教会の祈り 2006年11月19日(日曜 朝の礼拝)

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教会の祈り

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
使徒言行録 4章23節~31節

聖句のアイコン聖書の言葉

4:23 さて二人は、釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した。
4:24 これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った。「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です。
4:25 あなたの僕であり、また、わたしたちの父であるダビデの口を通し、あなたは聖霊によってこうお告げになりました。『なぜ、異邦人は騒ぎ立ち、/諸国の民はむなしいことを企てるのか。
4:26 地上の王たちはこぞって立ち上がり、/指導者たちは団結して、/主とそのメシアに逆らう。』
4:27 事実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らいました。
4:28 そして、実現するようにと御手と御心によってあらかじめ定められていたことを、すべて行ったのです。
4:29 主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。
4:30 どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」
4:31 祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。使徒言行録 4章23節~31節

原稿のアイコンメッセージ

「今後、あの名によって語ってはならない」

 これが最高法院の使徒たちへの宣告でありました。

 それに対しペトロとヨハネは、あなたがたに従うよりも、神に従うと。自分たちは見たことや聞いたことを語らずにはおれない、と答えます。使徒たちは、ユダヤの最高議会の公の警告を、はっきりと拒否したのです。21節を見ますと、「議員や他の者たちは、二人を更に脅してから釈放した。」とあります。指導者たちは、民衆がこの出来事について神を賛美していたので、民衆を恐れ、どう処罰してよいか分かりませんでした。それゆえ、更に脅し、重ねて警告した上で、二人を釈放したのでありました。

 二人は、釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちが言ったことを残らず話しました。ここで「仲間」と訳されている言葉は、直訳すると「自らのもの」となります。「自らのもの」とは、自分の家族などを指す言葉であります。それほど親しい間柄に、主イエスを信じる者たちはすでにあったのであります。その親しい仲間のもとへ二人は帰って行ったのです。二人は、祭司長たちや長老たちの言ったこと、自分たちがイエスの名によって今後語ったり、教えてはならないと禁じられたことを残らず話しました。そして、これを聞いた人々は心を一つにし、神に向かってこう祈ったのです。

 「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です。」 

 ここで、「主」と訳されている言葉は、専制君主をも表す言葉であります。奴隷に対する主人にだけ用いられる言葉なのです。29節に「あなたの僕たちが」とありますが、この僕は、まさに奴隷という言葉なのです。つまり、人々は、奴隷として「主よ」と神に呼びかけているのです。そして、その主は、「天と地と海と、その中にある全てのものを造り、治めたもう」、創造と摂理の主なのであります。彼らがはじめに告げているのは、自分たちは、人間の奴隷ではなくて、ただ神の奴隷であること。神が自分たちの上に絶対的な主権を持っていることであります。そして、その神こそがすべてのものを造り、治めたもう真の統治者であるということです。

 さらに、人々は続けてこう語ります。

 あなたの僕であり、また、わたしたちの父であるダビデの口を通し、あなたの聖霊によってこうお告げになりました。

  『なぜ、異邦人は騒ぎ立ち、

   諸国の民は空しいことを企てるのか。

   地上の王たちはこぞって立ち上がり、

   指導者たちは団結して、

   主とそのメシアに逆らう。』

 事実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らいました。そして、実現するようにと御手と御心によってあらかじめ定められたことを、すべて行ったのです。

 ここで、ダビデもイエス様も「僕」と呼ばれていますが、ここで「僕」と訳されている言葉は、自分の子供や寵愛している僕を表す言葉であります。先程、信者たちが、自らを「あなたの僕、奴隷」と語ったのに対し、ダビデやイエス様には、自分の子供や寵愛する僕を現す言葉が用いられているのです。つまり、ダビデもイエス様も神が特別に選び、お立てになった神の器、主の僕と言えるのです。なかでもイエス様は、「あなたが油注がれた聖なる僕」と言われていますように、神の御子であり、神の御心を完全に実現するために油注がれた救い主、メシアでありました。

 また、ここには、初代教会の聖書観がよく表れております。ダビデの言葉であっても、それは聖霊によってダビデの口を通して語られた神の言葉であるのです。それゆえ、その言葉は、今も生きて働く言葉、出来事となる言葉であるのです。

