カインとアベル 2011年9月18日(日曜 夕方の礼拝)

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カインとアベル

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
創世記 4章1節~7節

聖句のアイコン聖書の言葉

4:1 さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。
4:2 彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。
4:3 時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。
4:4 アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、
4:5 カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。
4:6 主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。
4:7 もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」創世記 4章1節~7節

原稿のアイコンメッセージ

今夕は創世記第4章1節から7節より御言葉の恵みにあずかりたいと思います。

 1節をお読みします。

 さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。

 ここにはエデンの園から追放された夫婦に子供が生まれたことが記されています。「知った」という表現は性的な関係を持ったことの婉曲的な表現であります。神様はアダムとエバに、悪魔の頭を打ち砕く女の子孫の誕生を約束されましたが、アダムはその約束を実現すべく妻エバを知ったのです。彼女は身ごもってカインを生むのでありますが、カインという名前はエバの言葉、「わたしは主によって男子を得た」の「得た」カーナーに由来します。カインという名前は「得る、獲得する」を意味するカーナーを語源とするのです。このエバの言葉は、色々な翻訳が可能でありまして、解釈が難しいところであります。例えば、このところは次のように訳すこともできます。「わたしは主と共に男を得た」。こう翻訳しますと、出産におけるエバの果たした役割の大きさが印象付けられます。さらには、このように訳すこともできます。「わたしは主と同じように男を造った」。こう翻訳しますと、エバは自分を神様と等しい者として誇っている印象を受けます。いずれにしても、エバは男を得た、獲得したことを、「どうだ、やったぞ」と喜んでいるわけです。

 2節をお読みします。

 彼女はまたその弟アベルを生んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。

 カインという名前については「得た」カーナーという語源が記されておりましたが、アベルという名前については語源が記されておりません。アベルとはヘブライ語で「はかないもの、空しさ」を意味します。なぜ、生まれた子どもに「はかないもの」いう名前を付けたのでしょうか?よく分かりませんが、アベルという名前は彼のはかない生涯を暗示しているのかもしれません。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となりました。長男であるカインは父アダムと同じ仕事についたわけであります。

 3節から5節までをお読みします。

 時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。

 どのくらいの時を経たのかは分かりませんが、カインとアベルはそれぞれの働きにふさわしい献げ物を主のもとに持ってきました。カインは土の実りを、アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来ました。主はアベルとその献げ物に目を留められましたが、カインとその献げ物には目を留められませんでした。どうしてでしょうか?第一に考えられることは、主は献げ物にではなく、献げ物をもって来た人に先ず目を留められたということです。すなわち、主はアベルとその献げ物に目を留められたのです。また、主はカインとその献げ物に目を留められなかったのです。サムエル記上の第16章7節に、「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」とあります。まず主が目を留められたのはアベルの心であり、またカインの心であったのです。では、献げ物はどうでもよいのかと言えばそうとも言えません。献げ物はささげるその人の心を映し出すものであるからです。カインがただ土の実りを持って来たのに対して、アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来ました。アベルは最上のものを主に献げるために持って来たのです。新約聖書のヘブライ人への手紙第11章4節にこう記されています。

 信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。

 アベルは信仰によって羊の群れの中から肥えた初子を主に献げました。しかし、カインは信仰によらず土の実りを主に献げたのです。それゆえ、主はアベルとその献げ物には目を留められましたが、カインとその献げ物には目を留められなかったのです。

 今夕の御言葉に戻ります。創世記の第4章です。

 ではカインは、主が自分と自分の献げ物を目に留められていないことをどのようにして知ったのでしょうか?天からの炎がアダムの献げ物だけを焼き尽くして、カインの献げ物は焼き尽くさなかったのでしょうか(レビ9:24参照)?そのように考える人もおりますが、むしろ多くの人は、アベルが地上的な祝福を得ているのに対して、自分は地上的な祝福を得ていないことによって、カインは神様が自分と献げ物を受け入れていないと判断したと考えます。カルヴァンはこのところについてこう注解しております。「己の供え物が兄弟の供え物の後まわしにされたということを、カインはどこで知ったのか、とここで問われる。ヘブル人は彼らの流儀によって、占いに逃げ込み、アベルの犠牲は天からの火によって燃え尽きたと空想しているが、われわれは聖書に何の証言もない奇跡を思い付くような勝手気儘を自己に許してはならないのであるから、ユダヤ的お伽話は斥けねばならない。それよりは、モーセがこの後に述べるように、事の成り行きからカインが判断したと見たほうがよい。すなわち、カインは兄弟の方が己よりもよく栄えているのを見たのである。そこから、神はアベルに好意を持ち、自分に敵意を持ちたもうと結論した。しかしわれわれは、偽善者たちには地上的祝福にまして心に掛かるものがないということを知っているのである」。

 兄である自分よりも、弟アベルの方が地上的な祝福を得ている。このことから、カインは自分とその献げ物が主に受け入れられていないと判断したと言うのです。これは私たちにとっても人ごとではありません。同じ神様を礼拝しておりながら、なぜある人は栄えて、自分はそうではないのか。カインとアベルの物語にあるおどろおどろしいものと私たちも無縁ではないのです。カインの怒りと私たちも無縁ではないのであります。

 6節、7節をお読みします。

 主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」。

 激しく怒って顔を伏せるカインに、主は「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか」と言われます。神様はここでカインの正しさを問題にしています。そして、カインが正しくないことは、顔を伏せるというカイン自身の姿が物語っているのです。では、カインはどのような点において正しくなかったのでしょうか?それは地上的な祝福によって、神様は自分と献げ物を受け入れている、あるいは受け入れていないと判断した点においてであります。献げ物によって、神様のご機嫌を取り、地上的な祝福を得ようという御利益宗教的な信仰においてカインは正しくなかったのです。それゆえ、神様はカインに一つの警告をお与えになりました。「正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」。

 ここでは罪がカインに飛びかかろうと待ち伏せている獣であるかのように描かれています(一ペトロ5:8参照)。神様はカインに罪に支配されることなく、罪を支配せねばならないと言われます。神様はカインに罪を犯さないようにと警告されたわけです。けれども、次回学ぶことになりますが、カインは罪に支配され、弟アベルを殺してしまうのです。私たちはここに、アダムの罪との連鎖、つながりを見ることができます。アダムとエバから生まれた最初の息子カインは弟アベルを殺すという罪を犯すのです。

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