ペトロの説教 2006年8月27日(日曜 朝の礼拝)
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ペトロの説教
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- 村田寿和 牧師
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使徒言行録 2章14節~21節
聖書の言葉
2:14 すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。
2:15 今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。
2:16 そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。
2:17 『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。
2:18 わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。
2:19 上では、天に不思議な業を、/下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。
2:20 主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。
2:21 主の名を呼び求める者は皆、救われる。』使徒言行録 2章14節~21節
メッセージ
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先程は、14節から36節までをお読みしていただきました。今朝は、その中でも、14節から21節までを中心にしてお話ししたいと思います。「ペトロの説教」を何度かに分けてお話ししたいと思っています。
五旬祭の日、弟子たちが一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響きました。そして炎の様な舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまると、弟子たちは聖霊に満たされ、他の国々の言葉で話しだしたのです。当時、エルサレムには、天下のあらゆる国から帰ってきた信心深いユダヤ人が住んでおりましたが、その人々は、弟子たちの語る言葉を聞いてあっけにとられてしまった。なぜなら、ガリラヤ人である弟子たちが、自分の故郷の言葉で、神の偉大な業を賛美していたからです。当時の全世界とも言えるあらゆる国の言葉で、弟子たちは神の偉大な御業を語っていたのです。この有様を見て、人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言いました。彼らは、弟子たちの上に起こった奇跡、その不思議な業の意味を知ろうとしたのです。しかしながら他方、「あの人たちは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者たちもいました。この人たちは、もしかしたら、エルサレムで生まれ育ったユダヤ人であって、弟子たちの話す言葉が分からなかったのかも知れません。彼らには、それが酔っぱらいがくだを巻いているようにしか聞こえなかった。あるいは、「あざけった」とありますから、弟子たちの上に起こった不思議なことにまったく関心がなかったのかもしれまぜん。同じ出来事を目の当たりにしながら、人々は全く違う反応をしているわけです。一方は、その意味するところを知ろうとする。しかし他方は、それを理解しようともせず、あざけったのであります。
ペトロは、このような人々に対して大胆に説教をいたします。14節。
すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。
ここで、ペトロは、ただ一人で、ペトロ個人として話し始めたのではありません。「ペトロは十一人と共に立って」とありますように、ペトロは12使徒を代表する者として、新しい神の民を代表する者として、声を張り上げ、話し始めたのです。また、ここで「話し始めた」と訳されている言葉は、4節で「話しだした」と訳されている言葉と同じであります。つまり、ペトロは、これから霊が語らせるままに話し始めるのです。弟子たちの上に臨み、不思議な業をなされた、あの聖霊が、ペトロを通して、その意味を説き明かされるのです。
以前に、啓示のお話しをいたしました。啓示とは「隠されていたものがあらわにされる」ということであります。その時、神様の啓示には、出来事啓示と言葉啓示の2つがあると申し上げました。さらには、出来事啓示と言葉啓示は一組、ペアで為されるということを申し上げました。ある出来事が起こると、続いてその出来事の説明、解説がなされるわけです。今朝の御言葉で言えば、弟子たちが聖霊を受けて、ほかの国々の言葉で神の偉大な御業を語りだした。これが出来事啓示であると言えます。そして、その出来事、その奇跡の意味を説き明かすのが、ペトロの説教、つまり言葉啓示であると言えるのです。ですから、ペトロの説教を通して、五旬祭の日に起こった出来事を理解しなければならないのです。聖霊は、ペトロの説教を通して、五旬祭の出来事の本当の意味を私たちに教えようとしているのです。
ペトロはこう話し始めました。
「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。」