 ここで、引用されていますのは、詩編の第2篇であります。信者たちは、メシアであるイエスが十字架につけられたことによって、詩編の第2篇の言葉が成就したと語るのです。そして、それが意外なことではなく、むしろ神様の御手と御心によってあらかじめ定められていたことであると語るのです。ヘロデとポンティオ・ピラト、異邦人とイスラエルの民、この4者は、どれも異質な組み合わせであります。しかし、主とそのメシアに逆らうことにおいては一致したのでありました。王たちや指導者だけではない、民衆も一緒になって主とそのメシアに逆らった。また、異邦人だけではない、イスラエルの民も一緒に主とそのメシアに逆らったのでありました。まさに、全人類が神とそのメシアに逆らったのです。あるいはこうも言えます。イエス・キリストの十字架において、すべての人が神に敵対していることがあらわにされたのだと。そして、そのメシアへの敵意の連続線上に自分たちは立っている。その連続線上に、教会は指導者たちから脅しを受けていると理解してたのあります。

 「今後あの名によって語ってはならない」

 これは、ペトロとヨハネだけに関わる脅しではありません。なぜなら、イエス・キリストの証人となるようにと召されているのは、イエス・キリストを信じるすべての弟子たちであったからです。この脅しは、教会への脅しであり、教会が主から与えられた使命に対する脅しであったのです。

 もし、私たちがこのような脅しを受けたとしたら、どうでしょうか。私たちの仲間の二人が、警察に捕らえられ、「今後イエスの名によって語ってはならない。」「礼拝も伝道もしてはならない」と戻ってきたら、どうでしょうか。そのことを伝え聞いたとしたら、どうでしょうか。そのことを想像していただきたいと思います。

 ある人は、こう言うかも知れません。「言われた通り、しばらくは礼拝を休もう。伝道もしらばらくは止めておこう。」

 また、ある人は、こういうかも知れません。「神様に迫害をやめさせていただくように祈ろう」

 私たちが、そのような状況になったとき、どのような祈りをするのか。それは、実際にそのような状況になってみないと分かりません。ですから、今は、安易にその時のことを語るべきではないのかも知れません。しかし、私たちがそのような時、今朝の御言葉を思い出すことできれば幸いであると思います。

 初代教会の人々は、どうしたか。彼らは、権力者たちからの脅しを詩編第2篇の成就と見なし、天を王座とされる方にこう祈ったのです。

 主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。

 ここで、信者たちが祈っていることは、3つあります。1つは、「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め」てくださいという祈りです。信者たちは、迫害をやめさせてくださいとは祈りませんでした。なぜなら、それは詩編第2篇の成就として避けられないことであったからです。王たちや指導者たちがメシアを排斥したように、メシアの民も排斥されるのであります。イエス様もヨハネによる福音書の15章20節でこう仰せになりました。「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害するだろう。」

 ですから、信者たちが祈り求めたことは、彼らの脅しを止めさせることではなくて、主がその脅しに目を留められること、教会を迫害する者たちの手綱を主が握ってくださり、御手のうちに治めてくださることを彼らは祈り求めたのです。幼い子供は、親がそばにいて見守っていることが分かれば安心することができます。そのように、全てのものを造り、歴史を導いておられる主が、彼らの脅しに目を留めてくださっているならば、私たちの信仰を支える大きな力となるのです。

 また、この祈りは、当然の祈りであるとも言えます。なぜなら、教会への脅しは、他でもない主とそのメシアに逆らうことであったからです。教会は、主なる神とそのメシア、イエス・キリストのゆえに迫害されるとき、正当に神の守りを祈り求めることができるのであります。

 2つ目の祈りは、「あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。」という祈りであります。

 ここで信者たちは、指導者たちの脅しに屈することなく、むしろ、それに打ち勝つように、さらなる大胆さを祈り求めたのです。ここで「大胆に」と訳されている言葉は、元々は「遠慮なく自由に語ること」を意味します。人の顔色を気にせず、遠慮なく自由に語る。それが大胆に語るということです。「今後あの名によって語ってはならない」という指導者たちの脅しに対して、教会は、自由に語る大胆さを祈り求めたのであります。

 

