初代教会の姿 2006年9月24日(日曜 朝の礼拝)
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初代教会の姿
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使徒言行録 2章42節~47節
聖書の言葉
2:42 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。
2:43 すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。
2:44 信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、
2:45 財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。
2:46 そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、
2:47 神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。使徒言行録 2章42節~47節
メッセージ
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「兄弟たち、わたしたちはどうしたよいのですか」、そう尋ねる人々に、ペトロはこう言います。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。」このペトロの言葉を受け入れて、その日三千人ほどの人々が仲間に加えられたのでありました。三千人もの人々が、ナザレのイエスをキリストとして受け入れた。イエス・キリストを主と仰ぐ民となったのです。120人ほどであったキリストの群れに3000人ほどの人々が加えられた。これは、計算すると25倍もの人々が加えられたことになります。私たちの教会をおよそ30名とすれば、750人ほどの人々が加えられたことになります。イエス様は、かつてペトロに「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と仰せになりましたが、主イエスは、今ペトロに、網が破れんばかりの大漁を与えてくださったのです(ルカ5:6)。今朝の御言葉には、その人々がどのような生活を営んでいたのかが記されております。
42節をお読みいたします。
彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。
私たちが用いております新共同訳聖書は、43節から段落を分け、「信者の生活」と小見出しをつけておりますけども、内容的には、42節から「信者の生活」が描かれております。そして、この42節に記されていることが、初代教会の姿を最もよく表しているのです。ここに、初代教会の姿が簡潔に描かれているのです。ここで「熱心であった」と訳されている言葉は、「ゆるがないで忍耐強く続ける」、「専念する」とも訳すことができます。ですから、聖霊降臨によって生まれたキリストの教会は、次の4つのことに専念していたのです。それは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることでありました。
初代教会は、「使徒の教え」に熱心な教会でありました。使徒とは、遣わされた者という意味でありますが、ユダヤの社会において、遣わされた者は、その人を遣わした者自身であると考えられておりました。つまり、遣わされた者は、その人を遣わした者の全権を帯びる者として遣わされたのです。それゆえ、イエス様は72人の弟子を派遣するにあたってこう言われたのです。「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。」(ルカ10:16a)。このようにイエス様と使徒たちは一体的な関係にあったのです。ですから、使徒たちの教えに専念するとは、他でもないその使徒たちを遣わされたイエス・キリストの教えに専念することに他ならないのです。43節に、「使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていた」とありますが、これは、使徒たちを通して、天におられる主イエスが働いておられるということを教えています。かつて、イエス様は、12人を派遣するに当たって、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになったのでありますけども、それは今も有効であるのです。そして、このことは、その力と権能をお授けになった主イエスが、今も生きて働いていることを教えているのです。また、使徒たちが行った不思議な業としるしは、かつてペトロが引用したヨエル書の預言と対応しております。2章の19節に、「上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。」とありましたが、それが今、使徒たちの手によって実現しているのです。使徒たちが行っている多くの不思議な業としるしこそが、今が終わりの時であることを教えているのです。そして、それはイエスを主と呼び求めるならば誰でも救われる恵みの時でもあるのです。
現在は、使徒と呼べる者はおりませんし、不思議な業やしるしも止んでおります。しかしながら、初代教会は、使徒の教えを新約聖書というかたちで文書化し、保存いたしました。ですから、私たちも、新約聖書を通して使徒の教えに心を注ぐことができるのです。もちろん、聖書は、新約聖書だけではなくて、旧約聖書も合わせた66巻からなる1冊の聖書でありますが、初代教会は、使徒たちの教えに従って旧約聖書を読み解いたのでありました。つまり、旧約聖書を、イエス・キリストを証しする書物として読み、説き明かしたのであります。そして、現在も、主イエスは、御言葉の教師を立ててくださり、私たちが使徒たちの教えに専念できるようにしてくださっているのです。また、主イエス・キリストを信じる者を起こし、その信仰を支え、豊かに育むという仕方で、御自分が今も生きて働いておられることを証ししておられるのであります。
