イエスの昇天 2006年8月06日(日曜 朝の礼拝)

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イエスの昇天

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
使徒言行録 1章6節~11節

聖句のアイコン聖書の言葉

1:6 さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。
1:7 イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。
1:8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
1:9 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。
1:10 イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、
1:11 言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」使徒言行録 1章6節~11節

原稿のアイコンメッセージ

 十字架につき給うイエス・キリストは、死から3日目に復活し、40日にわたって使徒たちに現れ、神の国について教え、食事を共にされました。今朝の御言葉には、そのイエス様が、いよいよ父なる神の御許へとお帰りになる。イエス様が天へと上げられる場面が描かれています。

 6節をお読みいたします。

 さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。

 イエス様は、前回学んだ5節で、「あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられる」と仰せになりました。そして、事実、五旬祭の日、聖霊は弟子たちの上に降ったのであります。その後ペトロは、これこそ、預言者ヨエルを通して言われていたことであると堂々たる説教をいたします。2章16節から17節にはこう記されています。

 「これこそ、預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。』」

 ここで、「終わりの時」とありますように、聖霊、神の霊が与えられるということは、終わりの時のしるしでありました。ですから、イエス様から、「あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられる」と聞いたとき、使徒たちは、とうとう終わりの時を迎えたと考えたのだと思います。その終わりの時に起こることは一体何か。それは、イスラエルの国が建て直されることでありました。イスラエルが再び栄光を取り戻すことであったのです。アモス書の9章11節には、このような預言が記されています(旧1441頁)。

 その日には/わたしはダビデの倒れた仮庵を復興し/その破れを修復し、廃墟を復興して/昔の日のように建て直す。

 このように、アモスは預言しておりましたから、使徒たちが、イエス様が、イスラエルの国を立て直してくださると期待したのは、あながち的はずれとは言えません。このような期待は、実はイエス様が復活される以前からありました。ルカによる福音書の19章11節には、イエス様がエルサレムに近づいておられたので、人々は神の国はすぐにでも現れるものと思っていたと記されています。ダビデの子と噂されるイエス様が、エルサレムで王として君臨されるのではないか。そして、イスラエルをローマ帝国の支配から解放し、神の支配を打ち立ててくださるのではないか。そう人々は期待していたのです。この期待は、イエス様の弟子たちにもありました。ルカによる福音書24章21節です。エマオの村へ向かう二人の弟子は、暗い顔をしてこう言っています。21節。「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。」

 この弟子たちの望みも、イスラエルがローマ帝国の支配から解放されることであります。神の民と自認するイスラエルの人々にとって、神の掟を知らない異邦人の支配されることは、耐えられないことでありました。イスラエルを治めるのは、ただ主なる神であるべきだと多くの人々は考えていたのです。

 そのような期待の中にあって、イエス様が十字架の死からよみがえってくださったのです。ですから、使徒たちが「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねたのは、当然と言えば当然でありました。ここでの「国」と訳されている言葉は、「王国」という言葉です。つまり、「よみがえられたイエス様が、王として君臨してくださり、イスラエルのために王国を再興してくださるのは、この時ですか」と使徒たちは尋ねたのです。使徒たちは主の晩餐の席において、「あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」と約束されていました。ですから、彼らは、イエス様が王様となって、いまこそ、その約束を実現してくださるのではないか、そのように期待していたのかもしれません。しかしながら、イエス様はこう仰せになります。

 「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

 イエス様はここで、イスラエルのために国を建て直すことについてはお語りになっていません。けれども、その時についてはお答えになっています。そして、それは、「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期については、あなたがたの知るところではない」というものでありました。その時や時期は、神様が権威をもって定めることであり、私たち人間があずかり知ることのできない神秘であるというのです。

