私たちの兄弟イエス 2018年2月04日(日曜 朝の礼拝)
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ヘブライ人への手紙 2章11節~13節
聖書の言葉
2:11 事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、
2:12 「わたしは、あなたの名を/わたしの兄弟たちに知らせ、/集会の中であなたを賛美します」と言い、
2:13 また、/「わたしは神に信頼します」と言い、更にまた、/「ここに、わたしと、/神がわたしに与えてくださった子らがいます」と言われます。ヘブライ人への手紙 2章11節~13節
メッセージ
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先程は、ヘブライ人への手紙2章5節から13節までをお読みしました。前回、5節から10節まで学びましたので、今朝は、11節から13節までをご一緒に学びたいと願っております。
11節から13節までをお読みします。
事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、「わたしは、あなたの名を/わたしの兄弟たちに知らせ、集会の中であなたを賛美します」と言い、また、「わたしは神に信頼します」と言い、更にまた、「ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます」と言われます。
「聖なる者」とありますが、これは道徳的に「清い者」という意味ではなく、「神の者」という意味です。このことは、聖書のことを考えれば分かりやすいと思います。聖書は道徳的に清い書物ではなく、神の書物であるのです。「人を神の者となさる方」とは、イエス様のことです。また、「聖なる者とされる人たち」とは、イエス様を信じている私たちのことであります。「一つの源」とは、神様のことです。ヘブライ人への手紙は、「イエス様も、イエス様を信じる私たちも神様から出ている」と記しているのです。それは、言い換えれば、「御子イエス様を信じることによって、私たちも神の子とされた」ということであります。私たちは、イエス様を信じて神の子とされることによって、神の者とされるのです。ヨハネによる福音書1章12節に、次のように記されています。「言(ことば)は自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言(ことば)は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」。「言(ことば)」とは「初めから神と共にあった、神その方」であり、人となる前のキリストのことです。ヨハネによる福音書は、「言(ことば)は自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」と記しています。また、「この人々は、・・・神によって生まれたのである」と記しています。イエス様を信じる私たちは、神の子となる資格を与えられております。そして、私たちは、神によって生まれた者たちであるのです。「神によって生まれた者」とは、神の霊である聖霊によって、新しく生まれた者ということであります。イエス様は、ヨハネによる福音書の3章で、ニコデモに次のように言われました。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」。また、次のようにも言われました。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」。新たに生まれること、それは神の霊、聖霊によって生まれることであるのです。そして、そのことは、自由な主権をもって働かれる神様によることであるのです。
イエス様を信じる私たちが神の子とされたことは、私たちが、イエス・キリストの父なる神を、「天におられる私たちの父よ」と祈っていることからも明らかであります。イエス様は、いわゆる「主の祈り」において、弟子たちに、「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけて祈るよう教えられました(マタイ6:9)。そして、事実、私たちは、「天におられるわたしたちの父よ」と祈っているのです。このことについては、ガラテヤの信徒への手紙4章に、次のように記されています。「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下(もと)に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります」。神の御子が聖霊によっておとめマリアの胎に宿り、人として産まれてくださったのは、ご自分を信じる者たちに、ご自分の霊、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を与えるためであったのです。それは、言い換えれば、ご自分の兄弟姉妹とするためでありました。イエス様は、私たちを、神を父とするご自分の兄弟姉妹としてくださったのです。私たちは、イエス様の兄弟姉妹とされたことによって、神の子とされたのです。
「イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで」とありますが、これは積極的に言えば、「イエス様は私たちをご自分の兄弟姉妹として公に言い表してくださる」ということであります。マタイによる福音書の12章に、次のようなお話が記されています。
イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」
