死の恐怖からの解放 2018年2月11日(日曜 朝の礼拝)

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死の恐怖からの解放

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヘブライ人への手紙 2章14 節~15節

聖句のアイコン聖書の言葉

2:14 ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、
2:15 死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。ヘブライ人への手紙 2章14 節~15節

原稿のアイコンメッセージ

 先程は、ヘブライ人への手紙2章5節から15節までを読んでいただきました。前回は、11節から13節までを学びましたので、今朝は、14節、15節を中心にして、御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。

 14節、15節をお読みします。

 ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。

 「ところで、子らは」とありますが、この「子ら」は直前の13節を受けてのものであります。イエス様の言葉、「ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます」という言葉を受けて、「ところで、子らは血と肉を備えているので」と記されているのです。前回も申し上げたことですが、イエス様に、神が与えてくださった子らとは、イエス様の弟、あるいは妹として与えられた神の子らを指しております。ここでの「子ら」とは、イエス様を信じて、イエス様の兄弟姉妹とされて、神の子とされた私たちのことであるのです。前回、私たちは、私たちが神の子とされるのは、神の独り子であるイエス様の弟、あるいは妹とされることによってであることを学びました。では、イエス様は、どのようにして、私たちの兄となってくださったのでしょうか?それは、私たちと同じように、血と肉を備えられることによってでありました。永遠から神と共におられる、子なる神が、どうして、私たちと同じ人となられたのか?それは、私たちの兄となるためであったのです。イエス様は、私たちの兄弟となるために、私たちと同じ人となってくださったのです。また、それは、死をつかさどる悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯奴隷であった私たちを解放なさるためであったのです。イエス様は、私たちを兄弟とするためだけに人となられたのではなくて、悪魔を滅ぼし、私たちを解放なされるために人となってくださったのです。

 「悪魔」とは神に敵対する堕落した天使のことであります。ヘブライ人への手紙は、「悪魔は死をつかさどる者である」と記します。死の原因、それは、聖書によれば、最初の人アダムの罪であります。神様は、最初の人アダムをエデンの園に住まわせ、耕し、守るようにされました。そして、一つの掟を与えられたのです。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」。結論から申しますと、最初の人アダムは、この神の掟に背いて、死ぬものとなったわけです。アダムだけではなくて、アダムの子孫であるすべての人が死ぬものとなったのです。どうして、アダムは神様の掟に背いてしまったのでしょうか?それは、助け手である女の口を通して、蛇の言葉、悪魔の言葉を聞いたからであります。蛇、その背後にいる悪魔は、アダムを直接、誘惑せずに、助け手である女を通してアダムを誘惑したのです。アダムは、女の口を通して聞いた悪魔の言葉、「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存知なのだ」という言葉を真に受けて、禁じられていた木の実を食べてしまったのです。そのようにして、神様が造られた良き世界に、罪と死が入り込んできたのです。

 死の原因、それは最初の人アダムが神の掟に背いて犯した罪にあります。そして、その罪の背後には、悪魔の誘惑があったのです。アダムは結果として、神の言葉にではなく、悪魔の言葉に従ってしまいました。そのようにして、アダムは自ら悪魔の支配下に入ってしまったのです。そのことを踏まえて、ヘブライ人への手紙は、悪魔を死をつかさどる者と呼んでいるわけであります。来るべき救い主が、悪魔を滅ぼしてくださる。このことは、エデンの園でアダムと女が罪を犯した直後に、神様が言われたことでありました。神様は、女をだました蛇、その背後にいる悪魔に次のように言われました。「このようなことをしたお前は/あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で/呪われるものとなった。お前は、生涯這い回り、塵を食らう。お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く」。悪魔の頭を打ち砕く、女の子孫こそ、聖霊によっておとめマリアから生まれたイエス・キリストであったのです。では、イエス様は、死をつかさどる悪魔を、どのようにして滅ぼされるのでしょうか?ヘブライ人への手紙は、「御自分の死によって滅ぼし」と記します。イエス様は御自分の死によって、死をつかさどる者、悪魔を滅ぼされたのです。このように、ヘブライ人への手紙が記すのは、死の背後に、神の掟があるからです。このことを詳しく教えているのは、ローマの信徒への手紙7章であります。新約の282頁。ローマの信徒への手紙7章7節から12節までをお読みします。

 では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、わたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。こういうわけで、律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。

 ここでの「わたし」は、この手紙の執筆者である使徒パウロでありますが、もう少し正確にいうと、アダムに結ばれていた、かつてのパウロであります。あるいは、アダムその人とも読むことができます。9節に、「わたしは、かつて律法とかかわりなく生きていました」とありますが、アダムは、エデンの園において、掟を与えられる前まで、律法とかかわりなく生きていたわけです。そのアダムに、掟が与えられる。「善悪の知識の木から取って食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」という掟が与えられた。そのときに、ここで「罪」と呼ばれる悪魔が生き返る。生き生きと活動を始めるわけです。悪魔は掟によって機会を得、アダムを欺き、そして掟によってアダムを殺してしまったのです。悪魔は人を殺す力をもっているわけではありません。人の死の背後には、神の掟があるのです。神の掟は、人間の生と死にかかわるものであるのです。ですから、悪魔を滅ぼす救い主に求められることは、悪魔の誘惑に惑わされることなく、生涯、神の掟に従うことであるのです。そして、事実、イエス・キリストは、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで、神様の御心に従われたのです。イエス様の神様に対する従順は、十字架の死において完成されたのです。それゆえ、ヘブライ人への手紙は、「イエス様が死をつかさどる悪魔を、御自分の死によって滅ぼされた」と記すことができたのです。