 ここで、引用されている御言葉は、詩編第2篇のはじめの言葉、1節2節でありまして、詩編そのものはさらにこう続きます。

  天を王座とする方は笑い

  主は彼らを嘲り

  憤って、恐怖に落とし

  怒って、彼らに宣言される。

  「聖なる山シオンで

   わたしは自ら、王を即位させた。」

  

  主は定められたところに従ってわたしは述べよう。

  主はわたしに告げられた。

  「お前はわたしの子

   今日、わたしはお前を生んだ。

   求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし

   地の果てまで、お前の領土とする。

   お前は鉄の杖で彼らを打ち、

   陶工が器を砕くように砕く。」

 異邦人と民たち、王たちと指導者たちが結束して主とその油注がれたイエスに逆らうのに対し、神は、聖なる山シオンで、自ら王を即位させられたのです。そして、この王こそ、死者の中から復活し、天へと上げられたイエス・キリストであります。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と宣言されたように、主イエスは、王の王、主の主となられたのです。

 詩編2篇は、その最後をこう結んでおります。

 

  いかに幸いなことか

  主を避けどころとする人はすべて。

 主を避け所とする人、それこそ、聖なる僕イエスの名により頼む教会であります。神のしもべの群れである教会は、神の言葉を大胆に語る。この使命を果たすことを何より祈り求めたのであります。そして、それは、私たちが祈り求めるべきことでもあるのです。

 私たちは、神様を「主なる神」と呼びかけます。また、イエス様を主イエスと呼びます。しかし、そのとき、わたしはその神様のしもべだ、イエス様のしもべだとどれほど自覚しているでしょうか。おそらく、私を含めてさほど自覚していないのではないかなぁと思います。聖書は、いたるところで「聞くだけで終わるものではなく、聞いて行う者になりなさい」と命じておりますけども、もし、自分が神様のしもべ、奴隷であることを自覚するならば、そのように努めることは当然のことだと思います。

 初代教会が、指導者たちの脅しに屈することなく、むしろ大胆に神の御言葉を語ることができるようにと祈り求めたこと。それは自分たちが天地万物を造られた主の奴隷であることを、正しく自覚していたからでありました。

 3つ目の祈りは、「どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」という祈りであります。

 これは、大胆に御言葉を語ることと一組のことであります。なぜなら、イエスの御名によって、病人が癒されることは、イエスが今も生きて、力強く働いておられること証ししているからです。ペトロとヨハネは、イエスの名によって、足の不自由な一人の男を癒したがゆえに、捕らえられたわけでありますが、初代教会の人々は、それを聞いて臆することなく、さらに多くのしるしと不思議な業をイエスの名によって行わせてくださいと祈り求めたのでありました。

 祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語り出しました。主なる神は、教会の祈りに確かに応えてくださいました。ペトロとヨハネだけではない、皆が聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだしたのです。

 聖霊に満たされるとは、分かりやすく言い換えれば、イエス様によって救われた感謝と喜びに満たされるとも言えます。なぜなら、聖霊の一つの働きは、私たちに全てのことを教え、イエス様が話したことをことごとく思い起こさせることであるからです(ヨハネ14:26)。信者たちは、聖霊に満たされ、イエス様によって救われた感謝と喜びにあふれて、大胆に神の言葉を語り出したのです。私たちに当てはめて言えば、説教者だけではなくて、信徒一人一人が、聖霊に満たされて大胆に神の言葉を語り出したのであります。私たちは、主の日ごとに礼拝をささげ、そこで立てられている説教者を通して、神の言葉を聞いておりますけども、それは何のためなのでしょうか。自分の信仰を養うため、確かにそう言えますが、もっと言えば、自分も神の言葉を語る者となるためです。まだ、真の主を知らない家族や友人に、福音を宣べ伝えるためであります。皆さんの家族や友人に、福音を宣べ伝えることができるのは、おそらく、皆さんしかいないと思うのですね。私が語るよりも、すでに親しく、信頼関係のある皆さんが伝えたほうが、言葉というものは伝わるのであります。ですから、皆さんの隣人に、神様の言葉を伝えられるのは、皆さんしかいない、こう言えるわけです。そうであるならば、この祈りは、初代教会だけではない、私たち教会の祈りでもあります。私たちが、大胆に神の言葉を語ることができますように。大胆に神を賛美し、大胆に神を礼拝することができますように、このことを今朝、心を一つにして祈りたいと願います。

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