新しい心、新しい霊 2018年5月20日(日曜 朝の礼拝)

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新しい心、新しい霊

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
エゼキエル書 36章16節~32節

聖句のアイコン聖書の言葉

36:16 主の言葉がわたしに臨んだ。
36:17 「人の子よ、イスラエルの家は自分の土地に住んでいたとき、それを自分の歩みと行いによって汚した。その歩みは、わたしの前で生理中の女の汚れのようであった。
36:18 それゆえ、わたしは憤りを彼らの上に注いだ。彼らが地の上に血を流し、偶像によってそれを汚したからである。
36:19 わたしは彼らを国々の中に散らし、諸国に追いやり、その歩みと行いに応じて裁いた。
36:20 彼らはその行く先の国々に行って、わが聖なる名を汚した。事実、人々は彼らについて、『これは主の民だ、彼らは自分の土地から追われて来たのだ』と言った。
36:21 そこでわたしは、イスラエルの家がその行った先の国々で汚したわが聖なる名を惜しんだ。
36:22 それゆえ、イスラエルの家に言いなさい。主なる神はこう言われる。イスラエルの家よ、わたしはお前たちのためではなく、お前たちが行った先の国々で汚したわが聖なる名のために行う。
36:23 わたしは、お前たちが国々で汚したため、彼らの間で汚されたわが大いなる名を聖なるものとする。わたしが彼らの目の前で、お前たちを通して聖なるものとされるとき、諸国民は、わたしが主であることを知るようになる、と主なる神は言われる。
36:24 わたしはお前たちを国々の間から取り、すべての地から集め、お前たちの土地に導き入れる。
36:25 わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。
36:26 わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。
36:27 また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。
36:28 お前たちは、わたしが先祖に与えた地に住むようになる。お前たちはわたしの民となりわたしはお前たちの神となる。
36:29 わたしはお前たちを、すべての汚れから救う。わたしは穀物に呼びかけ、それを増やし、お前たちに飢えを送ることはしない。
36:30 わたしが木の実と畑の作物を豊かにするので、二度と飢饉のために、国々の間で恥をこうむることはない。
36:31 そのとき、お前たちは自分の悪い歩み、善くない行いを思い起こし、罪と忌まわしいことのゆえに、自分自身を嫌悪する。
36:32 わたしがこれを行うのは、お前たちのためではないことを知れ、と主なる神は言われる。イスラエルの家よ、恥じるがよい。自分の歩みを恥ずかしく思え。エゼキエル書 36章16節~32節

原稿のアイコンメッセージ

序 

 今朝は、聖霊の降臨を記念するペンテコステの礼拝であります。ペンテコステとは、ギリシャ語の序数で「50番目の」という意味です。イエス・キリストが十字架につけられた過越の祭りから50日目に行われた五旬祭の日、約束の聖霊は、イエス・キリストの弟子たちに与えられました。そのことを覚えて、今朝は、エゼキエル書から御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 エゼキエルは、紀元前6世紀に、捕囚の地バビロンで活動した預言者であります。エゼキエルは祭司の子でありましたが、捕囚の地バビロンで、神様から預言者として召されました。エゼキエルは、バビロンにいるイスラエルの民に、神の言葉を語る預言者として召されたのです。

1.わが聖なる名のために

 36章16節から24節までをお読みします。

 主の言葉がわたしに臨んだ。「人の子よ、イスラエルの家は自分の土地に住んでいたとき、それを自分の歩みと行いによって汚した。その歩みは、わたしの前で生理中の女の汚れのようであった。それゆえ、わたしは憤りを彼らの上に注いだ。彼らが地の上に血を流し、偶像によってそれを汚したからである。わたしは彼らの国々の中に散らし、諸国に追いやり、その歩みと行いに応じて裁いた。彼らはその行く先の国々に行って、わが聖なる名を汚した。事実、人々は彼らについて、『これは主の民だ、彼らは自分の土地から追われて来たのだ』と言った。そこでわたしは、イスラエルの家がその行った先の国々で汚したわが聖なる名を惜しんだ。

 それゆえ、イスラエルの家に言いなさい。主なる神はこう言われる。イスラエルの家よ、わたしはお前たちのためではなく、お前たちが行った先の国々で汚したわが聖なる名のために行う。わたしは、お前たちが国々で汚したため、彼らの間で汚されたわが大いなる名を聖なるものとする。わたしが彼らの目の前で、お前たちを通して聖なるものとされるとき、諸国民は、わたしが主であることを知るようになる、と主なる神は言われる。わたしはお前たちを国々の間から取り、すべての地から集め、お前たちの土地に導き入れる。