 細かいことを言うようですが、元の言葉を見ますと7節と8節の間に、「しかし」という逆接の接続詞が記されています。新共同訳聖書はそれを省いておりますが、私は、7節と8節の間にちゃんと「しかし」と記した方がよいと思っております。そうすると、7節と8節の対応関係がはっきりしてきますし、イエス様のお言葉にメリハリがでてきます。つまり、イエス様は、「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。しかし、あなたがたは間もなく聖霊を与えられるのだ」と言っているのです。イエス様は、いつ実現するかわからない事柄よりも、間もなく実現する神の約束に使徒たちの目を向けさせようとしているのであります。そして、その約束は、使徒たちを新たな使命へと送りだすのです。「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」というのであります。これは、イエス様によって示された一大展望図であります。エルサレムから始まる福音宣教は、ユダヤ全土へと広がり、仲たがいしていたサマリアにも広がっていくのです。そればかりか、主なる神のことを知らない異邦人にまで福音が宣べ伝えられ、キリストの証人となるというのであります。

 キリストの証人となるということ。それは、主なる神が、イエス・キリストにおいて成就してくださった救いの出来事の証人となるということです。そして、この主なる神の証人となるということは、イスラエルの大切な使命でもありました。イザヤ書の43章9節から12節にはこう記されています。旧約の1131頁です。

 国々を一堂に集わせ、すべての民を集めよ。彼らの中に、このことを告げ/初めからのことを聞かせる者があろうか。自分たちの証人を立て、正しさを示し/聞く者に、その通りだ、と言わせうる者があろうか。わたしの証人はあなたたち/わたしが選んだわたしの僕だ、と主は言われる。あなたたちはわたしを知り、信じ理解するであろう/わたしこそ主、わたしの前に神は造られず/わたしの後にも存在しないことを。わたし、わたしが主である。わたしのほかに救い主はない。わたしはあらかじめ告げ、そして救いを与え/あなたたちに、ほかに神はないことを知らせた。あなたたちがわたしの証人である、と主は言われる。

 バアルやアシュトレトなど、多くの神々が信じられていた世界にあって、イスラエルは、主なる神だけがまことの神であることを証する証人として選ばれたのでありました。真の神、天地を造られた神は、アブラハム、イサク、ヤコブの神である。自分たちを奴隷の国エジプトから導き出した神こそが、唯一の真の神である。そのことをイスラエルは、ただ主なる神だけを礼拝するという仕方で、証しするように期待されていたのです。そのような主の証人がエルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリア、さらには地の果てに至るところからも起こされるとイエス様は仰せになられたのです。これは、言い換えれば、エルサレムやユダヤといった、国家、民族としての枠組みを越えて、全世界から、主の証人、イスラエルが起こされるということであります。私は、先程、イエス様は、「イスラエルの国の再興については何も言われなかった」と申しました。けれども、主なる神の証人、イエス・キリストの証人としてのイスラエルについてはちゃんとお答えになっているのです。使徒たちは、イスラエルを、ユダヤ民族からなる地上国家としてのイスラエルとして、語っているのでありましょうけども、イエス様の思い描くイスラエルは、どうもそのようなイスラエルではないようであります。イエス様の思い描くイスラエル、それは国家や民族という枠組を越えて、全世界へと広がっていく、あらゆる民族からなる信仰共同体としてのイスラエルであるのです。

 「地の果てにいたるまで、わたしの証人となる」ということ、それは主なる神がイエス・キリストにおいて実現してくださった救いに、全世界の人々があずかるようになるということです。全世界の人々が、イエス・キリストを通して、主なる神を礼拝するようになるということであります。間もなく与えられる聖霊は、それほどの力を弟子たちに与えてくださるのです。

 9節をお読みいたします。

 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。

 イエス様は、天へと上げられ、雲に覆われて彼らの目から見えなくなりました。ここでの「雲」は神の栄光と臨在を表すものであります(民数記9:15-23、列王上8:10、11)。ただ、イエス様が天に上げられたので、雲に隠れて見えなくなったということではなくて、天に上げられたイエス様は神の御臨在される栄光の場へと迎え入れられたということです。口語訳聖書は、このところを「雲に迎えられてその姿が見えなくなった」と訳しています。イエス様は、高く栄光のうちに上げられたのです。そして、これは、イザヤ書52章13節の預言の成就でもありました。イザヤ書52章13節は、「主の僕の苦難と死」の預言の最初の言葉でありますが、こう記されています。「見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる」。

 また、フィリピの信徒への手紙2章6節から11節にはこう記されています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです」。

