罪の刑罰
- 日付
- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書 創世記 3章16節~19節
3:16 神は女に向かって言われた。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め/彼はお前を支配する。」
3:17 神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。
3:18 お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に。
3:19 お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」創世記 3章16節~19節
前回私たちは、主なる神様の蛇に対する言葉について学びました。神様は蛇と女、蛇の子孫と女の子孫の間に敵意を置くことにより、蛇の共犯となってしまった女を御自分のもとに引き戻してくださいました。そして神様は、女の子孫から蛇の頭を砕く者が産まれると言われたのです。これは罪を犯したアダムと女にとって救いの約束とも言えます。それゆえ、キリスト教会は15節を最初の福音、原福音と呼んできたのです。神様は悪魔を滅ぼす女の子孫の誕生について語られた後で、女に向かってこう言われるのです。16節。
神は女に向かって言われた。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は苦しんで子を産む。お前は男を求め/彼はお前を支配する。」
子供を産むこと、出産は人間が造られたときに与えられた神様の祝福でありました。神は人を男と女に創造されて、彼らを祝福してこう言われたのです。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」。ですから、子供を産むことそれ自体は神様の祝福であります。しかし、神様は禁じられた木の実を食べた女の産みの苦しみを大いなるものにすると言われるのです。女が苦しんで子を産むのは、神様の裁きによると聖書は語るのです。しかし、私たちはここでなお妊娠して子を産むことが取り去られていないことに注意を向けたいと思います。はらみの苦しみは大きなものとなりましたが、出産そのものは取り去られていないのです。そして、このことは蛇の頭を砕く女の子孫の約束と密接に結びついています。女が出産することにより、女の子孫の中から蛇の頭を砕く者が生まれて来るのです。それゆえ、女の出産は救済的な意味合いをも帯びるものとなったのです(5:29参照)。
はらみの苦しみが大きなものとなったにも関わらず、女は夫を求めずにはおれない者となります。そして、その関係は夫が女を支配するという関係となるのです。私たちはここに、古代の家父長制社会における苦しい立場に置かれていた女性の姿を見ることができます。なぜ、女ははらみの大きな苦しみにも関わらず、夫を求めずにはおれないのか?なぜ、女は夫によって支配され苦しい立場に置かれているのか?その原因を聖書は女の罪に対する神様の刑罰にあると語るのです。
神様は女に「彼はお前を支配する」と語りましたけれども、これは12節のアダムの言葉に基づくと考えられます。アダムが禁じられた木の実を食べたのは、女が、木から取って与えたからであったのです。禁じられた木の実を取って食べるということにおいてリーダーシップを発揮したのは男ではなく、女でありました。女は禁じられた木の実を食べるということにおいて、男を従わせたとも言えるのです。その女に対する罰として、神様は女に「彼はお前を支配する」と言われたのです。
ちょうど蛇が神様と等しい者、さらには神様より偉大な者であるかのような言動を取ったゆえに、最も卑しい者として生涯這いまわり、塵を食らうようになるという罰を受けたように、女は男を従わせたゆえに、男に従う者となるという罰を受けるのです。神様はそれぞれにふさわし罰をお与えになったと言えるのです。
続けて神様はアダムに向かってこう言われました。17節から19節。
神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗してパンを得る。土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」
アダムの罪、それは女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べたことでありました。アダムは神様から直接、「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と命じられておりました。しかし、アダムは神様の声よりも、女の声に従ってしまったのです。このように見ていきますと、最初の罪が神様が定められた秩序がひっくり返ったときに起こったことが分かります。女は蛇を従わせる立場にありながら、結果的に蛇に従ってしまいました。また、男は助け手として与えられた女よりも神様に従うべきであったのに、女に従ってしまいました。このように神様が定められた秩序がひっくり返ったとき、最初の罪は起こったのです。
