新しい契約の仲介者 2018年5月13日(日曜 朝の礼拝)
問い合わせ
新しい契約の仲介者
- 日付
-
- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書
ヘブライ人への手紙 8章1節~13節
聖書の言葉
8:1 今述べていることの要点は、わたしたちにはこのような大祭司が与えられていて、天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き、
8:2 人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられるということです。
8:3 すべて大祭司は、供え物といけにえとを献げるために、任命されています。それで、この方も、何か献げる物を持っておられなければなりません。
8:4 もし、地上におられるのだとすれば、律法に従って供え物を献げる祭司たちが現にいる以上、この方は決して祭司ではありえなかったでしょう。
8:5 この祭司たちは、天にあるものの写しであり影であるものに仕えており、そのことは、モーセが幕屋を建てようとしたときに、お告げを受けたとおりです。神は、「見よ、山で示された型どおりに、すべてのものを作れ」と言われたのです。
8:6 しかし、今、わたしたちの大祭司は、それよりはるかに優れた務めを得ておられます。更にまさった約束に基づいて制定された、更にまさった契約の仲介者になられたからです。
8:7 もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。
8:8 事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。「『見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、/新しい契約を結ぶ時が来る』と、/主は言われる。
8:9 『それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、/エジプトの地から導き出した日に、/彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、/わたしも彼らを顧みなかった』と、/主は言われる。
8:10 『それらの日の後、わたしが/イスラエルの家と結ぶ契約はこれである』と、/主は言われる。『すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、/彼らの心にそれを書きつけよう。わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となる。
8:11 彼らはそれぞれ自分の同胞に、/それぞれ自分の兄弟に、/「主を知れ」と言って教える必要はなくなる。小さな者から大きな者に至るまで/彼らはすべて、わたしを知るようになり、
8:12 わたしは、彼らの不義を赦し、/もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。』」
8:13 神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。
ヘブライ人への手紙 8章1節~13節
メッセージ
関連する説教を探す
序
今朝の御言葉の直前、7章28節に、こう記されています。「律法は弱さをもった人間を大祭司に任命しますが、律法の後になされた誓いの御言葉は、永遠に完全な者とされておられる御子を大祭司としたのです」。モーセの時代に与えられた律法は、レビの子らを大祭司に任命しました。しかし、ダビデの時代になされた神様の誓いは、御自分の右に上げられた御子を永遠の大祭司とされたのです。ダビデの詩編である詩編110編の「主はこう誓われ、その御心を変えられることはない。『あなたこそ、永遠に祭司である。』」という御言葉は、十字架の死から復活させられ、天に上げられた御子イエス・キリストにおいて実現したのです。そうであれば、律法によって祭司に任命されたレビの子らとの関係はどうなるのでしょうか?なぜ、神様は律法によってレビの子らを祭司職に任命したのでしょうか?また、なぜ、レビの子らは、祭司職に基づく律法に従って、供え物やいけにえを献げているのでしょうか?この手紙が60年代後半に執筆されたとすれば、エルサレム神殿にはレビの子らが祭司として供え物やいけにえを献げておりました。このことをどのように理解したらよいのか?そのことを、ヘブライ人への手紙は、今朝の御言葉で教えているのです。
1 新しい契約の仲介者
8章1節から6節までをお読みします。
今述べていることの要点は、わたしたちにはこのような大祭司が与えられていて、天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き、人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられるということです。すべて大祭司は、供え物といけにえとを献げるために、任命されています。それで、この方も、何か献げる物をもっておられなければなりません。もし、地上におられるのだとすれば、律法に従って供え物をささげる祭司たちが現にいる以上、この方は決して祭司ではありえなかったでしょう。この祭司たちは、天にあるものの写しであり影であるものに仕えており、そのことは、モーセが幕屋を建てようとしたときに、お告げを受けたとおりです。神は、「見よ、山で示された型どおりに、すべてのものを作れ」と言われたのです。しかし、今、わたしたちの大祭司は、それよりもはるかに優れた務めを得ておられます。更にまさった約束に基づいて制定された、更にまさった契約の仲介者となられたからです。
