私たちこそ神の家 2018年2月25日(日曜 朝の礼拝)
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ヘブライ人への手紙 3章1節~6節
聖書の言葉
3:1 だから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。
3:2 モーセが神の家全体の中で忠実であったように、イエスは、御自身を立てた方に忠実であられました。
3:3 家を建てる人が家そのものよりも尊ばれるように、イエスはモーセより大きな栄光を受けるにふさわしい者とされました。
3:4 どんな家でもだれかが造るわけです。万物を造られたのは神なのです。
3:5 さて、モーセは将来語られるはずのことを証しするために、仕える者として神の家全体の中で忠実でしたが、
3:6 キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。ヘブライ人への手紙 3章1節~6節
メッセージ
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今朝は、ヘブライ人への手紙3章1節から6節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。
1節から4節までをお読みします。
だから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。モーセが神の家全体の中で忠実であったように、イエスは、御自身を立てた方に忠実であられました。家を建てる人が家そのものよりも尊ばれるように、イエスはモーセより大きな栄光を受けるにふさわしい者とされました。どんな家でもだれかが造るわけです。万物を造られたのは神なのです。
「だから」とありますように、今朝の御言葉は、前回の続きであります。前回、私たちは、神の御子であるイエス様が私たちの罪を償うために、私たちと同じ人となり、神の御前に、憐れみ深い忠実な大祭司となってくださったことを学びました。イエス様は試練を受けて苦しまれ、なおかつ試練に打ち勝たれたからこそ、私たちを助けることができるのです。ヘブライ人への手紙は、そのイエス様のことを考えなさいと記しているのです。
ヘブライ人への手紙は、ここで読者に、「天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち」と呼びかけています。これは、礼拝においてヘブライ人への手紙を読んでいる私たちに対する呼びかけでもあります。私たちは、「天の召しにあずかっている聖なる兄弟姉妹たち」であるのです。それは、私たちがイエス様を信じているからであります。イエス様にあって、私たちは、天の召しにあずかっている聖なる兄弟姉妹とされているのです(2:10、11参照)。では、私たちは、イエス様をどのようなお方として信じているのでしょうか?ヘブライ人への手紙は、「私たちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエス」と記しています。ここで「使者」と訳されている言葉(アポストロス)は、「使徒」とも訳すことができます。イエス様が権威を与えて遣わされた弟子たちを「使徒」と呼びますが、ここではイエス様が「使徒」と呼ばれているのです。イエス様が使徒であると呼ばれているのは、聖書でここだけであります。しかし、イエス様が神様から遣わされたお方であることは、聖書の至る所に記されています。イエス様は、父なる神様から遣わされた神の独り子であるのです(ヨハネ3:17参照)。イエス様が「わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」と言われたように、イエス様は神様から遣わされた使者なのです(マタイ10:40)。また、イエス様は「大祭司」でもあられます。大祭司は、動物のいけにえをささげ、神と民との間に平和をもたらす者であります。イエス様は、油を注がれた大祭司として、ご自分を十字架のうえにささげ、神と私たちとの間に平和をもたらしてくださいました。イエス様は、神様の御心に従って、十字架の死を死なれることによって、私たちの罪を償ってくださったのです。私たちは、天の召しにあずかっている聖なる兄弟姉妹として、私たちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエス様のことを考えるべきであるのです。ここで「考える」と訳されている言葉は、「十分に知る」という言葉であります。私たちは、教会が公に言い表してきた使者であり、大祭司であるイエス様を十分に知ることによって、いよいよ、自分たちが天の召しにあずかっている聖なる兄弟姉妹であることを十分に知ることができるのです。
