一つとなるために 2011年1月02日(日曜 朝の礼拝)

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一つとなるために

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 17章20節~26節

聖句のアイコン聖書の言葉

17:20 また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。
17:21 父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。
17:22 あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
17:23 わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。
17:24 父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。
17:25 正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。
17:26 わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」

ヨハネによる福音書 17章20節~26節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は2011年最初の礼拝であります。週報の表紙に記されているように、今年は年間テーマを「十字架につけられたキリストを宣べ伝える」、年間聖句を「十字架の言葉は滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」コリントの信徒への手紙一第1章18節と定めました。私たちが宣べ伝えるキリストは十字架につけられたキリストであることを覚えて、忍耐をもって福音を宣べ伝えてゆきたいと願ってのことであります。またヨハネによる福音書の連続講解説教が終わったら、コリントの信徒への手紙一から連続講解説教をする予定でありますので、このテーマと聖句を選ばせていただきました。この聖句についてはいずれ語る時がくると思いますので、今朝はヨハネによる福音書から御言葉の恵みにあずかりたいと願っています。

 ヨハネによる福音書第17章は「大祭司の祈り」と呼ばれるイエス様のお祈りが記されています。イエス様のお祈りは大きく3つに区分することができます。第一の区分は1節から5節までで「御自分のための祈り」が記されています。第二の区分は6節から19節までで「弟子たちのための祈り」が記されています。第三の区分は20節から26節までで「弟子たちの言葉によって信じる人々のための祈り」が記されています。今朝はこの第三の区分を学ぼうとしているわけです。

 20節、21節をお読みします。

 また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らも私たちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。

 ここでの「彼ら」はイエス様の周りにいて祈りを聞いている弟子たちのことであります。イエス様は弟子たちのために17節から19節で次のように祈られました。「真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです」。イエス様は弟子たちを聖なる者とされ、世に遣わされます。その弟子たちの言葉によって信じる者たちのために、イエス様はここで願っておられるのです。これはすべての信者のための祈り、教会のための祈りであります。私たちのための祈りです。イエス様は私たちのためにも祈ってくださったのです。イエス様は「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください」と願われました。「御父がイエス様の内におられ、イエス様が御父の内におられる」。このことはイエス様がこれまで弟子たちに教えてきたことでありました。第14章8節で、フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うとイエス様は次のように答えられました。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父のうちにおり、父がわたしのうちにおられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい」。御父がイエス様の内におられ、イエス様が御父のうちにおられる。このことを神学の言葉で「聖霊による相互内住」といいます。これは三位一体の神様の独特無比なあり方でありますけれども、それとの類比で「すべての人を一つにしてください」とイエス様は願われるのです。ここでの「すべての人」とは「弟子たちの言葉によってイエス様を信じるすべての人」のことであります。ですから、イエス様が「すべての人を一つにしてください」と願われるとき、それは使徒たちの言葉によって伝えられる信仰において一つとなるということであるのです。私たちが一つであると言うとき、それは使徒たちの教えに基づく信仰において一つであるということであります。また私たちが一つであると言うとき、それは聖霊において一つであるということであります。なぜならイエス様は「彼らも私たちの内にいるようにしてください」と願われるからです。ここではもう一人の弁護者である聖霊を遣わすことが前提とされています。第14章15節から18節でイエス様は次のようにおっしゃいました。「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻ってくる」。イエス様は世を去って御父のもとへ行かれますけれども、御父のもとから別の弁護者である聖霊を遣わしてくださり、聖霊において弟子たちのところに戻って来られ、聖霊において弟子たちの内にいてくださるのです。またイエス様は同じ第14章23節で次のように言われました。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」。ここで「父とわたしとは」と訳されている言葉は元の言葉を見ると「私たちは」となっています。すなわち、イエス様が聖霊において弟子たちの内に住むことによって、イエス様の内におられる御父も弟子たちの内に住んでくださるのです。そのようにして弟子たちは御父と御子との交わりにあずかる者たちとされるのです。私たちは聖霊においてイエス様と結び合わされることにより、御父と御子イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのであります。ですから「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように」というイエス様の御言葉は単なる類比ではなくて、私たちが一つとなるべき根拠でもあるわけです。私たちは使徒たちの教えである新約聖書によってイエス様を信じ、御父の霊であり御子の霊である聖霊を与えられた者たちとして一つであるのです。イエス様は私たちが信仰において、また聖霊において一つとなるとき「世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになります」と言われました。ここでの世はイエス様を受け入れない世でありますが、しかし同時にその世はイエス様をこれから受け入れる可能性を持っているわけです。弟子たちはイエス様によって世から選び出された者たちでありましたけれども、弟子たちの宣教によって、世に属していた者たちが神に属する者たちとなるのであります。自分のことを話して恐縮ですが、私は大学生の時に坂戸教会に導かれたのでありますけれども、そのとき印象的であったのがそこに集っていた人々が本当の家族のように見えたことでした。讃美歌532番に「世にはなきまじわりよ」とありますが、これまで見たことのないような親しい交わりがそこにあったのです。その交わりに魅せられて教会に通い続けた。そのようにして、私も世に属しておりましたけれども、教会に導かれてイエス様を信じ、聖霊を与えられて神に属する者とされたのです。私たちが信仰において、また聖霊において一つとなるならば、世は私たちを通してイエス様が御父から遣わされた神の御子であり、罪人の救い主であることを信じるようになるのです。羽生の地で礼拝をささげている私たちが信仰において、また聖霊において一つであるならば、世は私たちを通してイエス様を信じるようになるのです。

