人を惑わす者に気をつけよ 2019年12月08日(日曜 夕方の礼拝)
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人を惑わす者に気をつけよ
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- 村田寿和 牧師
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ヨハネの手紙二 1章1節~13節
聖書の言葉
1:1 長老のわたしから、選ばれた婦人とその子たちへ。わたしは、あなたがたを真に愛しています。わたしばかりでなく、真理を知っている人はすべて、あなたがたを愛しています。
1:2 それは、いつもわたしたちの内にある真理によることで、真理は永遠にわたしたちと共にあります。
1:3 父である神と、その父の御子イエス・キリストからの恵みと憐れみと平和は、真理と愛のうちにわたしたちと共にあります。
1:4 あなたの子供たちの中に、わたしたちが御父から受けた掟どおりに、真理に歩んでいる人がいるのを知って、大変うれしく思いました。
1:5 さて、婦人よ、あなたにお願いしたいことがあります。わたしが書くのは新しい掟ではなく、初めからわたしたちが持っていた掟、つまり互いに愛し合うということです。
1:6 愛とは、御父の掟に従って歩むことであり、この掟とは、あなたがたが初めから聞いていたように、愛に歩むことです。
1:7 このように書くのは、人を惑わす者が大勢世に出て来たからです。彼らは、イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしません。こういう者は人を惑わす者、反キリストです。
1:8 気をつけて、わたしたちが努力して得たものを失うことなく、豊かな報いを受けるようにしなさい。
1:9 だれであろうと、キリストの教えを越えて、これにとどまらない者は、神に結ばれていません。その教えにとどまっている人にこそ、御父も御子もおられます。
1:10 この教えを携えずにあなたがたのところに来る者は、家に入れてはなりません。挨拶してもなりません。
1:11 そのような者に挨拶する人は、その悪い行いに加わるのです。
1:12 あなたがたに書くことはまだいろいろありますが、紙とインクで書こうとは思いません。わたしたちの喜びが満ちあふれるように、あなたがたのところに行って親しく話し合いたいものです。
1:13 あなたの姉妹、選ばれた婦人の子供たちが、あなたによろしくと言っています。ヨハネの手紙二 1章1節~13節
メッセージ
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1 長老から選ばれた婦人とその子たちへ
今夕は、ヨハネの手紙二から御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1節に、「長老のわたしから、選ばれた婦人とその子たちへ」とあります。ここに、手紙の差出人と受取人が記されています。手紙の差出人は「長老のわたし」であります。この長老は、伝統的には「使徒ヨハネ」のことであると考えられています。どこにもヨハネという名前は記されておりませんが、その文体から第一の手紙、さらにはヨハネによる福音書に遡って、使徒ヨハネであると考えられているのです。ここでヨハネは、「使徒」ではなく「長老」と名乗っています(一ペトロ5:1参照)。「長老」とは「年配者」という意味ですが、ここでは、複数の教会を監督している指導者の意味で用いられています。
手紙の受取人は、「選ばれた婦人とその子たち」であります。これは文字通りの意味ではなく、「教会と信徒たち」のことであると考えられています。ヨハネは教会のことを「選ばれた婦人」と呼び、そこに集う信徒たちを「その子たち」と呼んでいるのです。ですから、この手紙は、教会に宛てて記された手紙であるのです。伝承によれば、ヨハネは晩年をエフェソで過ごしたと言われています。ヨハネは、紀元90年頃、この手紙をエフェソにおいて、小アジアにある教会に宛てて記したのです。
2 真理において
ヨハネは、続けて挨拶の言葉を記しています。「わたしは、あなたがたを真に愛しています。わたしばかりでなく、真理を知っている人はすべて、あなたがたを愛しています」。「わたしは、あなたがたを真に愛しています」の「真」は「真理」とも訳せます。ヨハネは、「わたしは、あなたがたを真理において愛しています」と記しているのです。「真理」とは、ヨハネ文書において、何よりもイエス・キリストのことです。イエスさまは、ヨハネによる福音書の14章6節で、「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われました。また、「真理」とはイエスさまが遣わされる聖霊のことでもあります。ヨハネによる福音書の14章16節と17節でイエスさまは次のように言われました。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は真理の霊である」。ヨハネが「真理において」と記すとき、それは「イエス・キリストにおいて」、「イエス・キリストの聖霊において」という意味であるのです。使徒パウロは「イエス・キリストにあって」という言い方をしますが、それと同じことを使徒ヨハネは「真理において」と言い表しているのです。ヨハネは、「わたしは、あなたがたをイエス・キリストにおいて愛しています。わたしばかりでなく、イエス・キリストを知っている人はすべて、あなたがたを愛しています」と記しているのです。ここでヨハネは、手紙の受取人である教会と信徒たちに、あなたがたは愛されていますよ、それも、イエス・キリストの愛で愛されていますよと伝えています。