ヘブライ人への手紙は、2節で、「モーセが神の家全体の中で忠実であった」と記しています。モーセは、ユダヤ人から最も尊敬されている人物であります(ヨハネ9:28参照)。また、歴史上、最も偉大な人物であったと言えると思います。モーセは、イスラエルの民をエジプトの奴隷状態から導き出した指導者でありました。シナイ山において、神の律法を与えられ、荒れ野の40年の間、イスラエルの民を導いたのもモーセでした。モーセがユダヤ人から尊敬されていたことは、旧約聖書のはじめの5つの書物、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の著者がモーセであると信じられていたことからも分かります。ですから、今でも、旧約聖書のはじめの5つの書物をモーセ五書と呼ぶのです。それにしても、なぜ、ヘブライ人への手紙は、ここでモーセとイエス様を比較しているのでしょうか?それは、モーセが神様から遣わされた使者であり、神と民との間に立って取りなしをした人物であったからです。ヘブライ人への手紙は、イエス様が使者であり、大祭司であると記しましたけれども、モーセはそのような人物であったのです。モーセが神様から遣わされた者であることは、出エジプト記の3章に記されています。神様は、「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」と言われました。さらには、「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである」と言われたのです。また、モーセが神と民との間に立ってとりなしをしたことが出エジプト記の32章に記されています。イスラエルの民は、モーセがシナイ山からなかなか降りてこないので、心細くなり、モーセの兄アロンに神々の像を造るよう求めました。そして、イスラエルの民は、アロンが造った金の子牛の像を神々として礼拝したのです。彼らは、十戒を与えられたばかりであったのに、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない」という掟を破ってしまったのです(出エジプト20:3,4)。そのとき、神とイスラエルとの間に立って、とりなしをしたのがモーセでありました。モーセは、「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば・・・。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください」とまで言ったのです。後に、アロンがイスラエルの大祭司に就任しますが、イスラエルの危機的な局面において、神様と民との間に立って、とりなしをしたのは、モーセでありました。このようにモーセは、神様から遣わされた者であり、また、神と民との間をとりなす者であったのです。
ヘブライ人への手紙は、「モーセが神の家全体の中で忠実であった」と記していますが、この背後には民数記12章7節の御言葉があると言われています。民数記の12章には、モーセの姉であるミリアムと兄アロンが、モーセに逆らったことが記されています。「主はモーセを通してのみ語られのではなく、我々を通しても語られるのではないか」と文句を言ったのです。実際に開いて読んでみたいと思います。旧約の232頁です。民数記12章1節から16節までをお読みします。
ミリアムとアロンは、モーセがクシュの女性を妻にしていることで彼を非難し、「モーセはクシュの女を妻にしている」と言った。彼らは更に言った。「主はモーセを通してのみ語られるというのか。我々を通しても語られるのではないか。」主はこれを聞かれた。モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった。主は直ちにモーセとアロンとミリアムに言われた。「あなたたち三人とも、臨在の幕屋の前に出よ。」彼ら三人はそこに出た。主は雲の柱のうちにあって降り、幕屋の入り口に立ち、「アロン、ミリアム」と呼ばれた。二人が進み出ると、主はこう言われた。「聞け、わたしの言葉を。あなたたちの間に預言者がいれば/主なるわたしは幻によって自らを示し/夢によって彼に語る。わたしの僕モーセはそうではない。彼はわたしの家の者すべてに信頼されている。口から口へ、わたしは彼と語り合う/あらわに、謎によらずに。主の姿を彼は仰ぎ見る。あなたたちは何故、畏れもせず/わたしの僕モーセを非難するのか。」主は彼らに対して憤り、去って行かれ、雲は幕屋を離れた。そのとき、見よ、ミリアムは重い皮膚病にかかり、雪のように白くなっていた。アロンはミリアムの方を振り向いた。見よ、彼女は重い皮膚病にかかっていた。アロンはモーセに言った。「わが主よ。どうか、わたしたちが愚かにも犯した罪の罰をわたしたちに負わせないでください。どうか、彼女を、肉が半ば腐って母の胎から出て来た死者のようにしないでください。」モーセは主に助けを求めて叫んだ。「神よ、どうか彼女をいやしてください。」しかし主は、モーセに言われた。「父親が彼女の顔に唾したとしても、彼女は七日の間恥じて身を慎むではないか。ミリアムを七日の間宿営の外に隔離しなさい。その後、彼女は宿営に戻ることができる。」ミリアムは宿営の外に七日の間隔離された。民は、彼女が戻るまで出発しなかった。その後、民はハツェロトを出発し、パランの荒れ野に宿営した。