イエス様は、弟子たちの方をさして、「ここに・・・わたしの兄弟がいる」、「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹・・・である」と言われました。そして、事実、復活されたイエス様は、弟子たちを「わたしの兄弟たち」と呼ばれるのです。復活されたイエス様は、婦人たちに、次のように言われました。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」(マタイ28:10)。わたしは、今、新約聖書からイエス様がご自分を信じる弟子たちを、ご自分の兄弟と呼ばれたことを指摘しました。しかし、ヘブライ人への手紙が執筆された時代、新約聖書はまだありませんでした。彼らにとっての聖なる書物、神の言葉は、旧約聖書であったのです。ですから、ヘブライ人への手紙は、イエス様がご自分を信じる者たちを兄弟と呼んでくださることの証拠聖句を、旧約聖書から引用するのです。しかも、イエス様の言葉として、引用するのです。「イエスは、彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、『わたしは、あなたの名を/わたしの兄弟たちに知らせ、集会の中であなたを賛美します』と言」われます。ここで引用されているのは、詩編22編であります。実際に開いてみましょう。旧約の852頁です。少し長いですが、詩編22編全体をお読みします。
指揮者によって。「暁の雌鹿」に合わせて。賛歌。ダビデの詩。
わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。わたしの神よ/昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。だがあなたは、聖所にいまし/イスラエルの賛美を受ける方。わたしたちの先祖はあなたに依り頼み/依り頼んで、救われて来た。助けを求めてあなたに叫び、救い出され/あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い/唇を突き出し、頭を振る。「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう。」わたしを母の胎から取り出し/その乳房にゆだねてくださったのはあなたです。母がわたしをみごもったときから/わたしはあなたにすがってきました。母の胎にあるときから、あなたはわたしの神。わたしを遠く離れないでください/苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです。雄牛が群がってわたしを囲み/バシャンの猛牛がわたしに迫る。餌食を前にした獅子のようにうなり/牙をむいてわたしに襲いかかる者がいる。わたしは水となって注ぎ出され/骨はことごとくはずれ/心は胸の中で蝋のように溶ける。口は渇いて素焼きのかけらとなり/舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。犬どもがわたしを取り囲み/さいなむ者が群がってわたしを囲み/獅子のようにわたしの手足を砕く。骨が数えられる程になったわたしのからだを/彼らはさらしものにして眺め/わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く。主よ、あなただけは/わたしを遠く離れないでください。わたしの力の神よ/今すぐにわたしを助けてください。わたしの魂を剣から救い出し/わたしの身を犬どもから救い出してください。獅子の口、雄牛の角からわたしを救い/わたしに答えてください。わたしは兄弟たちに御名を語り伝え/集会の中であなたを賛美します。主を恐れる人々よ、主を賛美せよ。ヤコブの子孫は皆、主に栄光を帰せよ。イスラエルの子孫は皆、主を恐れよ。主は貧しい人の苦しみを/決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく/助けを求める叫びを聞いてくださいます。それゆえ、わたしは大いなる集会で/あなたに賛美をささげ/神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。貧しい人は食べて満ち足り/主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように。地の果てまで/すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り/国々の民が御前にひれ伏しますように。王権は主にあり、主は国々を治められます。命に溢れてこの地に住む者はことごとく/主にひれ伏し/塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。わたしの魂は必ず命を得/子孫は神に仕え/主のことを来るべき代に語り伝え/成し遂げてくださった恵みの御業を/民の末に告げ知らせるでしょう。
マタイによる福音書によれば、イエス様は、十字架の上で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫ばれました(マタイ27:46)。イエス様は、十字架の上で、詩編22編を祈られたのです。詩編22編には、イエス様が十字架で苦しまれた様子が預言として記されています。詩編22編はメシアの詩編、イエス様の祈りであるのです。詩編22編は、苦しみの中で神の助けを祈り求める言葉と神様を賛美する言葉から成り立っています。23節から調子がガラッと変わるわけです。その23節の御言葉、「わたしは兄弟たちに御名を語り伝え/集会の中であなたを賛美します」を、ヘブライ人への手紙は、イエス様の御言葉として引用するのです。
では、今朝の御言葉に戻ります。新約の403頁です。
