主の御名を呼び始めた 2011年10月16日(日曜 夕方の礼拝)

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主の御名を呼び始めた

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
創世記 4章25節~26節

聖句のアイコン聖書の言葉

4:25 再び、アダムは妻を知った。彼女は男の子を産み、セトと名付けた。カインがアベルを殺したので、神が彼に代わる子を授け(シャト)られたからである。
4:26 セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである。創世記 4章25節~26節

原稿のアイコンメッセージ

 今夕は創世記の第4章25節から26節より御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 25節をお読みします。

 再び、アダムは妻を知った。彼女は男の子を産み、セトと名付けた。カインがアベルを殺されたので、神が彼に代わる子を授け(シャト)られたからである。

 「再び」とありますが、これは第4章1節を受けてのことであります。そこにはこう記されておりました。「さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、『わたしは主によって男子を得た』と言った」。「わたしは主によって男子を得た」の「得た」(カーナー)から、生まれてきた男の子はカインと名付けられたのです。このところについてお話したときにも申しましたが、このエバの言葉は、「わたしは主と共に男を得た」とも訳すことができます。さらには、「わたしは主と同じように男を造った」とも訳すことができるのです。現代でも、創造主なる神様を知らない人は「子供を作る」という言い方をしますが、それと似た響きを持つ言葉を、エバは初めての子供を産んだときに発したわけです。しかし、今夕の御言葉の25節では、そのようなエバが謙虚になっていることに気づかされます。産まれてきた男の子はエバ自らが得たものではなく、神によって授けられたと告白するのです。「子供を得た」と言っていたエバが「子供を授かった」と言うようになっているのです。これはエバの生まれてくる子供に対する見方が変わったことを教えています。自分の力で子供を得た、子供を作ったと考えているうちは、子供を自分の所有物のように考えてしまいます。しかし、子供を神様からの授かったと考えるならば、その子供が一人の人格であることを本当の意味で尊重できると思うのです。そのような者にここでエバは変えられているのです。アベルがカインを殺すという悲劇を通して彼女は変えられたわけであります。エバは神様が授けられたことから、生まれてきた男の子をセトと名付けましたけれども、それはカインによって殺されたアベルに代わって授けられた子であると言うのです。

 少し遡ってお話したいと思いますが、エデンの園において、神様は蛇に対してこう言われました。「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く」。そして、神様は女に向かってこう言われたのです。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む」。このように女の出産は蛇の頭を打ち砕く者と密接に結びついているわけです。ですから、彼女が身ごもってカインを産んだとき、この子こそ、悪魔の頭を打ち砕く者であるとアダムとエバは考えたと思います。そのようなカインに対して、主はこう言われたのです。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」。この主の言葉は、カインが悪魔の頭を打ち砕く者であるかどうかを試すものでありました。しかし、カインは罪を支配するどころか、罪に支配されることにより、悪魔の頭を打ち砕く女の子孫ではないことが判明したのです。むしろ、悪魔の頭を打ち砕く女の子孫は、カインに殺されてしまったアベルであったのであります。そのアベルの代わりに、神様はアダムとエバにセトを授けられたのです。そしてセトこそ、悪魔の頭を打ち砕く女の子孫の系図の祖となるのです。このことは聖書の記述によっても教えられています。「神が彼に代わる子を授け」とありますが、ここで「子」と訳されているヘブライ語(ゼラー)は、第3章15節の「女の子孫」の「子孫」と同じ言葉であります。また、セトの名前の由来である「授ける」と訳されているヘブライ語(シーツ)は、第3章15節の「敵意を置く」の「置く」と同じ言葉です。このように聖書はその言葉によっても、セトが悪魔の頭を打ち砕く女の子孫の系図の祖となることを表しているのであります。セトこそがアダムの系図に名を連ねるものとなるのです(5:3参照)。