神様は、預言者たちに昼は幻をもって、夜は夢をもって御自身を示されました。しかし、主はモーセと、口から口へ、率直に語り合われるのです。神様御自身が、モーセは神の家全体の中で忠実であると言われたのです(LXX参照)。
では、今朝の御言葉に戻ります。新約の403頁です。
モーセが神の家全体の中で忠実であったように、イエス様はご自分を遣わされ、大祭司として立てた神様に忠実であられました。ヘブライ人への手紙は、忠実さという点では、モーセもイエス様も同じであると記しております。では、イエス様はモーセと等しい栄光を受けられるのでしょうか?そうではありません。なぜなら、イエス様は神の家を建てられた神その方であるからです。「家を建てる人が家そのものよりも尊ばれる」。これは、私たちにもよく分かることです。私たちは、大きな立派な家そのものをほめるのではなく、そのような家を建てて住んでいる人をほめます。それと同じように、神の家、神の民に属するモーセよりも、神の家、神の民を形づくり、その中に住んでおられるイエス様のほうが大きな栄光を受けるにふさわしいのです。4節に、「どんな家でもだれかが造るわけです。万物を造られたのは神なのです」とありますが、イエス様こそ、万物を造られた神その方であります(1:3、4参照)。とすれば、神の家は、イスラエル民族だけに限られず、世界のあらゆる民族からなっているのです。
5節、6節をお読みします。
さて、モーセは将来語られるはずのことを証しするために、仕える者として神の家全体の中で忠実でしたが、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。
ここに、モーセとイエス様の違いがはっきりと記されています。モーセは神の家の中で、その一員として忠実に仕えました。しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。忠実さにおいては同じであっても、モーセは神の家の一員として仕える者であり、キリストは、神の御子として神の家を治める者であるのです。それゆえ、イエス様は、モーセよりも大きな栄光を受けるにふさわしいお方であるのです。イエス・キリストは、神の御子として神の家を忠実に治めておられます。そして、私たちキリスト教会こそが、神の家であるのです。ここでの家は建物というよりも、共に生活している家族のことであります。私たちこそ、キリストが忠実に治め、その只中に住んでくださる神の家・神の家族であるのです。ただし、ヘブライ人への手紙は、ここで一つの条件を記しています。「もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば」と記すのです。このことは、ヘブライ人への手紙の最初の読者たちが、確信と希望に満ちた誇りを失いかけていたことを示しています。しかし、神の家であるには、確信と希望に満ちた誇りを持ち続けねばならないのです。では、その確信と希望に満ちた誇りはどこから出て来るのでしょうか?それは、私たちの内側から出て来るのでしょうか?そうではありません。神の家を治めておられるイエス・キリストから、私たちの只中におられるイエス・キリストから出て来るのです。私たちが公に告白した使者であり、大祭司であるイエス様を十分に知ることによって、私たちは、確信と希望に満ちた誇りを持ち続けることができるのです。ですから、私たちは、日曜日ごとにイエス様の復活を記念して、礼拝をささげているのです。私たちの使者であり、大祭司であるイエス・キリストを十分に知り、確信と希望に満ちた誇りを持ち続けるために、礼拝をささげているのです。ここでの確信は、何よりも罪の赦しの確信であります。なぜ、私たちは神様の御前にすべての罪は赦されていると確信することができるのでしょうか?それは、私たちの主であるイエス・キリストが十字架について死んでくださったからです。そして、復活され、今も活きておられるからです。また、「希望に満ちた誇り」とは、何よりも新しい天と新しい地において、神の子としての栄光にあずかるという誇りであります。誇りは、拠り所のことであります(詩49:7参照)。私たちは、新しい天と新しい地において神の子としての栄光にあずかることを、拠り所として、この地上の人生を、力づよく歩んでいくことができるのです。確信と希望に満ちた誇りを持ち続ける私たちこそ、神の家であり、神の家族であるのです。