エデンの園 2011年7月24日(日曜 夕方の礼拝)
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エデンの園
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- 村田寿和 牧師
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創世記 2章4節~17節
聖書の言葉
2:4 主なる神が地と天を造られたとき、
2:5 地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。
2:6 しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。
2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
2:8 主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。
2:9 主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。
2:10 エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分かれて、四つの川となっていた。
2:11 第一の川の名はピションで、金を産出するハビラ地方全域を巡っていた。
2:12 その金は良質であり、そこではまた、琥珀の類やラピス・ラズリも産出した。
2:13 第二の川の名はギホンで、クシュ地方全域を巡っていた。
2:14 第三の川の名はチグリスで、アシュルの東の方を流れており、第四の川はユーフラテスであった。
2:15 主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。
2:16 主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。
2:17 ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」創世記 2章4節~17節
メッセージ
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今夕は創世記の第2章4節後半から17節より、御言葉の恵みにあずかりたいと思います。
4節後半から5節をお読みします。
主なる神が地と天を造られたとき、地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。
私たちは第1章1節から第2章4節前半に記されている「天地創造の由来」について学んだのでありますが、このところには別の資料を用いた神様の創造の御業について記されています。創世記はいくつもの資料が用いられて記されていると考えられていおりますが、その一つの手掛かりとなるのは神様の御名前であります。第1章は、神様の御名前としてエロヒームというヘブライ語が用いられていました。新共同訳聖書はそれを「神」と訳しています。しかし、第2章、第3章では、神様の御名前がヤハウェ エロヒームと記されているのです。新共同訳聖書はそれを「主なる神」と訳しています。よって、第2章は第1章とは異なる、より古い資料を用いて記されたと考えられているのです。ただし、創世記は一つの書物として編集されたものですから、私たちは第1章と第2章の記述を相互補完的に読むことが大切であります。
聖書は、「主なる神が地と天を造られたとき」と記しております。「天と地」ではなくて、「地と天」です。これは地がもっぱらの関心となるからでありましょう。「地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった」。ここでは現にあるものが、まだなかったと記すことによって、初めの状態が語られております。なぜ、地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかったのしょうか。聖書は二つの理由を記しています。第一に、主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからです。第二に、土を耕す人がいなかったからであります。第一の理由については6節で解決が与えられます。「しかし、水が地下から沸き出て、土の面をすべて潤した」。これは砂漠の中にあるオアシスのイメージでありますね。雨が降らず地は乾燥しておりますけれども、泉が湧き出て土の面をすべて潤していたのです。また、第二の理由については、7節で解決が与えられます。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。ここでは、神様が粘土で器を作る陶工のようにして、土から人を形づくられたことが記されています。第1章24節で、神様は、「地は、それぞれの生き物を産み出せ、家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ」と言われましたが、人間も土によって造られたものなのです。人は土(アダマ)の塵で造られたゆえに、アダムと言われるのです。神様はそのアダムの鼻に命の息を吹き入れられました。人はこうして生きるものとなったのです。人は神と同じ呼吸をする者、神と息の合ったパートナーとして造られたのです。
8節、9節をお読みします。
主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生え出でさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生え出でさせられた。 神様は、東の方のエデンに園を設け、人をそこに置かれました。そして、神様は見るからに好ましく、食べるによいものをもたらすあらゆる木を地に生え出でさせられたのです。人は労苦せずとも、おいしい食べ物を得ることができたのです。神様は全くの恵みの中に人を置かれたのであります。また、主なる神は、園の中央に、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられました。これについて17節で触れることにします。
エデンの園はどこにあったのか?そのような地理的関心が10節から14節に記されています。
エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分かれて、四つの川となっていた。第一の川の名はピションで、金を産出するハビラ地方全域を巡っていた。その金は良質であり、そこではまた、琥珀の類やラピス・ラズリも産出した。第二の川の名はギホンで、クシュ地方全域を巡っていた。第三の川の名はチグリスで、アシュルの東の川の方を流れており、第四の川の名はユーフラテスであった。
エデンから一つの川が流れ出ており、さらにそれが分かれて四つの川となっていたということは、水が無尽蔵に湧き出ていたことを表します。砂漠の広がる世界において水は命そのものでありました。エデンの園から一つの川が流れ出ており、さらにそれが分かれて四つとなっていたことは、エデンの園がどれほど命に溢れる豊かなところであったかを物語っています。ここに、四つの川が出てきますが、初めの二つ、ピションとギホンについてはよく分かりません。ただ、ピションが流れるハビラ地方では良質の金が産出され、琥珀の類やラピスラズリも産出されました。『広辞苑』によれば、「琥珀」とは「地質時代の樹脂などが地中に埋没して生じた一種の化石。赤玉」であり、「ラピスラズリ」とは「青色の宝石の名」であります。ハラビ地方では金や宝石が産出しておりました。このことはエデンの園の豊かさをも表すものであります。新約聖書のヨハネの黙示録に、新しいエルサレムに宝石がちりばめられておりますが、それはこのエデンの園に通じるものであります。すなわち、金や宝石はそのすばらしさを表しているのです。四つの川の内、初めの二つはよく分からないと申しましたが、後の二つのチグリス川とユーフラテス川は、古代文明の一つであるメソポタミア文明の舞台となった有名な川であります。それゆえ、エデンの園にまつわる伝承は、相当古い起源を持つことが分かるのです。
聖書巻末の聖書地図の「1 聖書の古代世界」にユーフラテス川とチグリス川を見つけることができます。エデンの園がどこにあるのかははっきりとしたことは分かりませんが、私たちはチグリス川とユーフラテス川というこの二つの川によって、だいたい場所を把握することができるのです。
今夕の御言葉に戻ります。
では最後、15節から17節までをお読みします。
主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」
神様は人をエデンの園に住まわせられました。人はエデンの園を耕し、守る管理者としての働きを委ねられたのです。エデンの園は、後に楽園、パラダイスの原型とされますが、エデンの園において人は働いたのです。人は園を耕し、園を管理したのです。このことは、私たちに労働が罪の堕落のゆえではなくて、創造されたときから人間に与えられていたものであったことを教えています。人は働くものとして造られたのです。もっと言えば、働くことと神に仕えることは一つであったのです。人は働きつつ神を礼拝し、神を礼拝しつつ働いたのであります。この「耕す」という言葉から「文化」という言葉が出て来たことはよく知られたことですが、ここに人間の文化活動の原型が記されていると読むことができるのです。
人はエデンの園を耕しましたけれども、しかし、それは食べていくためではありませんでした。なぜなら、9節にありましたように、主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらす木を地に生えいでさせられたからです。食べ物は労働の報酬として与えられるのではなくて、神様の恵みとして与えられるのです。それゆえ、神様は「園のすべての木から取って食べなさい」と言われるのです。しかし、一つだけ例外がありました。それが園の中央に生えいでさせられた善悪の知識の木でありました。「ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」。神様は、なぜ食べてはいけないものを、よく見える園の中央に生えいでさせられたのだろうか?と私たちは疑問に思うのでありますが、ここで明かとされておりますことは、人は神の恵みの中に生きながらも、神に服従して生きる者ことが求められていたということであります。人には踏み越んではいけない領域があることを教えるために、神様は「ただし、善悪の知識の木からは決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と言われたのです。