アダムが取って食べるなと命じられた木から食べるという罪を犯したことにより、神様は「お前のゆえに土は呪われるものとなった」と言われます。ここで注意したいことは、アダムは直接には呪われていないということです。エバをだました蛇、その背後にいる悪魔には即座に呪いが宣言されましたけれども、女もアダムも呪われてはいないのです。しかし、ここではアダムの罪のゆえに、土が呪われるようになりました。土が呪われることによって、アダムの労働は労苦の伴うもの、生産性の乏しいものとなるのです。これまでは、エデンの園に見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木が地に生えていたのでありますけれども、アダムの罪によって土地が呪われた結果、土は茨とあざみを生えさせるようになります。茨とあざみは土地の不毛を表す象徴であります。それゆえアダムは顔(元の言葉では鼻)に汗を流してパンを得るようになるのです。しかもそれが土に返るときまで続くのです。土に返るときまでとは死ぬときまでということであります。神様は「お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る」と言われましたけれども、この神様の御言葉から推測しますと、おそらくアダムも女から蛇の言葉、「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなる」という言葉を聞いていたのではないかと思います。アダムは神様の言葉に逆らうという仕方で、神のようになろうとしました。しかし、神様はそのようなアダムに対して「お前は土から取られた塵にすぎない」と言われるのです。塵にすぎないアダムが創造主である神と等しくなりたいと考えたことほど高慢なことはありません。しかも、アダムは神様の掟に逆らって、神と等しい者となろうとしたのです。
ここでわたしが思い起こしますのは、新約聖書のフィリピの信徒への手紙第2章に記されているいわゆるキリスト賛歌であります。そこにはこう記されています。フィリピの信徒への手紙第2章6節から9節までをお読みします。
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
このキリストと全く反対の姿勢であったのがアダムでありました。アダムは塵に過ぎないにも関わらず、神と等しい者となろうとしました。それも神への不従順によってそのことを達成しようとしたのです。そして、このような姿勢はアダムだけではなくて、アダムから普通の産まれかたで産まれてくるすべての人間に言えることなのです。
アダムの罪とその罰は、アダム個人に限られるものではありません。アダムの罪はアダムの子孫である私たちの罪であり、アダムに対する罰は私たちに対する罰であるのです。パウロはローマの信徒への手紙第5章12節でこう記しています。
このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。
パウロが「すべての人が罪を犯した」と語るとき、それは「すべての人がアダムにあって罪を犯した」ということであります。最初の人アダムはすべての人の先祖であり、すべての人を代表する契約の頭であったゆえに、アダムの罪は私たちの罪であるのです。今夕の御言葉は、私たちが被っている様々な苦しみと死の原因が、アダムと女の罪に対する神の刑罰に由来することを教えているのです。
アダムは被造物ですから、もともと死すべきものとして造られたという人もおります。しかし、園の中央に善悪を知る木と並んで命の木が生えていたことを考えるならば、アダムが神の掟に従い抜いた際には、死ぬことのない命が与えられたという可能性は否定できません。また、この文脈からすれば、塵に返るという死は、明らかに罪の刑罰として語られています。神様はアダムに、死を警告として、善悪の知識の木からは決して食べてはならないと命じられたのです。ですから、罪を犯す前の人間にとって死は自然なことではありませんでした。死は人間の罪のゆえに神様が創造された良き世界に入り込んできたのです。すべての人はアダムにあって、罪を犯し、死に定められた罪人であるのです。だれがこのような死の定めから私たちを救ってくれるでしょうか?それは十字架の死に至るまで神の御心に従い、神様によって復活させられた最後のアダム、イエス・キリストであります。蛇の頭を砕く女の子孫であるイエス・キリストにあって、私たちは今すでに死んでも生きる永遠の命に生かされているのです。このことを覚えますとき、女と男に対する刑罰を語るに先立って、救いの約束をお語りになった神様が恵みと慈しみに富みたもうお方であるかが分かります。神様は悪魔の働きを滅ぼす救い主が女の子孫から産まれることを約束されたがゆえに、人間の労苦と死について語ることができたのです。それはすべての人が蛇の頭を砕く女の子孫、イエス・キリストを信じるためであるのです。