 では、今朝の御言葉に戻りましょう。新約の402頁です。

 ヘブライ人への手紙は、イエス様が御自分の死によって悪魔を滅ぼされた目的を、「死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした」と記します。「死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たち」とは、イエス様を信じる前の私たちのことであります。イエス様ではなくて、アダムに結ばれていたかつての私たちのことであります。「死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たち」の典型的な姿を、私たちは、イエス様のことを三度も知らないと言ったペトロの姿に見ることができます。最後の晩餐の席において、ペトロは、イエス様に、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言いました。しかし、そのペトロが、その数時間後には、イエス様のことを三度も知らないと言うのです。なぜでしょうか?それは、ペトロが死を恐れたからです。ペトロは死を恐れて、呪いの言葉さえ口にしながら、イエス様との関係を否定したのです。そして、鶏の鳴き声を聞いて、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」と言われたイエス様の言葉を思い出し、外に出て激しく泣いたのであります。しかし、後に、ペトロは死を恐れることなく、「イエス様こそ、神の子、救い主である」と大胆に語るようになります。それは、ペトロが復活されたイエス様に出会ったからです。天にあげられたイエス様から聖霊を与えられたからであります。ペトロは、復活されたイエス様に出会うことによって、また、復活されたイエス様の聖霊を与えられることによって、死が終わりではないこと、死に打ち勝つ命に生かされていることを確信することができたのです。かつては私たちも、死が最も力あるものと思っていた。だから、命を脅かす者には従わざるを得なかった。そのような私たちは、「死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態」にあったのです。では、私たちは、だれの奴隷にされていたのでしょうか?それは、悪魔の奴隷にされていたのです。ローマの信徒への手紙6章の御言葉によれば、「罪の奴隷」であったのです。私たちには、生まれながらの罪、いわゆる原罪があります。そして、日々、神様の掟に背いて罪を犯して生きているのです。それは、私たちが悪魔の奴隷とされていることを示しています。なぜなら、罪を犯すことは神に背くことであると同時に、悪魔に従うことであるからです。最初の人アダムが、結果的に、悪魔の言葉に従って、悪魔の支配下に入ったゆえに、私たちは悪魔の支配下にある者として生まれてきます。その悪魔の支配から、誰も逃れることはできない。そのような私たちを悪魔の奴隷状態から解放してくださるために、神の御子が私たちと同じ人としてお生まれになり、そして、神の御心に従って、十字架の死を死んでくださったのです。そのようにして、イエス様は、死をつかさどる悪魔を滅ぼしてくださったのです。

 イエス様は御自分の死によって、悪魔を滅ぼしてくださいました。このことは、ヨハネによる福音書が教えていることでもあります。ヨハネによる福音書は、イエス様の十字架の死を神の栄光、神の勝利として描いています。ヨハネによる福音書は、イエス様が十字架に「上げられる」という言い方をしますが、それは、十字架が神の栄光であり、神の勝利であるからです。十字架こそ、イエス様が全人類の王として示される栄光の座であるのです。イエス様は、最後のアダムとして、また、私たちの救い主として、十字架の死に至るまで、神の御心に完全に従い抜いてくださいました。そのようにして、神の掟を完全に守られたのです。それゆえ、神様はイエス様を、死から三日目に栄光の体で復活させられたのです。悪魔は、イエス様を死の支配にとどめて置く根拠を持っていないからです。それは、イエス・キリストの弟、あるいは妹とされ、神の子らとされた私たちにも言えることであるのです。イエス様は、私たちのために、神の掟を落ち度なく守り、私たちのために、罪の刑罰としての十字架の死を死んでくださいました。それゆえ、悪魔は、私たちを死の支配にとどめて置くことはできないのです。その法的な根拠を持っていないのです。イエス・キリストを信じる私たちは、もはや悪魔の奴隷ではありません。私たちは、自由な者、神の子らとされているのです。

 ここまでの話を聞かれて、「そうは言っても、イエス・キリストを信じる者も死ぬではありませんか」と疑問に思われる方もおられるかも知れません。確かに、イエス・キリストを信じている者たちも肉体の死を経験します。しかし、イエス・キリストを信じる私たちにとって、死はまったく違う意味を持つようになったのです。イエス・キリストを信じる私たちにとって、死は、天国への入り口となったのです。私たちは死を通して、罪の支配から完全に解放され、神様とのより親しい交わりへと入れられるのです。ハイデルベルク信仰問答の第42問に次のように記されています(春名純人訳)。

第42問 キリストが、わたしたちのために、死んで下さったのなら、どうして、わたしたちも、死ななければならないのでしょうか。

答 わたしたちの死は、わたしたちの罪の代価の支払いではありません。そうではなく、わたしたちの死は、罪の絶滅と永遠の生命(いのち)への入り口なのであります。

 私たちの罪の代価の支払いとしての死は、イエス様が十字架の上で死んでくださいました。それゆえ、私たちの死は罪の絶滅と永遠の命への入口であるのです。十字架につけられたイエス様が、御自分を信じた強盗の一人に、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われたように、私たちは死を通して、天国に入るのです。そして、イエス様が再び天から来られるとき、イエス様と同じ栄光の体で復活させられるのであります。そのとき、私たちはイエス様と共に、神の御心に従う神の子として、新しい天と新しい地を支配するようになるのです。新しい天と新しい地には、悪魔も死もありません。ヨハネの黙示録は、新しい天と新しい地の到来に先立って、「悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた」と、また、「死も陰府も火の池に投げ込まれた」と記しています(黙示20:10、14)。そして、新しい天と新しい地について、次のように記すのです。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」。

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