大いなる救い 2018年1月21日(日曜 朝の礼拝)

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大いなる救い

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヘブライ人への手紙 2章1節~9節

聖句のアイコン聖書の言葉

2:1 だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます。
2:2 もし、天使たちを通して語られた言葉が効力を発し、すべての違犯や不従順が当然な罰を受けたとするならば、
2:3 ましてわたしたちは、これほど大きな救いに対してむとんちゃくでいて、どうして罰を逃れることができましょう。この救いは、主が最初に語られ、それを聞いた人々によってわたしたちに確かなものとして示され、
2:4 更に神もまた、しるし、不思議な業、さまざまな奇跡、聖霊の賜物を御心に従って分け与えて、証ししておられます。
2:5 神は、わたしたちが語っている来るべき世界を、天使たちに従わせるようなことはなさらなかったのです。
2:6 ある個所で、次のようにはっきり証しされています。「あなたが心に留められる人間とは、何者なのか。また、あなたが顧みられる人の子とは、何者なのか。
2:7 あなたは彼を天使たちよりも、/わずかの間、低い者とされたが、/栄光と栄誉の冠を授け、
2:8 すべてのものを、その足の下に従わせられました。」「すべてのものを彼に従わせられた」と言われている以上、この方に従わないものは何も残っていないはずです。しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。
2:9 ただ、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。ヘブライ人への手紙 2章1節~9節

原稿のアイコンメッセージ

 ヘブライ人への手紙の特徴の一つは、神学的な教えと倫理的な勧告が交互に記されていることであります。今朝の御言葉、2章1節から4節は、最初の倫理的な勧告であります。前回、私たちは、御子は天使たちよりも優れた者であり、天使たちよりも優れた名を受け継がれたことを学びました。1章14節にありますように、「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされた」のです。天使たちは、御子イエスに仕えるだけではなく、御子イエスを信じて救いを受け継ぐ私たちに仕える霊でもあるのです。その教えを受けて、私たちがどのように生きるべきかが今朝の御言葉に記されているのです。

 2章1節から4節までをお読みします。

 だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わなければなりません。そうでないと、押し流されてしまいます。もし、天使たちを通して語られた言葉が効力を発し、すべての違反や不従順が当然な罰を受けたとするならば、ましてわたしたちはこれほど大きな救いに対してむとんちゃくでいて、どうして罰を逃れることができましょう。この救いは、主が最初に語られ、それを聞いた人々によってわたしたちに確かなものとして示され、更に神もまた、しるし、不思議な業、さまざまな奇跡、聖霊の賜物を御心に従って分け与えて、証ししておられます。

 御子は天使たちよりも優れた者である。だから、「わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わなければなりません」とヘブライ人への手紙の著者である説教者は記します。もし、わたしたちが聞いたことに注意を払わないならば、押し流されてしまうと説教者は警告するのです。なぜ、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばならないのでしょうか?それは、天使たちを通して語られた言葉が効力を発し、すべての違反や不従順が当然な罰を受けたのであれば、これほどの大いなる救いに無頓着でいる者は罰を免れることはできないからです。この「大いなる救い」は、神が御子を通して語られた良き知らせ、福音のことであります。ヘブライ人への手紙はギリシャ語を話すヘレニストのユダヤ人キリスト者に宛てて記された手紙であります。彼らは、律法が天使たちを通して与えられたと信じておりました。旧約と新約の間の時代、いわゆる中間時代の頃から、ユダヤ人は律法が天使を通して与えられたと信じられておりました(申命33:22LXX「彼の右の手には、御使いたちが共にいた」参照)。そのことは、初代教会においても同じであったのです。使徒言行録の7章に、ステファノの説教が記されておりますが、その最後でステファノは、最高法院の指導者たちの罪を次のように指摘しました。「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした」。ここでステファノは、イスラエルの民が「天使たちを通して律法を受けた」と言っています(使徒7:38も参照)。また、使徒パウロもガラテヤの信徒への手紙3章19節でこう記しています。「では、律法とはいったい何か。律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、違反を明らかにするために付け加えられたもので、天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものです」。このようにパウロも、神様が天使たちを通して律法を与えられたと記しています。律法は天使たちを通して与えられたものである。その律法に対する違反や不従順が当然の罰を受けたのであれば、御子を通して与えられた大いなる救いに無頓着であるなら、なおさら罰を免れることはできないのです。前回、私たちは、御子は天使たちよりも優れた者であること。御子は天使たちよりも優れた御子という名を受け継がれたことを学びました。そのことは、神様が天使たちによって与えられた律法よりも、神様が御子によって与えられた福音の方が優れていることを教えているのです。ですから、私たちは聞いたことにいっそう注意を払わねばならないのです。