ペトロは、「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち」と呼びかけています。これは真に射程の広い呼びかけであります。そこに集まっている人だけに限らずに、ユダヤ、エルサレムに住む全ての人たちに知っていただきたい。耳を傾けていただきたい。そのような強い思いがこのところに表れています。ペトロがまずしたこと。それは「あの人たちは新しいぶどう酒に酔っているのだ」という誤解を取り除くことでありました。ペトロは、今が朝の九時であるということを指摘し、そうではないと断言します。こんな朝早くから酔っぱらうものがいるか、ということであります。また、朝の九時は祈りの時間であり、敬虔なユダヤ人はその朝の祈りが終わるまでは食事を取らなかったと言います。ですから、彼らが酒に酔っているはずはないのです。それでは、弟子たちの上に一体何が起こったのか。ペトロは続けてこう申します。16節(-21節)。
そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。』
ここで、ペトロは、「この人たちは、酒に酔っているのではない。そうではなくて、預言者ヨエルを通して言われていたことがこの人たちの上に実現したのだ」と語っています。そして、ヨエル書の3章1節から5節までを引用するのです。ただし、ペトロがここで引用しているのは、旧約聖書のギリシャ語訳である七十人訳聖書からです。私たちが手にしている新共同訳聖書は、旧約聖書をヘブライ語の原典から翻訳しています。けれども、ここでペトロが引用したのは、当時広まっていたギリシャ語訳の旧約聖書、七十人訳聖書からであるのです。ですから、旧約聖書のヨエル書を開いて、見比べると少し異なります。例えば、ヨエル書の3章4節に「主の日、大いなる恐るべき日が来る前に」と記されています。けれども、使徒言行録の2章20節では、「主の偉大な輝かしい日が来る前に」と記されているのです。「恐るべき日」が「輝かしい日」となっていますが、それは、70人訳によれば「輝かしい日」と訳されているからなのです。
ペトロがヘブライ語聖書からではなくて、70人訳聖書から引用した。このことだけでもややこしいのでありますが、ペトロは、さらに言葉を付け加えております。ペトロの解釈が入り込んでしまっていると言った方が正しいかも知れません。ペトロは、聖霊の導きによって、かつてヨエルを通して語られた神の言葉を、今、生きている神の民に、生きた神の言葉として語り直しているのです。説教とはそういうものでありますね。かつて語られた言葉を、今生きている民に、生きた言葉として語る。それが説教であります。
今朝の週報に挟んであるものを見ていただきたいのですけども、明朝体で記されている言葉は、70人訳聖書の本文を表しています。ゴシック体で記されている言葉は、ペトロが付け加えて語った本文を表しています。わざわざこのようなものを作りましたのは、このペトロが付け加えた言葉を見ていくことによって、ペトロがこの言葉をどのように解釈しているかを理解できるのではないかと考えたからです。
ペトロは「神は言われる」と始めています。このことは、ヨエルが、主が用いられる器に過ぎず、その言葉は、神の言葉であることをはっきりと表しています。また、「わたしの霊」が他でもない神の霊、聖霊であることをはっきりと示しています。
続けてペトロは「終わりの時に」と語りました。これは、まったくの新しい付け加えではありません。70人訳聖書を見ますと、「その後」と記されております。おそらく、ペトロはこの「その後」という言葉をもっとはっきりと「終わりの時に」と言い換えたのだと思います。そして、ここで、ペトロは、主の霊が注がれる、聖霊降臨によって、終わりの時が来たことを告げているのです。
以前も申しましたけども、すべての人に聖霊が注がれて、すべての人が預言するようになるという期待は、古くはモーセの口を通して語られておりました。民数記の11章を見ますと、モーセばかりでなく、70人の長老にも、主の霊が注がれ、預言状態になったことが記されています。それを聞いて若い頃からモーセに従ってきたヌンの子ヨシュアは、「わが主モーセよ、やめさせてください」と申しました。けれども、モーセはこうたしなめるのです。「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」
旧約時代、主の霊は、神様からある特別な働きに召された人だけに授けられるものでありました。預言者はその最たるものであります。けれども、モーセは「主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよい」と言うのです。そして、ヨエルは、この願いが、終わりの日に実現することを預言したのであります。さらにペトロは、その預言が今、自分たちの上に実現しているのだ、と告げるのです。弟子たちがほかの国々の言葉で神の偉大な御業を語る、この奇跡は、ヨエルの預言の実現に他ならないと語るのです。そして、それゆえに、今は、終わりの時であると告げるのであります。
新約聖書の書簡などを読みますと、彼らが自分たちは終わりの時代に生きていると認識していたことが分かります(一コリント10:11、ヘブライ1:2、二テモテ3:1、ヤコブ5:3、一ヨハネ2:18)。自分たちは終わりの時代に生きている。こう彼らは考えておりました。けれども、なぜ、そのように言うことができるのか。それは、彼らが何よりも聖霊の時代に生かされていたからでありました。ヨエルの預言がこの自分に実現している。自分も主の霊を与えられている。よって、今は終わりの時だ。そう理解することができたのです。
