天体と生き物の創造 2011年6月26日(日曜 夕方の礼拝)

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天体と生き物の創造

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
創世記 1章14節~23節

聖句のアイコン聖書の言葉

1:14 神は言われた。「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。
1:15 天の大空に光る物があって、地を照らせ。」そのようになった。
1:16 神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。
1:17 神はそれらを天の大空に置いて、地を照らさせ、
1:18 昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた。神はこれを見て、良しとされた。
1:19 夕べがあり、朝があった。第四の日である。
1:20 神は言われた。「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ。」
1:21 神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良しとされた。
1:22 神はそれらのものを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」
1:23 夕べがあり、朝があった。第五の日である。創世記 1章14節~23節

原稿のアイコンメッセージ

 今夕は、第四の日と第五の日の創造の御業についてお話したいと思います。その前に、1つお話しておきたいことは、神様が言葉によってこの世界を創造されたことであります。神様の御言葉の力について記されている代表的な個所はイザヤ書第55章であると思います。そこにはこう記されています。

 雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。そのようにわたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むところを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。

 この御言葉の力を私たちに最も端的に示してくれるのが、私たちが目の当たりにしているこの世界であるわけです。神様が「光あれ」と言われると光があった。神様の言葉はまさしく出来事となる。神様が言葉によって世界を造られたことを覚えますとき、私たちは神様の言葉がどれほど確かさなものであるかを知ることができるのです。そのような意味で、神様に造られたすべてのものが主を証しするものであるのです。以前に、神様が天地を創造されたという信仰の告白が力をもったのはバビロン捕囚の頃であると申しました。イスラエルの民は約束の地であるカナンを失ったとき、おそらく彼らの信仰は揺らいだと思います。約束の地カナンに住んでいることは、神様の約束が真実であったことの証しでありました。しかし、その約束の地を失ったとき、彼らの信仰は揺らいだ、神様の言葉に対する信仰は揺らいだのです。そのような中で、神様が言葉によって天地を造られたという信仰が力を持つわけです。たとえ、異教の地バビロンに連れ去られたとしても、彼らは空を仰ぐことができたでしょう。この空は神の御言葉によって造られたものである。そのことを覚えるとき、彼らは神の御言葉の力を信じることができたと思います。私たちもそうです。神様の御言葉に対して信頼が揺らぐことがあっても、この世界が神様の御言葉によって創造されたことを覚えるとき、私たちは神様の御言葉の力を改めて信じることができるのです。

 さて、それでは創世記の第1章14節から19節までをお読みします。

 神は言われた。「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。天の大空に光る物があって、地を照らせ。」そのようになった。神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。神はそれらを大空に置いて、地を照らさせ、昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた。神はこれを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第四の日である。 

 第四の日に神様は太陽と月と星を造られました。私たちは今、「太陽と月」と申しましたけれども、聖書は「太陽と月」という言葉を用いておりません。「光る物」という言い方をしております。意図的に「太陽」と「月」という言葉を避けているのです。古代の世界において、太陽や月は、神として崇拝の対象とされておりました。それゆえ、聖書は太陽を「光る物の大きい方」、月を「光る物の小さい方」と呼んでいるのです。太陽も月は神様が造られて、天の大空に置かれたものに過ぎないのであります。神様は二つの大きな光る物と星を造られたのは、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなさるためでありました。神様が二つの大きな光る物と星を造られたことにより、私たち人間はカレンダーを作り、予定を立てることができるようになったのです。

 ここまで聞いておられて、太陽や月が第四の日に作られたのはおかしいのではないかと思われる方がおられるかも知れません。少なくとも第三日に植物が造られたのだから、その前には太陽は造られていたのではないかと考えるかも知れません。わたしは意図的に第四の日に太陽や月や星が創造されたと記されているのだと思います。第一の日に太陽や月がすでに造られていたが、それは隠されていたという解釈もあるようですが、わたしはそうではなくて、太陽や月や星がなくても神様は光をあらしめることができるというのが、創世記を記した者の主張ではないかと思うのです。ヨハネの黙示録第21章を見ますと、新しいエルサレムの幻が語られておりますけれども、その23節にこう記されています。「この都には、それを照らす太陽も月も、必要ではない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである」。これはもちろん黙示文学の表現でありますが、しかし、聖書の世界像では太陽や月がなくても光があるということがあるのだと思います。それは現代に生きる私たちの自然科学の世界像から言えばおかしいですけれども、しかし、聖書が描いている世界像は太陽と月によらずとも神は光をもたらすことができるというものであると思います。それゆえ、創世記の記者はあえて第四の日に、神様が太陽や月や星を造られたと記したのです。詩編の第136編にありますように、神様は「昼をつかさどる太陽」と「夜をつかさどる月と星」を造った方であるのです。新約聖書のヤコブの手紙はこの神様について次のように記しています。「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生じる陰もありません」。このように太陽や月を造られたお方こそが光の源であるのです。

 続いて20節から23節までをお読みします。

 神は言われた。「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ。」神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良しとされた。神はそれらを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」夕べがあり朝があった。第五の日である。

 第五の日にはじめて、生き物が創造されます。植物も生き物ではないかと言われそうですが、聖書において自覚的に息をしている物が生き物と考えられていますので、聖書の区分では植物は生き物に含まれません。ここで先ず造られたのは水の中の生き物であります。神様は水に群がるもの、大きな怪物、うごめく生き物を創造されました。ここで「創造された」と言われていることに着目してください。この「創造された」という言葉は、ヘブライ語のバーラーという言葉で、1節に記されておりました。これは以前にもお話しましたが、神様だけを主語とする特別な言葉であります。そして、その際には何の材料も用いないのです。その言葉が生き物の創造のときに用いられるのです。ちなみに16節に「神は二つの大きな光る物と星を造り」とありますが、この「造り」はバーラーではなく、ヤーサーという言葉です。しかし、生き物の場合にはバーラーが用いられる。これは神様だけが命を与えることのできるお方であることを教えております。海の生き物が何百種類いるのか私には分かりませんが、神様は水の中の生き物をお造りになられたのです。魚やイカやタコやクジラなどを神様は創造されたのです。私たちは水族館に行けば、神様の創造の御業の豊かさを見ることができるわけです。21節に「大きな怪物」とありますが、これは詩編第104編で「レビヤタン」と呼ばれているものだと思います。レビヤタンは民間神話に出てくる怪物で、日蝕や月蝕を起こさせると考えられておりました。そのような「大きな怪物」も神様によって創造されたものであるのです。

 また、神様は天の大空の面を飛ぶ翼ある鳥を創造されました。雀、インコ、文鳥、鷲など何百という種類の鳥を神様は創造されたのです。ある注解書を読んでおりましたら、ここには昆虫も含まれると書いてありましたが、よく分かりません。ともかく、神様はこれを見て良しとされ、それらのものを祝福してこう言われたのです。「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ」。神様は水の中の生き物も、空の鳥も雄と雌に造られました。雄と雌は生殖行為をして増え広がっていくのでありますが、それは神様の祝福によるものであることが教えられています。魚も鳥も、本能に従って生殖行為をしているだけに見えるのでありますが、そこには、「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ」という神様の祝福があるのです。魚にせよ、鳥にせよ、あるいは昆虫にせよ、そこに新しい命が生まれるところに、神様の祝福があることを私たちは覚えたいと願います。そのようにして私たちは、神様が創造された命、祝福された命として大切にし、尊ぶ者たちでありたいと願います。

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