 イスラエルは、バビロン帝国によって滅ぼされたのですが、それは主の裁きによるものでありました。イスラエルの民がカナンの地から追放され、バビロンの地へと連れて来られたのは、彼らが神様との契約を守らずに、殺戮と偶像崇拝の罪を犯したからであるのです。バビロンの人々は、バビロンの神々がイスラエルの神に勝利したと考えました。しかし実は、主なる神がバビロン帝国を用いて、イスラエルの民を裁かれたのです。神様とその民イスラエルの契約の書である申命記の28章に「神の祝福」と「神の呪い」が記されています。主の御声に聞き従うならば、このように祝福される。しかし、主の御声に聞き従わないなら、このように呪われると記されているのです。その呪いの一つとして、次のように記されています。「主は遠くの地の果てから一つの国民を、その言葉を聞いたこともない国民を、鷲が飛びかかるようにあなたに差し向けられる」(申命28:49)。また、次のようにも記されています。「あなたたちは、あなたたちが入って得る土地から引き抜かれる。主は地の果てから果てに至るまで、すべての民の間にあなたを散らされる」(申命28:63、64)。ユダ王国の都エルサレムがバビロン帝国によって滅ぼされたこと。そして、イスラエルの民が、バビロン帝国に囚人として連れて来られたことは、彼らが主の御声に聞き従わず、その戒めと掟に背いたからであったのです。しかし、イスラエルの民が散らされた諸国の人々は、そのようには考えませんでした。彼らは、イスラエルの神は、自分の民を自分の土地に住まわせることのできない無力な神であると考えたのです。20節に、諸国の人々が、イスラエルの民について、「これは主の民だ、彼らは自分の土地から追われて来たのだ」と言ったとあります。この言葉の意味するところは、「イスラエルの神である主は、自分の民を自分の土地に住まわせることのできない無力な神である」ということです。このような言葉は、天地万物を造られた、生ける唯一のまことの神である主にとって、耐えられないものでありました。それゆえ神様は、御自分の聖なる御名のために、イスラエルの民を、もう一度カナンの土地に導き入れると言われるのです。そのことによって、御自分がイスラエルと共におられる神、主であることを示されると言われるのです。しかも、イスラエルの民に、御自分の霊を与えて、御自分の掟に従って歩むことができるようにすると言われるのであります。

2 新しい心、新しい霊

 25節から28節までをお読みします。

 わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。お前たちは、わたしが先祖に与えた地に住むようになる。お前たちはわたしの民となりわたしはお前たちの神となる。

 ここに記されている御言葉は、エレミヤ書31章に記されている「新しい契約」と合わせて記憶すべき御言葉であります。エレミヤは、エルサレムが陥落する直前に、エルサレムに住むイスラエルの人々に、新しい契約を結ぶ日が来ると預言しました。他方、エゼキエルは、エルサレムが陥落した後に、神様が、イスラエルの民に、御自分の霊を与えられると預言するのです。神様は、「わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる」と言われます。それは、エルサレムの陥落によって、生まれながらの人間は、神様の掟に従って歩めないことが、明らかとなったからです。人間は若いとき、自分は何でもできるかのように考えます。それは若者の特権でありますが、しかし、年を重ねていきますとできないことがあることを悟ります。イスラエルの民の歩みもそれと似ているところがあると思います。イスラエルの人々は、モーセによって、エジプトの奴隷状態から導き出され、シナイ山で神様と契約を結び、神の民とされました。主はイスラエルの民にこう言われました。「今、もしわたしの声に聞き従い/わたしの契約を守るならば/あなたたちはすべての民の間にあって/わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって/祭司の王国、聖なる国民となる」(出エジプト19:5、6)。その主の御言葉を聞いて、イスラエルの民は皆、一斉に、「わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います」と言ったのです(出エジプト19:8)。また、ヨシュアによって導かれ、約束の地カナンに入るときも、イスラエルの民は、「わたしたちの神、主にわたしたちは仕え、その声に聞き従います」と言ったのです(ヨシュア24:24)。しかし、彼らはカナンに入ると、その土地の偽りの神々を礼拝して、その土地を汚してしまったのです。若い頃、イスラエルの民は、自分たちが主の御声に従うことができると考えていました。しかし、年を重ねて分かったことは、自分たちが主の御声に従うことができないということであったのです。その結末が、バビロン帝国によって国を滅ぼされ、捕囚にされるということであったのです。イスラエルの民が、もう一度カナンの地に導き入れられても、神様によって新しい心と新しい霊を与えれないならば、またいつか、他の国によって滅ぼされ、諸国に散らされるだけです。しかし、そのようなことがないように、神様は、イスラエルの民に、御自分の霊を与えられるのです。そのようにして、イスラエルの民を、神様の掟に従って歩むことができるようにしてくださるのです。