 私たちが聞いた、大いなる救いは、主イエスが最初に語られたものであります。洗礼者ヨハネが捕らえられた後、イエス様はガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われました(マルコ1:14、15参照)。主イエス様が最初に御自分において到来した救いを宣べ伝えたのです。そして、その弟子たちも十字架の死から復活されたイエス様に遣わされて、救いを確かなものとして宣べ伝えてたのです。ヘブライ人への手紙の著者も、また、宛先である教会も、主イエスから直接、教えを受けたことはなかったようです。彼らは、それを聞いた人々、主の弟子たちによって確かなものとして示されたのです。また、この大いなる救いについては、神様もしるしや不思議な業、さまざまな奇跡、聖霊の賜物を御心に従って分け与えて、証ししておられます。「しるしや不思議な業、さまざまな奇跡」については、使徒言行録に記されています。そこには、イエス様の使徒であるペトロがイエス様と同じように、足の不自由な人を癒したこと、病人や汚れた霊に悩まされている人を癒したことが記されています。そのことによって神様は、使徒たちが宣べ伝えている救いが真実であることを証しされたのです。また、神様が聖霊の賜物を御心に従って分け与えられたことについては、コリントの信徒への手紙一の12章に記されています。そこには次のように記されています。「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるの同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。一人一人に霊の働きが現れるのは、全体の益となるためです。ある人には霊によって知恵の言葉、ある人には同じ霊によって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ霊によって信仰、ある人にはこの唯一の霊によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。これらすべてのことは、同じ唯一の霊の働きであって、霊は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです」。このように神様は、信徒たちに聖霊の賜物を御心のままに分け与えることによって、主イエスが最初に語られ、弟子たちが宣べ伝えた救いが確かなものであることを証しされたのです。

 主イエスが最初に語られ、使徒たちが宣べ伝え、更には神様が証ししておられる大いなる救いとは、一体何からの救いなのでしょうか?それはひと言で言えば、来たるべき主の裁きからの救いであります。ローマの信徒への手紙の1章18節に、「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます」と記されています。神は聖なる御方、正しい御方ですから、罪に対しては怒りを現されます。しかし、その神の怒りからイエス・キリストは私たちを救ってくださるのです。テサロニケの信徒への手紙一の1章10節にこう記されています。「更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来たるべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです」。私たちが聞いた大いなる救い、それは、主の日の裁きからの救い、来たるべき神の怒りからの救いであるのです。

 5節から9節までをお読みします。

 神は、わたしたちが語っている来たるべき世界を、天使たちに従わせるようなことはなさらなかったのです。ある箇所で、次のようにはっきり証しされています。「あなたが心に留められる人間とは、何者なのか。また、あなたが顧みられる人の子とは、何者なのか。あなたは彼を天使たちよりも、わずかの間、低い者とされたが、栄光と栄誉の冠を授け、すべてのものを、その足の下に従わせられました。」「すべてのものを彼に従わせられた」と言われている以上、この方に従わないものは何も残っていないはずです。しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。ただ、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。

 当時のユダヤ人たちは、この世界が天使たちに統治されていると考えておりました(ダニエル10:13参照)。しかし、説教者は、「神は、わたしたちが語っている来たるべき世界を、天使たちに従わせるようなことはなさらなかった」と記します。そして、詩編第8編を引用するのです。ヘブライ人への手紙は、ヘブライ語旧約聖書のギリシャ語訳である七十人訳聖書から引用しています。私たちが用いている新共同訳聖書は、ヘブライ語旧約聖書から翻訳していますので、少し翻訳が違います。実際に開いて読みたいと思います。旧約の840頁です。詩編第8編4節から9節までをお読みします。

 あなたの天を、あなたの指の業を/わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ/御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました。羊も、牛も、野の獣も/空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。

 この詩編は、創造主である神様をほめたたえる詩編です。創世記の1章26節で、神様はこう言われました。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう」。神様は、御自分に代わって世界を支配する者として、御自分のかたちに似せて人を造られたました。そのことを詩人は、「神に僅かに劣る者として人を造り、栄光と威光を冠としていただかせ」と表現しているのです。このように詩編第8編は、創造主である神様に造られた人間のことを歌っているのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の402頁です。

 詩人は、神のかたちに似せて造られた人間について記しておりました。しかし、ヘブライ人への手紙は、それを人の子であるイエス・キリストに当てはめて解釈いたします。イエス様は、御自分のことを「人の子」と言われました。説教者によれば、神様が心に留められる人間、神様が顧みられる人の子とは、イエス様であるのです。また、「あなたは彼を天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」という翻訳は、神の御子が人となり、苦難の生涯を歩まれたことを指しております。神の御子イエス・キリストは、わずかの間、天使たちよりも低い者となられました。しかし、神様はイエス・キリストを天へと上げられ、栄光と栄誉の冠を授け、すべてのものをその足の下に従わせられたのです(一コリント15:27参照)。

 しかし、そうは言っても、私たちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見てはおりません。イエス様は、十字架の死によって救いを成し遂げ、復活され、天へと上げられて、父なる神の右に座しておられます。すべてのものを、その足の下に従わせておられるのです。そうであれば、すべての人が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父なる神をほめたたえるはずであります。しかし、実際はそうなってはおらず、聖霊を与えられたイエス・キリストの民だけが、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父なる神をほめたたえているのです。それは、私たちが「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを信仰をもって見ているからです。11章1節に、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」とありますように、私たちはイエス様が死の苦しみのゆえに、栄光と栄誉の冠を授けられたのを信仰をもって見ているのです。

 イエス・キリストの死、それはすべての人のための死でありました。そして、そのイエス・キリストの死によってこそ、神の恵みが現されたのです。先程、私は、大いなる救いとは、主の日の裁きからの救い、来たるべき神の怒りからの救いであると申しました。なぜ、イエス・キリストは、私たちを神の怒りから救うことができるのでしょうか?それは、イエス・キリストが私たちの罪を担って、私たちに代わって神の怒りを受けてくださったからであります。イエス・キリストは私たちに代わって十字架にかかって死んでくださいました。イエス様は、十字架の上で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んで、死んでくださったのです(マルコ15:35参照)。それゆえ、イエス・キリストを信じる人は、神から見捨てられて死ぬことはないのです。神の恵みによってすべての人のために死んでくださったイエス・キリストを信じること。そこに、私たち人間の永遠の救いがかかっているのです。

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