この人々は、罪赦され、聖霊を与えられた者たちでありますから、使徒たちの教えに熱心に耳を傾けたことは、むしろ当然のことかも知れません。イエス様はヨハネによる福音書の10章27節でこう仰せになっているからです。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。」
主イエスの民である教会が、何よりも心を注ぎましたのは、この主イエスの御言葉への集中でありました。そして、ここに、私たちが、何よりも説教を重んじる、その必然と理由があるのです。
また、初代教会は「相互の交わり」に熱心な教会でありました。ここで「相互の交わり」と訳されている言葉は、コイノニアという言葉です。初代教会は、コイノニア、交わりに専念していたのであります。このことも、教会に加えられた人々が、どのような者とされた人々かを思い起こせばよくお分かりいただけると思います。教会に加えられた者たちは、悔い改め、イエスの名によって洗礼を受け、罪赦され、聖霊を与えられた者たちでありました。悔い改めるとは、自らの罪を認めて、神へと立ち帰ることであります。事実、彼らは自分たちがイエスを十字架につけて殺したことを認めまして、そのイエスを今や、キリストと告白する者とされたのでありました。そのような人々が集まりますと、そこで一体何が起こるのか。そこには、コイノニア、交わりが生じたというのです。イエス・キリストの名によって与えられた罪の赦しは、神との交わりという垂直の関係だけではなくて、人との交わりという水平の関係を回復するのであります。私がはじめて教会に行ったときに、大変魅力的に思いましたのは、この主にある交わりでありました。世代越えて語り合う人々の姿に深い感銘を覚えたのであります。教会で語り合う人々の姿を見まして、ここには何かあると感じたのであります。交わりと聞きますと、何か内向きな感じを受ける方もいるかも知れません。けれども、イエス様の教えによれば、交わりは大きな伝道の手段でありました。イエス様はヨハネによる福音書13章34節で、弟子たちにこう仰せになりました。
あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。
イエス様は、「互いに愛し合うならば、あなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」と仰せになりました。互いに愛し合うこと、主にある交わりを深めること。それは、教会に与えられた大きな伝道の武器であるとも言えるのです。つまり、教会の交わりは、閉ざされた、閉鎖的な交わりではなくて、開かれた、開放的な交わりであるということであります。内向きな交わりではなくて、いつも外に開かれている交わりなのです。そして、この開放性の根拠が、39節のペトロの言葉の中にあるのです。そこでペトロはこう語っております。「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」
イエス・キリストにある罪の赦し、それは主が招いてくださる者になら誰にでも与えられている約束なのであります。ですから、教会の交わりは、必然的に、外向きになる、開放的となるのであります。
この交わりと訳されるコイノニアという言葉には、共にあずかる、共有するという意味もあります。教会における交わりは、何より主イエスの教えを共有することに、主イエスの聖霊を共有するところに、その基盤があります。主イエスの御言葉と主イエスの霊を共有することによって、教会の交わりは成り立つのです。初代教会においてこの共有は、経済的なことがらにまで及んでおりました。44節、45節には、「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおの必要に応じて、皆がそれを分け合った。」と記されています。これは、誤解のないように申し上げますが、財産の私有が禁じられていたのではありません。5章の4節で、ペトロがアナニアにこう言っている通りであります。「売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思い通りになったのではないか。」
ですから、ここで信者たちは、自発的に、自分の財産や持ち物を売り共有したのでありました。そして、それは貧しい人に直接分け与えたのではなくて、4章の36節にありますように、使徒たちの足下に置いて、使徒たちによって分配されたのでありました。この働きは、6章に入りますとステファノを初めとする執事たちに委ねられていくわけであります。ですから、ここで描かれているものは、理想的な共産主義というものではなくて、むしろユダヤの社会において行われていた救済措置である施しの徹底化と言えるのです。そして、その施しが自発的に、また喜びをもって為されたところに、注目すべき初代教会の姿があるのです。ある研究者は、この所についてこう言っています。この時、すべての者がザアカイになったのだと。ルカによる福音書の19章に出てくる、あのザアカイであります。ザアカイは、主イエスに出会いまして、立ち上がってこう申しました。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」
主イエスによって罪赦され、誰もがこのザアカイの喜びに包まれた。そして、その喜びは自発的に貧しい人々に施すという仕方で現れたというのです。
私たちは、主イエスを信じる信仰を共有し、同じ一つ霊、主イエスの聖霊を共有しております。そして、経済的にも、献金をささげるという仕方で、財産を共有していると言えるのです。この献金の運用の枠組みの中に、共助基金が設けられておりますけども、共助基金は、この初代教会の姿を映し出そうとするものであると言えるのです。