そして、その理由を2節にこう記すのです。「それは、いつもわたしたちの内にある真理によることで、真理は永遠にわたしたちと共にあります」。ここでの真理も「イエス・キリスト」と読み替えるとよく分かります。「私たちが、あなたがたを愛するのは、いつも私たちの内におられるイエス・キリストによることで、イエス・キリストは永遠に私たちと共におられます」。実際、イエス・キリストは、聖霊において、私たちと共にいてくださるわけです。イエスさまは、「真理の霊を遣わす」と言われた後で、次のように言われました。「あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」(ヨハネ14:17、18)。イエスさまは、聖霊において、わたしたちと共におられるお方であるのです。私たちが真理において愛し合うことができるのは、真理であるイエス・キリストが私たちの内におられ、イエス・キリストが私たちと永遠に共にいてくださるからです。
3節で、ヨハネは祝福の言葉を記します。「父である神と、その父の御子イエス・キリストからの恵みと憐れみと平和は、真理と愛のうちにわたしたちと共にあります」。このヨハネの祝福の言葉は、パウロの祝福の言葉と比較すると、その特徴がよく分かると思います。パウロは、「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたと共にありますように」と記しました(ローマ1:7など)。ヨハネは、「その父の御子イエス・キリスト」と、少しくどく記しています。これは、偽教師たちが教会を惑わせていたことと関係があります。7節を見ますと、「彼らは、イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしません」と記されています。偽教師たちは、イエス・キリストがまことの人であられることを否定していたのです。また、ヨハネは、恵みと平和の間に「憐れみ」を加えています。これも偽教師たちの教えを意識してのことです。神さまの憐れみは、何よりも罪の赦しであります。しかし、偽教師たちは、イエス・キリストが肉となって来られたことを否定しますので、罪の赦しそのものが成り立たないわけです。さらに、ヨハネは、「真理と愛のうちに」と記しました。このことも、偽教師たちが、イエス・キリストを信じていると言いながら、互いに愛し合っていなかったことと関係しています。このように、ヨハネは、偽教師たちを意識して、祝福の言葉を記しているのです。父である神と御子イエス・キリストの恵みと憐れみと平和は、イエス・キリストを信じて、互いに愛し合う私たちと共にあるのです。ここで、ヨハネは、「あなたがたと共にあるように」とは記さずに、「わたしたちと共にあります」と断言しています。そして、この私たちの中に、羽生栄光教会とそこに集う私たちも含まれているのです。私たちは、まことの神であり、まことの人であるイエス・キリストを信じる者として、ヨハネと一緒に、「父である神と、その父の御子イエス・キリストからの恵みと憐れみと平和は、真理と愛のうちにわたしたちと共にあります」と断言できるのです。
3 初めから私たちが持っていた掟
4節から11節までが、この手紙の本論であります。4節に、「あなたの子供たちの中に、わたしたちが御父から受けた掟どおりに、真理に歩んでいる人がいるのを知って、大変うれしく思いました」とあります。どうやら、この手紙の宛先である教会の信徒たちが、ヨハネのもとを訪れたようですね。ヨハネは、自分のもとを訪れた教会の信徒たちから話を聞いて、「教会の信徒たちの中に、御父から受けた掟どおりに、真理に歩んでいる人がいるのを知って、大変うれしく思いました」と記すのです。ただ、この書き方ですと、そのように歩んでいない者たちもいたようです。それで、ヨハネは、5節と6節でこう記すのです。「さて、婦人よ、あなたにお願いしたいことがあります。わたしが書くのは新しい掟ではなく、初めからわたしたちが持っていた掟、つまり互いに愛し合うということです。愛とは、御父の掟に従って歩むことであり、この掟とは、あなたがたが初めから聞いていたように、愛に歩むことです」。「婦人」とは「教会」のことですから、このヨハネの言葉は、教会全体に対する言葉です。ヨハネは、初めから私たちが持っていた掟、互いに愛し合うという掟に従って歩むようにと願っています。これは、イエスさまが弟子たちに与えられた掟でありますね。ヨハネによる福音書の13章34節と35節で、イエスさまはこう言われました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」。イエスさまは「新しい掟を与える」と言われました。ヨハネは「わたしが書くのは新しい掟ではなく」と記します。それは、イエスさまがこの掟を与えられてから、60年ほどが経っていたからですね。「互いに愛し合いなさい」というイエスさまの掟は、教会が初めから持っていた掟であるのです。
ヨハネは、「互いに愛し合いなさい」という掟を「御父から受けた掟」(4)、「御父の掟」(6)と記しています。イエス・キリストから愛されている者として、その愛をもって互いに愛し合うことは、父なる神さまから与えられた掟であるのです(ヨハネはキリストと御父を同一視して、キリストの掟を御父の掟と呼ぶ)。そして、この御父の掟は、私たちが絶えず思い起こし、実践すべき掟であるのです。
4 人を惑わす者に警戒せよ