 イエス様は、苦難と死を通して、今や高く上げられ、あがめられる主となられたのであります。

 イエス様が父なる神のおられる天へと上げられたこと。それは、父が約束されていた聖霊を弟子たちのもとに送るためでありました。ヨハネによる福音書16章7節で、イエス様ははっきりとこう仰せになっています。「しかし、実を言うとと、わたしが去っていくのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」

 イエス様は、聖霊を送るために、それによって、全世界の人々を、御自分の証人とするために、弟子たちの見ている目の前で高く天へと上げられたのであります。

 イエス様が離れ去って行かれるとき、使徒たちは天を見つめて立っていました。すると、白い服を着た二人の人がそばに立ってこういうのです。

 「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」

 おそらく、使徒たちは、天へと上げらたイエス様が見えなくなっても、空を仰ぎ続けていたのでしょう。イエス様が天へと上げられてしまった。このことは、弟子たちにとって悲しいことでありました。これからどうすればいいのかと途方にくれた者もいたかも知れません。彼らはぽかんと口をあけて、天を見上げていたわけです。けれども、そこに二人の白い服を着た天使が現れ、弟子たちが、これからなすべきことを思い起こさせるのです。天を見上げて、イエス様を懐かしむことが自分たちのすべきことではない。自分たちのすべきこと。それは主イエスの証人となることではないか。そのことに、使徒たちは気づかされるのです。そして、ここに、一つのまことに喜ばしい約束が語られるのです。それは、「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」という約束でありました。イエス様との別れ、それは永遠の別れではなくて、必ず再びお会いすることのできるしばしの別れなのです。イエス様が天に上げられたこと。それは、方向としては逆になりますけども、再びイエス様が天から来られることを教えているのです。ここに、わざわざイエス様が、弟子たちの見ている前で、天に上げられ、神の臨在の象徴である雲に覆われて見えなくなるという仕方で、離れていった理由があります。栄光の体に復活されたイエス様は、もはや空間にとらわれないお方でありますから、弟子たちの前で、パッと姿を消すこともできたはずであります。けれども、そのようにはしないで、わざわざ、弟子たちの見ている前で、天に上げられ、雲に迎え入れられるという仕方で離れて行ったのはなぜか。それは、イエス様が確かに、天に昇られたということ。また、そのイエス様が再び、地上に来て下さるということを使徒たちに教えるためであったのです。イエス様は、ルカによる福音書の19章で「ムナのたとえ」をお話しになりました。そのたとえ話にあったように、立派な家柄の人が王の位を受けて帰るためには、遠い国へと旅立たなければならないのです。使徒たちはイエス様が王となって、イスラエルの国を再興してくださることを期待しておりましたけども、それは、このムナのたとえによれば、イエス様が天から帰ってこられるその日に実現することであるのです。そして、それは民族を越えたイエス・キリストを信じるものたちからなる新しいイスラエルなのです(ガラ6:16)。

 また、ルカによる福音書の21章で、イエス様は終末、世の終わりについて教えられました。その終わりの日について、イエス様はこう仰せになっています。21章27節。「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。」

 ここでも、「雲」という言葉が記されています。雲は神の栄光と臨在を表すものですから、雲に乗って来るとは、神様の御栄光に包まれてやって来るということです。イエス様は、御自分が、大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って、再びこの地上においでになると仰せになりました。神の御子イエス・キリストは、今から2000年ほど前に、処女マリアから貧しい姿でお生まれになりましたけども、今度、来られる時は、大いなる力と栄光を帯びる栄光の主としておいでになるのです。

 イエス様が、再び来てくださる。この約束のうちに、使徒たちは喜びに溢れたのであります。私たちの信じているイエス・キリストは、今おられ、かつておられ、やがて来られるお方であるのです。イエス様は、地の果てに至るまで、わたしの証人となると使徒たちに言われました。そして、この約束は今、現実のものとなっているのです。極東と言われます、この日本においても、イエス様は御自分の証人を立ててくださいました。それは、他でもない、ここに集う私たちであります。その私たちがなすべきこと。それは、イエス様がいつ来るのかと空を見上げ、待ち続けることではありません。私たちがなすべきこと。それは、イエス様がいつ来られてもいいように、キリストの証人としての務めを誠実に果たして行くことであります。主の日ごとの礼拝を通して、私たちは、この羽生の地で、キリストの証人となるのです。

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