3 すべての汚れから救う

 29節から32節までをお読みします。

 わたしはお前たちを、すべての汚れから救う。わたしは穀物に呼びかけ、それを増やし、お前たちは飢えを送ることはしない。わたしが木の実と畑の作物を豊かにするので、二度と飢饉のために、国々の間で恥をこうむることはない。そのとき、お前たちは自分の悪い歩み、善くない行いを思い起こし、罪と忌まわしいことのゆえに、自分自身を嫌悪する。わたしがこれを行うのは、お前たちのためではないことを知れ、と主なる神は言われる。イスラエルの家よ、恥じるがよい。自分の歩みを恥ずかしく思え。

 神様が、「わたしはお前たちを、すべての汚れから救う」と言われるとき、その汚れの最たるものは、神ではないものを神として崇める偶像崇拝の罪であります。イスラエルの民は神様の霊を与えられ、まことの神様を知ることによって、偶像崇拝の罪から清められるのです。神様はイスラエルの民を再びカナンの地に導き入れてくださるだけではなく、木の実と作物を豊かにしてくださいます。しかし、それはイスラエルの民のためではなく、御自分の聖なる名のためであるのです。イスラエルの民は、カナンの地に再び戻り、豊かな作物を刈り取るとき、どのような思いを抱くのでしょうか?「私たちは神様の御声に従ったから、このように祝福されたのだ」と考えるでしょうか?そうではないと神様は言われます。「そのとき、お前たちは自分の悪い歩み、善くない行いを思い起こし、罪と忌まわしいことのゆえに、自分自身を嫌悪する」と言うのです。イスラエルの民は、神様との契約によれば、滅ぼされて当然でありました。しかし、神様は、イスラエルの民に御自分の霊を与え、カナンの地へ導き、祝福されると言われるのです。そのような神様の祝福の中で、その祝福にふさわしくない自分たちであったことを思い起こし、自分自身を嫌悪するようになるというのです。しかし、わたしは思います。このことも神様の恵みであると。神様の祝福の中で、自分の犯した罪を忘れてしまうのではなくて、罪を思い起こして、自分自身を嫌悪する。そこでこそ、イスラエルの民は、主が自分たちと共にいてくださる、聖なる神であることを知るのです。

4 キリストを通して与えられた神の霊

 この説教の初めに、五旬祭の日に、約束の聖霊がイエス・キリストの弟子たちに与えられたと申しました。「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる」。この神様の言葉は、イエス・キリストの御名によって洗礼を受け、聖霊を与えられた私たちに実現したのです(テトス3:5:~7参照)。私たちが導き入れられる土地、それは新しいエルサレム、天の御国であります。そこで、私たちは、神様の完全な祝福にあずかる者となるのです。そして、その祝福の前味を、礼拝において味わっているのです。礼拝の初めに、私たちは、司式者の勧告に従って、罪を告白します。そのようにして、本来は、自分が神様の祝福に価しない者であることを言い表すのです。しかし、そこで、私たちが聞くのは、父と子と聖霊の御名による罪赦しの言葉であるのです。そして、私たちは罪赦された者として、心からの感謝をもって神様の聖なる御名をほめたたえるのです。本来、呪われるべき罪人である私たちが、神様の祝福にあずかることができるのはなぜでしょうか?それは、イエス・キリストが、十字架の上で、私たちに代わって律法の呪いを受けてくださったからです。そして、三日目に、私たちを祝福するために復活してくださったからです。イエス・キリストは、呪われるべき者を祝福するお方として、天へと上げられ、神の霊、聖霊を与えてくださったのです。それは、私たちを通して、神様の御名が聖なるものとされるためであるのです。私たちを通して、イエス・キリストの父なる神の御名がほめたたえられるように、神様は、イエス・キリストを通して、私たちに聖霊を与え、御自分の民としてくださったのです。

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