ヨハネは、愛に歩むよう願うのですが、それは、人を惑わす者、偽教師たちが大勢世に来たからです。7節でヨハネはこう記しています。「このように書くのは、人を惑わす者が大勢世に出て来たからです。彼らは、イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしません。こういう者は人を惑わす者、反キリストです」。この手紙が書かれた時代、旅をして教える、巡回教師がいました。使徒言行録を見るとペトロもパウロも、旅をして、その土地の教会を訪れ、福音を宣べ伝えたことが記されています。その巡回教師の中に、人を惑わす者たちがいたのです。彼らは、自分たちのことをイエス・キリストを信じる者であるというのですが、イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表しませんでした。彼らは、神の永遠の御子であるイエス・キリストが人の性質をとられて、私たちと同じまことの人となられたことを否定していたのです。キリストは霊であられ、人のように見えただけであると、彼らは教えていたのですね。そのような者たちを、ヨハネは、人を惑わす者、反キリストであると言うのです。現代の異端であるエホバの証人も、自分たちはイエス・キリストを神の子と信じていると言います。しかし、彼らは、イエス・キリストが神と同じ本質を持つ神の子であることを否定しています。エホバの証人にとって、イエス・キリストは最初の被造物であり、そのような意味で神の子なのです。「人を惑わす者が大勢世に出て来たからです」。この御言葉は、ヨハネの時代の小アジアにある教会だけの話ではなくて、現代の羽生にある私たちの教会の話でもあるのです。
ヨハネは、8節でこう記します。「気をつけて、わたしたちが努力して得たものを失うことなく、豊かな報いを受けるようにしなさい」。「わたしたちが努力して得たもの」とは、「イエス・キリストを信じることによって、与えられたもろもろの祝福」のことです。その祝福には、罪の赦しも含まれています。私たちは、イエス・キリストが私たちに代わって十字架の死を死んでくださったことにより、罪の赦しを得ています。けれども、偽教師たちが教えるように、もし、キリストが肉となって来られなければ、つまり、まことの人でないならば、罪の赦しそのものが成り立たなくなります。そして、私たちは豊かな報いである「永遠の命」をいただくことができなくなってしまうのです。ですから、私たちは、人を惑わす者に対して、本当に気をつけねばならないのです。
人を惑わす者について、ヨハネは9節でこう記します。「だれであろうと、キリストの教えを越えて、これにとどまらない者は、神に結ばれていません。その教えにとどまっている人こそ、御父も御子もおられます」。偽教師たちは、自分たちはキリストの教えを越えた知識を持っていると誇っていたようです。そして、彼らはキリストの教えを越えて、自分たちの思弁に基づいたキリストを教えていたのです。しかし、ヨハネは、「だれであろうと、キリストの教えを越えて、これにとどまらない者は、神に結ばれていない」と記します。新共同訳は「神に結ばれていない」と翻訳していますが、元の言葉は「神を持っていない」と記されています。キリストの教えにとどまらない者は、神さまを持っていないのです。それは、神さまがキリストにおいて、ご自身を示されたからです。ヨハネによる福音書の14章6節と7節でイエスさまはこう言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている」。このイエス・キリストの教えにとどまらないならば、だれも神を持っていないのです。しかし、キリストの教えにとどまっているならば、代々の教会が告白してきた三位一体の神と二性一人格のイエス・キリストを信じているならば、その人のうちには、御父も御子もおられるのです。キリストの教えにとどまっている私たちには、聖霊が与えられており、聖霊において御父と御子を、わたしたちは持っているのです(ヨハネ14:23「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」参照)。
10節は、人を惑わす者たちへの具体的な対応が記されています。「この教えを携えずにあなたがたのところに来る者は、家に入れてはなりません。そのような者に挨拶する人は、その悪い行いに加わるのです」。旅人をもてなすことは善い行いとして奨励されていました。しかし、ヨハネは、偽教師たちを家に入れてはいけないと記します。ここでの「家」は教会のことです(当時は家の教会)。ヨハネは偽教師たちを教会の交わりに迎え入れてはいけないと記しているのです。また、ヨハネは、偽教師たちに挨拶してもいけないと記します。これは関係をもってはいけないということです。挨拶をして彼らと関係を持つならば、その悪い行いに加わることになってしまうのです。このようなヨハネの警告は、私たちが現代の異端であるエホバの証人が、家に訪ねて来たとき、どのように対応すればよいのかを教えてくれているのです。
5 喜びが満ちあふれるように
12節と13節は、手紙の結びの言葉であります。「あなたがたに書くことはまだいろいろありますが、紙とインクで書こうとは思いません。わたしたちの喜びが満ちあふれるように、あなたがたのところに行って親しく話し合いたいものです」。手紙は自分の言いたいことを一方的に伝えるものですが、ヨハネは、親しく語り合う、交わりを持ちたいと記します。そのような交わりにおいてこそ、私たちの喜びは満ちあふれるのです。この喜びは、キリストにおいて与えられている喜びであります。キリストにある喜びは、キリストを信じる者たちの親しい交わりにおいて満ちあふれるのです(一ヨハネ1:3、4参照)。
ヨハネは最後に、自分がいる教会からの挨拶を記します。「あなたの姉妹、選ばれた婦人の子供たちが、あなたによろしくと言っています」。このように、ヨハネの手紙二は、教会と教会との交わりの内に記された手紙であるのです。