ヘブライ人への手紙が、「イエスは、彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、『わたしは、あなたの名を/わたしの兄弟たちに知らせ、集会の中であなたを賛美します』と言い」と記すとき、その背景に、イエス様が神から見捨てられる十字架の死を死んでくださったことがあります。イエス様は、私たちをご自分の兄弟とするために、人となってくださいました。そればかりか、私たちのために、人々から嘲られ、神から見捨てられる十字架の死を死んでくださったのです。ここで「集会」と訳されている言葉は、「教会」とも訳されるエクレーシアという言葉です。「わたしは、あなたの名を/わたしの兄弟たちに知らせ、教会の中であなたを賛美します」というイエス様の言葉は、イエス様を信じる私たちのうちに、実現しているのです。イエス様は、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と言われました(マタイ18:20)。私たちは、今、イエス様の御名によって集まっています。イエス様は目には見えませんが、御言葉と聖霊によって、私たちの只中にいてくださるのです。そのイエス様と共に、私たちはイエス様の弟として、あるいは妹として、父なる神様をほめたたえているのです。
続けて、ヘブライ人への手紙は、イエス様の言葉として、イザヤ書8章の御言葉を引用しています。「わたしは神に信頼します」、「ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます」。この2つは、イザヤ書8章に記されている御言葉であります。このところも開いてみたいと思います。旧約の1073頁です。イザヤ書8章16節から18節までをお読みします。
わたしは弟子たちと共に/証しの書を守り、教えを封じておこう。わたしは主を待ち望む。主は御顔をヤコブの家に隠しておられるが/なおわたしは、彼に望みをかける。見よ、わたしと、主がわたしにゆだねられた子らは、シオンの山に住まわれる万軍の主が与えられたイスラエルのしるしと奇跡である。
イスラエルの人々は、預言者イザヤの言葉に聞こうとはしませんでした。しかし、イザヤの言葉を神の言葉として聞いた者たちがおりました。それが、ここで、「わたしの弟子たち」と呼ばれている者たちです。イザヤは、自分の語った教えを、証しの書として封印します。それは、後の時代において、イザヤの語ったことが真実であると明らかになるためです。具体的に言うならば、イスラエルの国がアッシリア帝国に滅ぼされることによって、イザヤが語っていた言葉が真実であったことが証明されるのです。イザヤは、人々の不信仰の原因が、神様にあることを知っていました(イザヤ6:10)。主が御顔をヤコブの家に隠されているゆえに、イスラエルの人々は、イザヤの語る神の言葉を聞こうとしないのです。しかし、イザヤはそのような状況にあっても、主に信頼するのです。そして、自分の弟子たちを「主がわたしにゆだねられた子ら」と呼び、「万軍の主が与えられたイスラエルのしるしと奇跡」と呼ぶのです。このイザヤの言葉を、ヘブライ人への手紙は、イエス様の言葉として記すのです。それは、イザヤが置かれた状況と、イエス様の置かれた状況が同じであったからでありましょう。イスラエルの多くの人々は、イエス様の言葉を受け入れませんでした。そこに神の声を聞くことができなかったのです。そのことは今も同じです。イエス様の言葉を神の言葉として聞いている人は、少ないのです。しかし、イエス様は、「わたしは神に信頼します」と言われます。そして、「ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます」と言われるのです。二人または三人が、イエス様の名によって集まっている、この場所で、イエス様は、「ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます」と言われるのです。ここでの「子ら」は「イエス様の子ら」というよりも「神の子ら」であります。イエス様に弟、あるいは妹として与えられた「神の子ら」のことが言われているのです(ローマ8:29)。
今朝の御言葉において、ヘブライ人への手紙は、ダビデの言葉とイザヤの言葉を、イエス様の言葉として、しかも、今、私たちに語られているイエス様の言葉として引用しています。このことは、ダビデとイザヤを導かれたのが、イエス・キリストの霊であるからです。テモテへの手紙二によれば、「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ」ました(二テモテ3:16)。聖書が神の言葉であると言えるのは、聖書を記した人間が神の霊の導きのもとに記したからであるのです。そして、その神の霊は、御子キリストの霊でもあるのです。ペトロの手紙一の1章10節、11節に次のように記されています。新約の428頁です。
この救いについては、あなたがたに与えられる恵みのことをあらかじめ語った預言者たちも、探求し、注意深く調べました。預言者たちは、自分たちのうちにおられるキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光についてあらかじめ証しされた際、それがだれを、あるいは、どの時期を指すのか調べたのです。
ここに、預言者たちがキリストの霊によって導かれて聖書を記したことが記されています。イエス・キリストは、聖書の究極的な著者であるのです。それゆえ、ヘブライ人への手紙は、ダビデの言葉を、また、イザヤの言葉を、今、生きておられるイエスの言葉として記すことができたのです。私たちは、「聖書は神の言葉である」と信じておりますが、聖書はイエス・キリストの言葉でもあるのです。そのような信仰をもって、私たちは聖書を読み、今生きているイエス・キリストの御声を聞き取りたいと願います。