信徒への手紙8章33節、34節にこう記されています。「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」。また、使徒ヨハネも、その第一の手紙の2章1節で次のように記しています。「わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます」。このようにパウロも、ヨハネも、イエス様が天の父なる神のもとにおられると記しています。そして、ヘブライ人への手紙は、イエス様が私たちの偉大な大祭司として天におられると記すのです。それゆえに、「わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか」と記すのです。私たちが洗礼を受けたとき、あるいは信仰告白をしたときに公に言い表した信仰をしっかり保つことができるのは、偉大な大祭司が天におられるからであるのです。

2.私たちの弱さに同情できるイエス

 15節をお読みします。

 この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。

 天におられる偉大な大祭司であるイエス様は、わたしたちの弱さに同情できないようなお方ではありません。ここでの「わたしたち弱さ」とは、神様の御言葉に聞き従うことができず、罪を犯してしまう私たちの弱さのことです。罪の誘惑に直面して、さらけ出されてしまう私たちの弱さのことです。また、ここで「同情する」と訳されている言葉の元々の意味は、「共に苦しむ」という意味であります(岩波訳参照)。イエス様が私たちの弱さに同情することができるのは、イエス様がすべての点で私たちと同様に試練に遭われ、苦しまれたからです。しかし、イエス様と私たちとの間には、決定的な違いがあります。それは、イエス様が罪を犯されなかったということです。イエス様は罪の誘惑(神の掟に背く誘惑)を受けられましたが、誘惑に負けて罪を犯してしまうことはありませんでした。イエス様は、聖霊によっておとめマリアの胎に宿られ、罪のないお方としてお生まれになりました。イエス様には生まれながらの罪、いわゆる原罪がなかったのです。しかし、はじめの人アダムがそうであったように、罪を犯す可能性はあったのです。けれども、イエス様は、あらゆる試みにあっても、罪を犯すことはありませんでした。そのことは、イエス様が私たちの誰よりも大きな試練に遭われ、大きな苦しみを体験されたことを教えています。私たちは罪の誘惑と最後まで戦うことができず、罪を犯してしまいます。しかし、イエス様は、罪の誘惑と最後まで戦い、罪を犯さなかったのです。罪の誘惑との戦いの中で苦しみながら、父なる神の御心に従い抜かれたのです(十字架の死!)。すべての点で私たちと同様に試練に遭われて苦しまれ、なおかつ、罪を犯されなかったイエス様であるからこそ、私たちの弱さに同情し、時宜にかなった助けを与えることができるのです。そのような偉大な大祭司を私たちは天に持っているのです。

3.大胆に恵みの座に近づこう

 16節をお読みします。

 だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。

 先程も申しましたように、聖なる神様の御前に、本来、罪人は立つことができません。聖なる神様の御前に、罪人があえて立つならば、それは滅びを意味します。ですから、神様に近づくことは畏れ多いことであるのです。しかし、私たちはその神様に大胆に近づくことができるのです。なぜなら、神様のもとには、私たちの偉大な大祭司イエス・キリストがおられるからです。イエス様は、私たちの罪を償ういけにえとして、十字架の死を死んでくださいました。また、イエス様は復活して、天に上げられ、私たちのために執り成しておられるのです。そのような偉大な大祭司がおられるゆえに、神の玉座は恵みの玉座となったのです。ヘブライ人への手紙は、「大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」と記していますが、どのようにして、私たちは恵みの座に近づくことができるのでしょうか?それは、イエス・キリストの名によって二人または三人が集まってささげる礼拝においてであります(高い所に登ることによってではありません)。イエス様は、マタイによる福音書18章20節で、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と言われました。復活して、天におられるイエス様が、聖霊において、私たちと共にいてくださるのです。そして、そのイエス様と共に、神様が私たちと共にいてくださるのです。しかも、私たちの父なる神様として共にいてくださるのであります。ですから、この礼拝においてこそ、私たちが神様の憐れみを受け、恵みにあずかり、時宜に適った助けをいただくことができるのです。「時宜にかなった助け」とはタイムリーな助け、ふさわしい時に与えられる助けという意味です。ここでの「助け」は、何より、信仰生活を続けていくための助けであります。世の誘惑に負けることなく、イエス・キリストを神の御子、救い主と信じて生きていくための助けであります。そのような助けを、私たちは礼拝においていだくことができるのです。

 キリスト教会の礼拝において、動物をほふって、その血を流すことはいたしません。それは、私たちの礼拝が、十字架の上で血を流して死んでくださり、復活して、天におられるイエス・キリストの執り成しの中で営まれているからです。イエス・キリストの御名によって礼拝をささげるとは、大祭司イエス・キリストのとりなしによって礼拝をささげるということであるのです。このことは、お祈りのことを考えればよく分かります。私たちは、「天の父なる神様」と呼びかけ、「イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン」と祈りを結びます。私たちはイエス様の御名によって、お祈りをささげているのです。私たちは、偉大な大祭司であるイエス様の執り成しの中で祈りをささげているのです。私たちはイエス様を信じて神の子とされ、父なる神様の御言葉を聞き、祈り、賛美をささげています。このことは考えてみれば随分大胆なことです。そのような大胆さを、私たちは神の霊、聖霊によって与えられているのです(ローマ8:14~16参照)。ですから、私たちは大胆に恵みの座に近づくことができるし、近づくべきであるのです。大祭司イエス・キリストのとりなしによってささげられる礼拝こそ、私たちが神様の憐れみ、恵み、助けをいただく恵みの座であります。それゆえ、私たちは弱いときにこそ、助けをいただくために礼拝に出席すべきであるのです。

関連する説教を探す関連する説教を探す