ヘブライ人への手紙は、これまでレビの子らの祭司職よりもメルキゼデクと同じようなイエス様の祭司職の方が優れていることを記してきました。そして、ここでも、仕える場所という観点から、レビの子らの祭司職よりも、イエス様の祭司職の方が優れていることを記しています。イエス様は、永遠の大祭司としての務めを、どこで果たしておられるのでしょうか?それは、神様がおられる天においてであります。イエス様は、父なる神の右の座に着く王であると同時に、人間ではなく主が建てられた聖所また真の幕屋で仕えておられる大祭司であるのです。では、レビの子らは、祭司としての務めをどこで果たしているのでしょうか?それは、地上においてであります。レビの子らの祭司たちは、地上の幕屋で仕えていたのです。実際には、エルサレムの神殿において祭司として仕えていたわけですが、ヘブライ人への手紙の著者は、律法に基づいて話を進めていきます。それはヘブライ人への手紙の著者が、律法に基づいて、レビの子らの祭司職とイエス様の祭司職とについて論じたいからです。レビの子らが仕えている地上の幕屋は、人間が勝手に造ったものではありません。神様のご命令によって、神様が示された寸法どおりに造られたものであります。出エジプト記の24章に、モーセを仲介者として、主とイスラエルの民が契約を結んだことが記されています。そして続く25章で、主は、モーセに、幕屋を建設するよう命じられたのです。出エジプト記の25章8節、9節にはこう記されています。「わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう。わたしが示す作り方に正しく従って、幕屋とそのすべての祭具を作りなさい」。さらに、40節にはこう記されています。「あなたはこの山で示された作り方に従い、注意して作りなさい」。この御言葉を引用して、ヘブライ人への手紙は、レビの子らが仕えている幕屋は、天にあるものの写しであり影であると言っているのです。天には、オリジナルであり、本体である主が建てられた聖所また真の幕屋がある。その写しであり影として、地上の幕屋を造るように、神様はモーセに命じられたのです。イエス様は、人間が建てた写しであり影である地上の幕屋ではなく、そのオリジナルであり、本体である主がお建てになった聖所また真の幕屋で仕えておられるのです。このことは、地上の幕屋で仕えるレビの子らの祭司たちが、やがて来られるお方、イエス・キリストを指し示す者たちであったことを教えています。ヨハネによる福音書の第5章で、イエス様は、「モーセは、わたしについて書いている」と言われていますが、そのことは、祭司職に基づく律法(儀式律法)においても言えることであるのです。律法によって任職された祭司たちは、永遠の大祭司であるイエス・キリストを指し示す者たちであった。そうであれば、イエス・キリストが天の聖所であり真の幕屋で永遠の大祭司として仕えている以上、レビの子らの祭司たちはその役目を終えたことになるのです。また、そのことは、永遠の大祭司であるイエス様が、更にまさった契約、新しい契約の仲介者になられたゆえでもあるのです。祭司制度の根底にある契約そのものが、イエス様によって新しくなったのです。
2 新しい契約の新しさ
7節から13節までをお読みします。
もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。事実、神は、イスラエルの人々を非難して次のように言われています。「『見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、新しい契約を結ぶ時が来る』と、主は言われる。『それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。『それらの日の後、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである』と、主は言われる。『すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。彼らはそれぞれ自分の同胞に、それぞれ自分の兄弟に、「主を知れ」と言って教える必要はなくなる。小さな者から大きな者に至るまで/彼らはすべて、わたしを知るようになり、わたしは、彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。』」
神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消え失せます。