ペトロは、18節で「わたしの」という言葉を付け加えています。新共同訳は「わたしの」という言葉を「しもべ」の前にしか記しておりませんけども、お配りしたものを見ると分かりますように、「はしため」の前にも記されています。これは、その前に記されている「あなたたちの息子」「あなたたちの娘」「あなたたちの若者」「あなたたちの老人」、この「あなたたちの」という言葉と対応するかたちになっているわけです。この18節に、「わたしの」という言葉がもしなかったらどうなるかと言いますと、これは、イスラエル民族に限られる預言となります。そして、ヘブライ語の聖書を見ますとそのように記してあるわけです。確かに、男と女という性別の違いなしに、また若者と老人という年齢の違いなしに、さらには、自由人と奴隷という社会的な身分の違いなしに主の霊は注がれるのでありますけども、それはユダヤ人という一民族のこととして預言されているわけであります。けれども、ペトロが18節で「わたしの僕」、「わたしのはしため」と記すことによって、ここで預言する息子たちや娘たちが、あるいは幻を見る若者たち、夢を見る老人たち、それがどのような者であるかが新しく捉え直されるわけであります。つまり、ここでの息子、娘、若者、老人、これらは、主の僕たち、主のはしためたちであるということであります。ですから、ここで、しもべやはしためを所有する「わたし」、また霊を注ぐ「わたし」は、イスラエルの神ヤハウェのことだけを指しているのではないということが分かります。ペトロが説教しているのは、信心深いユダヤ人たちに対してなのですから、もし、この「わたし」がイスラエルの神ヤハウェだけを指すならば、ペトロをはじめとする弟子たちだけが聖霊を注がれた説明にはならないわけですね。それこそ、神を畏れる全ての者に、イスラエルの民に聖霊は注がれてもよかったはずであります。しかし現実には、聖霊は、イエス・キリストの弟子たちの上にしか降らなかったわけです。こう考えてきますと、この「わたし」が他でもないイエス・キリストを指していることが分かるのです。ペトロは、22節以降で、詩編の第16篇を引用して、イエス様のご復活について説教しました。また詩編の第110篇を引用し、イエスの昇天の着座について説教いたしました。その33節でペトロはこう語っています。「それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。」
このペトロの言葉から遡りまして、今朝の御言葉を読みますと、主イエスが、御自分を信じる者たちに、男にも女にも、父から受けた聖霊を注いでくださった。そうペトロがヨエルの預言を理解し、解釈していることが分かるのです。聖霊は、主が遣わされたメシア、ナザレのイエスを通して与えられる。そのような仕方で、ヨエルの預言は成就したのであります。このことは、更に先の、38節のペトロの言葉を読めば、より明かとなります。説教を聞いて、「わたしたちはどうしたらよいのですか」と尋ねる人々に対して、ペトロはこう申しました。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」
ここで、ペトロは、悔い改めて、イエス・キリストの名によって洗礼を受けるならば、あなたがたも賜物として聖霊を与えられると教えております。イエス様を信じれば、あなたにも与えられるのだ、と言っているのです。この所から、再び18節のヨエルの預言を読み返しますと、この「わたしの霊を注ぐ」という約束が今も継続していることが分かるのです。今もです。今日、イエス・キリストを信じるならば、あなたにも聖霊は与えられるのです。
先程、17節の「終わりの時」について少しふれましたけども、そもそも、終わりの時(日々)とは、どういう時でしょうか。旧約聖書を読みますと、終わりの時とは、神が決定的にイスラエルの栄光を回復してくださるメシアの時代を意味しています。メシアとは元々「油注がれた者」を表す言葉でありました。イスラエルでは、王や祭司が就任するときに、油を注ぎました。また、預言者にも油が注がれたことが記されています(列王記上19:16)。この油は聖霊を表しておりました。「油注がれた者」、これは預言者、祭司、王のどれにも当てはまりますけども、後に人々は、これを神の決定的な救いをもたらす「救い主」をさす言葉として用いるようになりました。終わりの時に、神の決定的な救いをもたらしてくれる人物、それを救い主、メシアと呼ぶようになったのです。終わりの時代には、主なる神はメシアを遣わしてくださり、神の国を実現してくださる。そのような期待に当時の人々は生きていたのであります。
例えば、ルカによる福音書を見ますと、老人シメオンは主が遣わすメシアに会うまでは決して死なないとお告げを受けておりました。また、洗礼者ヨハネが活動を始めた3章15節を見ますと「民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。」と記されています。そして、第9章で、ペトロはイエス様を「あなたは神からのメシアです。」と告白いたします。さらに、イエス様が祭司長たちに捕らえられ、処刑されたのは、イエス様がメシアであり、神の子と主張したということであったのです。このように、ルカによる福音書を改めて読み直しますと、その底流には、主なる神がメシアを遣わしてくださり、自分たちを救ってくださるという期待がずーっと流れているわけです。そして、その期待の中で、今朝のペトロの説教jも語られているのであります。ペトロは、聖霊が注がれたこの時を、「終わりの時」であると告げました。それは、何より、この聖霊が、死からの復活によって、メシアであると認証されたイエス・キリストによって与えられたものだからです。人々が期待していたメシア、救い主は来てくださった。それはあなたがたが十字架につけて殺し、神が復活させてくださったナザレのイエスである。そのメシアの時代、神が救いをもたらしてくださった、その終わりの時代に今、自分たちは生きているのだ。このことをペトロは喜びをもって、説き明かしたのであります。今が、終わりの時代と言えるのは、メシアが来てくださったからです。メシアが来てくださって、その霊を注いでくださった。だから、今は終わりの時代であるとペトロは告げたのです。後に使徒パウロは、「今や、恵みの時、今こそ救いの日」と申しました(二コリント6:2)。終わりの時は、イエス・キリストがメシアとして支配してくださる。信じる者には誰にでも聖霊を与えてくださる。「恵みの時、救いの日」であるのです。ですから、誰も心をかたくなにせず、主イエスを信じることが求められているのであります。