 22節、23節をお読みします。

 あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つとなるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。

 イエス様が御父から与えられ、弟子たちに与えた栄光とは何でしょうか?結論から申しますと、ここでの「栄光」とは「御名」であり、「御言葉」のことであります。6節でイエス様は「世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは御言葉を守りました」とありましたけれども、イエス様が御父から与えられ、弟子たちに与えた栄光とは、「御名」であり「御言葉」であるのです(14節も参照)。イエス様は御名を現し、御言葉を伝えることによって弟子たちに神様がどのようなお方であられるのかを啓示されました。そのような業が私たち教会にも託されているのです。すなわち、神様はイエス・キリストを信じる私たちを通して、御名を現し、御言葉を伝えようとしておられるのです。私たちは福音宣教という使命においても一つとされているのです。私たち教会の存在意義は御父と御子イエス・キリストとの交わりに世の人々を招き続ける福音宣教の御業にあるのです。

 23節の「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つとなるためです」は、弟子たちに聖霊が遣わされることと御父と御子イエス・キリストとの聖霊による相互内住を前提として語られています。21節と同じことが言われているようにも思えますが、ここでは「完全に」と言われています。「彼らが完全に一つになるためです」。「完全に一つになると」はどのようなことを言っているのでしょうか?これまで一つになるとは信仰において一つとなることであり、聖霊において一つとなることであると申しましたが、ここでは互いに愛し合うことによって一つになることが言われております。なぜならイエス様は続けてこう言われているからです。「こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります」。

ここに「御父がイエス様を愛しておられたように、弟子たちをも愛しておられたことを世が知るようになる」とありますけれども、それは御父から愛されている弟子たちが互いに愛し合うことによって現されるのです。それゆえイエス様は弟子たちに「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という新しい掟を与えられたのであります(13:34)。イエス様は第15章9節で「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた」と言われました。私たちはイエス・キリストにおいて示された御父の愛をもって互いに愛し合うことによって、完全に一つとなることができるのです。そのようにして私たちはイエス様をまだ信じていない人に「あなたも御父から愛されています」と身をもって伝えていくことができるのです。

 24節をお読みします。

 父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。

 このイエス様の御言葉は第14章2節、3節の御言葉と深い繋がりがあります。イエス様は第14章2節、3節で弟子たちにこう言われました。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」。イエス様が世を去り、御父のもとへ行くのに対して、弟子たちは世に残ります。しかしそれはイエス様ともうお会いすることができないということではありません。イエス様が栄光の主として再びこの地上に来られる日に、あるいは私たちが地上の生涯を終えて天に召される日に、私たちはイエス様のおられる所に行くことができるのです。そのとき私たちは御父が天地創造の前からイエス様を愛して、与えられた栄光を見ることができるのです。この栄光は22節で「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました」と言われる栄光とは比べ物にならないほどの大きな栄光であります。それはヨハネの手紙一第3章2節で次のように記されているところの栄光であるのです。「愛する者たち、わたしたちは、今すでに神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです」。私たちがこの地上であずかっている栄光は私たちの死と共に潰えてしまうのではなくて、私たちは死を超えてさらに大きな栄光にあずかることができるのです。すなわち、私たちは御子に似た者とされ、御子をありのままに見ることができるのです。

 25節、26節をお読みします。

 正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。

 ここでイエス様は神様を「正しい父よ」と呼びかけておられます。ある人はこの呼びかけは神様の裁きを念頭においていると申しております。なぜなら、神様の裁きは死んでから行われるものではなくて、今この地上で、イエス・キリストに与えられた御名を信じるか、信じないかの決断によって生じるからです。正しい父である神様は、そのようにしてイエス様にすべての人に対する権能をお与えになったのです。そしてそれは滅ぼすための権能ではなく、御父から委ねられた人すべてに、永遠の命を与えるためであるのです。それゆえイエス様はこれからも私たちを通して御名を現してくださいます。イエス様に対する御父の愛を私たちにお与えくださり、私たちをイエス様と共に生きる者たちとしてくださるのです。この新しい年も主イエス・キリストが私たちを豊かに用いてくださり、一人でも多くの方に永遠の命を与えてくださるように、心を一つにして祈りたいと願います。

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