 26節をお読みします。

 セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである。

 セトは生まれた男の子にエノシュと名付けました。「エノシュ」とは「人間」を意味します。それも「弱く、はかない」人間を意味する言葉なのです。このことは、カインの六代目の子孫であるレメクと対象的であります。レメクとは「力ある者」という意味でありました。レメクの歌は、まさしく自分の力を誇示する歌でありました。しかし、セトは、生まれてきた子に「エノシュ」(はかない人間)という名前を付けたのです。そして、このエノシュの時代に、「主の御名を呼び始めた」のであります。自分が弱くはかない人間であることを知っているエノシュが、主の御名を呼び始めたのであります。ここで「主」と訳されている言葉は「ヤハウェ」という神様の御名前であります。「ヤハウェの御名を呼び始めた」とは「ヤハウェを礼拝し始めた」ということです。しかし、こう聞きますと、私たちはアダムとエバはエデンの園において主なる神を礼拝していなかったのだろうかと考えるかも知れません。また、カインとアベルは主を礼拝していなかっただろうかと考えるかも知れません。確かに第2章、第3章では「主なる神」「ヤハウェ・エロヒーム」という神様の名前が用いられていました。また、第4章でも「主」「ヤハウェ」という神様の名前が用いられていました。それなのになぜ、聖書は主(ヤハウェ)の御名を呼び始めたのはエノシュの時代のことである、と記しているのでしょうか?それはおそらく、エノシュの時代になると様々な神々の名が呼ばれるようになっていたからだと思います。その空しい神々と区別するために、エノシュはヤハウェという御名前を呼び始めたのです。また、「主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである」という聖書の記述は、セトの息子エノシュこそ、アダムの信仰、アダムの神知識を受け継ぐ者であることを私たちに教えています。エノシュは、エデンの園でアダムに掟を与え、アベルとその献げ物に目を留められた主(ヤハウェ)の名を呼び始めたのです。

 「主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである」。この御言葉は出エジプト記の記述と矛盾するのではないかとしばしば言われます。その論拠としてあげられるのは出エジプト記第3章14節と第6章3節であります。

 出エジプト記の第3章14節にはにこう記されています。

 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」

 また、出エジプト記の第6章3節にはこう記されています。

「わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れたが、主というわたしの名前を知らせなかった。」

 主(ヤハウェ)という御名前はここでモーセに示された「わたしはある」という言葉を元にしていると考えられています。そして神様はその「主」という御名前をアブラハム、イサク、ヤコブには知らせなかったと言うのです。しかし、神様の御名前が主(ヤハウェ)であられたことは、モーセに知らせる前から、アブラハム、イサク、ヤコブの時代の前からであったに違いありません。主(ヤハウェ)という御名前は、とこしえに神様の御名前であるのです(出エジプト3:15参照)。ですから、「主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである」という聖書の御言葉は、むしろ主の御名を呼び求めることの源がエノシュ、セト、アダムと人類の祖まで遡ることができることを教えているのです。

 私たちは聖霊によって「イエスは主である」と告白いたしますが、それは「イエスが主(ヤハウェ)その方である」という信仰の告白であります。主イエスは、天地を創造し、エデンにおいてアダムに掟を与え、アベルとその献げ物に目を留められた主であられるのです。

 初代教会がイエスの御名を呼び始めたとき、ユダヤ人たちは主の御名と並んで教会がイエスの御名を呼んでいると誤解し、唯一神信仰に反する異端であると考えました。しかし、そうではないのです。イエスの御名を呼ぶことは、まさしく主の御名を呼ぶことなのです。なぜなら、イエスこそ人となられた神、主であられるからです(ヨハネ20:28「トマスは答えて、『わたしの主、わたしの神よ」と言った」を参照)。モーセに「わたしはある」という意味のヤハウェという御名によって御自身をあらわされた神は、「主は救い」という意味のイエスという御名によって私たちに御自身をあらわしてくださいました。それゆえ、主イエスの名を呼ぶことは主の名を呼ぶことであるのです。いや、主イエスの名を呼ぶ者こそが正しく主の御名を呼んでいるのです。

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