また、初代教会は「パンを裂くこと」に熱心な教会でありました。46節にも「家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心とをもって一緒に食事をし」とありますように、ここでの「パンを裂くこと」は、聖餐式と愛餐会が一つとなったものと考えられます。初代教会における聖餐式の記述は、コリントの信徒への手紙一の11章に詳しく記されておりますが、そこを読みましても、どうやら、聖餐式と愛餐会は一体的であったようです。現在、私たちは、礼拝の中で、聖餐式を執り行うのでありますが、初代教会は、愛餐会に先だって、パンを裂き、イエスの死を記念したのでありました。
先程、交わりとは共有することであると申し上げましたが、食卓を共にすることは、交わりの最たるものであります。福音書を見ますとイエス様が人々としばしば食卓を共にされる場面が描かれています。ですから、交わりと食卓を共に囲むことは切っても切れない関係にあると言えるのです。私たちの教会は、年に2回、クリスマスとイースターに祝会を行っております。これまで準備委員の方々がよい奉仕をしてくださいましたけども、これからの祝会は、執事会におんどを取ってもらいまして、準備をしていただくことになっております。長老たちの会議であります小会においてそのように要望しまして、執事会にも了解していただいております。そこで、小会がお願いしましたことは、ぜひ愛餐会形式で行っていただきたいということでありました。これは私の願いでもあったわけですが、それはですね、この初代教会の姿を私たちの教会において映し出したいと願うからであります。私たちも、初代教会が熱心であったことに熱心でありたい。初代教会が専念していたことに、専念したいと願うからであります。昨年、伝道開始25周年をお祝いしましたけども、あのような祝会を持つことができればと願っているのです。ぜひ、今から覚えていただいて、心も体も満たされるような豊かな祝会にしていきたいと願っています。
最後でありますが、初代教会は「祈ること」に熱心な教会でありました。祈りとは、「神に心を注ぎ出すこと」、「神との交わり」とも言うことができます。これは、教会に加えられた人々が、イエス・キリストにあって罪赦され、賜物として聖霊を与えられたことを考えるならば、当然のことと言えます。イエスの名によって罪赦されたのですから、大胆に、そして熱心に父なる神に祈りをささげることができたのです。私たちの教会でも、主の日の朝10時から、また火曜日と水曜日に、祈りの時を持っております。火曜日と水曜日の祈祷会では、フィリピの信徒への手紙から私がお話しをしています。大変よい学びができていると思います。もっと多くの方に聞いていただきたい、そしてもっと多くの方と祈りを共にしたいといつも願っております。もちろん、出席したくても出来ない方が多くおられると思いますけども、お時間のゆるす方は、ぜひ祈祷会に出席していただきたいと願うのであります。これを私個人の願いだけではなくて、主イエスの願いとして受けとめていただきたいと思うのです。そして、何より初代教会が祈りに熱心であったことを覚えていただきたいと思います。
これまで見てきたように、初代教会は、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心な教会でありました。そして、ここに、私たちが立ち帰るべき教会の姿がある。また、私たちが目指すべき教会の姿があるのです。そして、主イエスは、そのような群れに、日々仲間を加えて一つとしてくださったのでありました。教会が成長するとき、それはいつも「加えられる」のであります。41節にも「加えられた」とありますし、47節にも「加えられた」とあります。つまり、核となる人々がおりまして、そこに人々が加えられていくのであります。言い換えるならば、規範ともいうべき教会の姿がありまして、そこに人々が倣う者として取り込まれていくわけであります。そして、その核と言うべき、また規範と言うべき者たちが初代教会においては、12使徒たちであったわけです。私は思いますに、今、私たちに求められていることは、この核とも、規範とも言える者たちに私たちがなることではないかと思います。その核がしっかりしていれば、いくら大人数の人が加わったとしても、教会は教会として歩み続けていくことができるのです。けれども、その核、規範が揺らいでいるならば、もし、そこに多くの人々が加わったとしても、そこにキリストの教会は立たないのであります。
私たち教会の25年という歴史を振り返って見ても、そのことは明かであると思います。なぜ、この地に改革派の教会が建ったのか。それは、改革派信仰に立つ教会を建てようと決意した核となる人々がいたからであります。私たちの教会には、10年史と25年史という立派な記念誌がありますから、幸い当時の様子を文書を通して知ることができます。その10年史の中に「羽生栄光伝道所ができるまで」と題しての座談会の記録が記されております。それを読みますと、当時の生き生きとした様子が伝わってきます。今よりも、人数も、財政的にも小さな群れであったと思いますけども、そこには喜びと希望が溢れていると読むたびに思うのです。そして、ここに集う私たちは、実は、そこに加えられたわけでありますね。ですから、今、そこに加えられている私たち、羽生栄光教会をわたしの教会と言うことができる私たちは、もう一度、その原点に戻らなければいけないとこう思わされているのです。それは、もちろん、羽生栄光教会の姿にとどまらない、今朝共に読みました、聖霊降臨によって生まれた初代教会の姿にであります。
使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心な教会を私たちが目指し、その姿を映し出すとき、主イエスは、救われる者を日々仲間に加えてくださるのであります。主イエスが救われる人々を日々仲間に加え一つにしてくださる。それが、今朝、私たちが聞き取るべき主の約束の言葉であります。