「あの最初の契約」とは、神様がイスラエルの先祖たちをエジプトから導き出した日に結んだ契約、シナイ山でモーセを仲介者として結ばれたシナイ契約を指しています。この契約は、簡単に言えば、「わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしはあなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。わたしが命じる道にのみ歩むならば、あなたたちは幸いを得る」というものでありました(エレミヤ7:23)。しかし、問題は、イスラエルの民が、すなわち人間が神様の声に聞き従うことができないということであったのです。ヘブライ人への手紙の著者が、最初の契約に欠けたところがあったと記したのは、人間が神様の声に従うことができないゆえに、「わたしはあなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる」という契約の目的を果たすことができないからです。それで、神様は、第二の契約を結ばれることを、エレミヤを通して預言されたのです。8節から12節までは旧約聖書のエレミヤ書31章からの引用であります。新しい契約の預言は、バビロン帝国の軍隊によってエルサレムが破壊される直前に与えられました。神様とイスラエルとの契約がご破算(はさん)になるかと思われた時に、神様はエレミヤを通して新しい契約の預言を与えられたのです。ヘブライ人への手紙の著者は、この新しい契約の仲介者こそ、天の聖所で仕えておられるイエス・キリストであると言うのです。新しい契約の祝福は、イエス・キリストによって実現するのです。そして、このことは、イエス様が弟子たちに教えられたことでもありました。ルカによる福音書によれば、イエス様は、主の晩餐の席において、こう言われました。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」。また、使徒パウロも、コリントの信徒への手紙一の第11章で、自分自身が主から受けたものとして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である」という御言葉を伝えています。新しい契約は、神の御子であるイエス・キリストの十字架の血潮によって結ばれたのです。ですから、新しい契約では、罪の赦しが約束されているわけです。12節に、「わたしは、彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない」とあるのは、新しい契約が、世の罪を償ういけにえであるイエス様の血潮によって結ばれたからです。ですから、民の罪を償うレビの子らの祭司たちは、もはや必要ないのです。
また、10節で、主はこう言われています。「わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう」。最初の契約では、神様の律法は石の板に書き記されて、イスラエルの民に与えられました。しかし、新しい契約では、神様の律法は、イスラエルの民の心に書きつけられるのです。これは、律法を暗記するということではなく、神様の掟に従う心を与えられるということです。新しい契約において、神様は律法に従う心を与えてくださるのです。そして、そのことも、十字架の死から復活させられ、天にあげられたイエス・キリストにおいて実現するのです。天にあげられたイエス・キリストは、御自分の弟子たちに、神の霊、聖霊を与えてくださいました。そのようにして、イエス・キリストの弟子たちに、神様の律法に従う心が与えられたのです。神様の律法に従う心とは、言い換えれば、神様を愛する心のことです。神様を愛して、神様の掟に従って生きていこうとする心が、イエス・キリストを通して、私たちに与えられたのです。そのようにして、小さな者も大きな者も、神様を交わりの中で人格的に知ることができるようにされたのです。
父なる神の右の座について、天の聖所で仕えておられるイエス・キリストこそ、新しい契約の締結者であり、仲介者であられます。それゆえ、新しい契約の祝福にあずかるには、イエス・キリストを神の御子、救い主と信じることが求められるのです。どの国の人であっても、イエス・キリストを信じるならば、神の民イスラエルの一員とされます。そして、その人は、「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」という祝福にあずかることができるのです。
幼児洗礼を受け、イエス・キリストを主と告白し、教会の一員とされている私たち、イエス・キリストを信じて、洗礼を受け、教会の一員とされている私たちは、聖霊を与えられ、すべての罪を赦されております。そのようにして、新しい契約の祝福にあずかっています。しかし、それは私たちが罪を犯さないということではありません。実際、私たちは日ごとに罪を犯してしまいます。ですから、私たちは日ごとに、イエス・キリストの名によって罪を告白し、赦しを乞うのです。そのとき神様は必ず私たちの罪を赦してくださる。私たちの罪に対して罰を与えられるようなことはないのです。なぜなら、十字架において御自身をささげてくださったイエス・キリストが、私たちの大祭司として天の聖所で仕えてくださっているからです。永遠の大祭司であるイエス・キリストに、私たちの心を向けるとき、私たちが新しい契約の祝福にあずかっていることがよく分かるのです。なぜなら、イエス・キリストこそ、新しい契約の仲介者であり、その保証人であるからです。前回学んだ7章22節に、「このようにして、イエスはいっそう優れた契約の保証となられたのです」とありました。永遠の大祭司となられたイエス・キリストは、新しい契約の仲介者であり、その保証人でもあるのです。それゆえ、私たちがイエス・キリストにしっかりと結ばれているならば、私たちは新しい契約の祝福に確かにあずかっていると言えるのです。