20節に、「主の偉大な輝かしい日が来る前に」とあります。また21節には「主の名を呼び求める者は皆、救われる」と記されています。ここで、「主」と訳されている言葉は、ヘブライ語の聖書ですと神様の固有のお名前、「ヤハウェ」と記されています。ペトロがここで引用していますのは、ギリシャ語訳の旧約聖書ですから、このところには「キュリオス」という言葉が用いられています。そして、これをペトロは、イエスを指す言葉として用いているのです。なぜなら、この説教の結論である36節でペトロは大胆にこう結論しているからです。
「だから、イスラエルの全家は、はっきりと知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」
神はイエスを主とし、またメシアなされた。ですから、「主の偉大な輝かしい日」とはイエス様が大いなる力と栄光を帯びて雲にのって来られる日を指しています。イエス様が栄光の主として再び来てくださる再臨の日です。このことは、ルカによる福音書の21章で、イエス様が教えられた終末についての教えを思い起こすならば、よくお分かりいただけると思います。自分でまた21章を読み返してみてください。そうするとよい瞑想を得ることができると思います。
17節でペトロは、「終わりの時」という言葉を用いましたけども、これは「終わりの日々」とも約束ことができます。つまり、「終わりの時」とは、ある一定の期間を指しているわけです。けれども、20節は、これはその終わりの時の最後の日、まさに終わりの日を指しているのです。終わりの時と終わりの日を区別しなければなりません。私たちは、終わりの時に生きているのでありますけども、まだ終わりの日は来ていないわけであります。この20節の「太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる」という言葉は、ヨハネの黙示録6章12節にも引用されておりますから、この「主の偉大な輝かしい日」を主イエスの再臨の日と理解することは、正しいことと言えます。
また、21節の「主の名を呼び求める者は皆、救われる」、この言葉も、使徒パウロがローマの信徒への手紙の10章13節で引用しております。ローマの信徒への手紙10章9節から13節にはこう記されています。
口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。ユダヤ人とギリシャ人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。
「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」。これは、ペトロが引用したヨエルの預言の言葉であります。そして、ここでパウロが語っていることは、ペトロが語ったことと全く同じ内容であることが分かるのです。
このように、ペトロが引用しましたヨエルの預言は、ただ旧約聖書の言葉をそのまま持ってきたというよりも、イエス・キリストの復活の光の中で読み直されている、再解釈されていることが分かります。イエス様は、「聖書はわたしについて証する書物である」と仰せになりました(ヨハネ5:39、ルカ24:44)。その原則に従って、聖霊の導きのもとで、ヨエル書を読み直したときに、ペトロはこのように読み、語ることができたのです。
19節に、ペトロは「上では」という言葉と、「下では」という言葉、また「徴」という言葉を付け加えました。70人訳聖書では、「天と地に不思議な業を示そう」と記されていたものを、「上には天に」「下には地に」と語ったのです。これによって、天と地が開け、空間ができるわけですね。天と地がくっついているのではなくて、上には天、下には地ということによって、その真ん中に空間が広がったわけであります。このことは時間においても言えます。終わりの時は来たのでありますが、まだイエス様の再臨、終わりの日は来ていないわけです。時間的には広がりがあるわけです。その空間と時間の広がりの中で、主の霊を注がれた者たちは、何をするのか。18節の最後に、ペトロは「すると、彼らは預言する」と付け加えました。その前の節の、幻や夢を見ること、これはどちらも預言するために神様が用いられる手段であります。ですから、ここで言われていることは、若者も老人も預言するということであります(民12:6)。そのことを、ペトロはもう一度強調しているわけです。主イエスの霊を注がれた者は、預言するようになる。主イエスの名を呼び求める者は誰でも救われる。この喜ばしい知らせを語り伝える者となるというのです。事実、主イエスとの関係を三度否定したペトロ自身が、大胆に福音を宣べ伝える者に変えられたのです。
後に使徒パウロは「わたしは信じた。それで語った」と申しました(二コリント4:13)。主イエスを信じ、聖霊をいただいた者は、主の御業を語るようになる。ペンテコステの日に、弟子たちに起こった不思議な出来事が指し示すことは、その真理であります。ここに集う私たちも、主イエスから聖霊をいただいている者たちであります。私たちも、イエス・キリストこそ主であり、この方にこそ救いがあることを大胆に語り続けていきたいと願います。