初めに神は 2011年6月05日(日曜 夕方の礼拝)

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初めに神は

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
創世記 1章1節~5節

聖句のアイコン聖書の言葉

1:1 初めに、神は天地を創造された。
1:2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
1:3 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。
1:4 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、
1:5 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。創世記 1章1節~5節

原稿のアイコンメッセージ

 夕べの礼拝では旧約聖書の創世記を連続講解したいと思います。旧約聖書のはじめの5つの書物、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記をモーセ五書と呼びます。創世記もモーセ五書の一つでありますから、伝統的にはモーセによって記されたと考えられてきました。しかし、現在多くの学者は、創世記がモーセ1人の手によって記されたのではなくて、様々な口頭伝承や、様々な文書資料が長い時間をかけて段階を経て編集されてできたものと考えております。ある研究者がいっておりますように、現代の書物は作られるものですが、古代の書物は成長するものであったのです(ヴェスターマン)。創世記が最終的に今のかたちになったのは、紀元前6世紀のバビロン捕囚の時代であったと考えられています。

 創世記は大きく2つに分けることができます。それは第1章から第11章までと第12章から第50章までであります。第1章から第11章までは全人類の太古の歴史、いわゆる原初史について記されています。第12章から第50章まではイスラエルの族長たちの歴史について記されています。今朝は太古の歴史、原初史の始まりについて、御一緒に学びたいと願います。

 1節をお読みします。

 初めに、神は天地を創造された。

 ここに世界と歴史の始まりは神様の創造の御業によることが高らかに宣言されています。天地とは「天と地」でありまして、そこに満ちるすべてのものを含みます。ですから、「宇宙」とか「世界」と言い換えてもよいかと思います。この宇宙、世界は神様がお造りになったものである。イエス・キリストにあって私たちの父となってくださった神様が天と地を創造されたのです。それゆえ、私たちは使徒信条において、「わたしは天地の造り主、全能の父なる神を信じます」と告白したわけです。また、神様は天地と共に、時間をも創造されました。時間も神様が造られた被造物であります。教父のアウグスティヌスは、「すべてのものは時間と共に、時間の中に創造された」と言っておりますが、神様が時間と共に天地を創造されたゆえに、「初めに」と聖書は記すことができたわけです。

 「初めに、神は天地を創造された」。この御言葉を読んで皆さんは深い感動を覚えられるでしょうか?そんなこと当たり前じゃないかと軽く読み飛ばしてしまうことがないでしょうか?しかし、どれだけの人が、私たちが住んでいるこの世界は、神様によって造られたことを知っているでしょうか?この世界は偶然にできたのでも、初めから当たり前のように存在していたのでもありません。神様が天と地を創造されたのです。初めに、神様が天地を創造してくださったがゆえに、私たちはこうして生きることができるのです。

 新約聖書のヘブライ人への手紙の第11章3節にこういう御言葉があります。「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」。このように、初めに神様が天地を創造されたことは、信仰によって受けいれることであります。それゆえ、聖書にある神の御言葉を信仰をもって受けいれる者だけが、この世界は神様がお造りになったことを知ることができるのです。

 「初めに、神は天地を創造された」。このことは旧約聖書を経典の一つとするユダヤ教やイスラームでも信じられていることであります。では主イエス・キリストを信じる私たちと彼らとは同じことを信じているのでしょうか?そうではありません。なぜなら、私たちが信じている神様は、父と子と聖霊なる三位一体の神様であるからです。先程私たちは使徒信条を告白しましたけれども、この使徒信条をよく見ますと、父と子と聖霊なる三位一体の神様について告白していることが分かります。天地創造は、父と子と聖霊なる三位一体の神の御業であるのです。それゆえ新約聖書は、この世界がイエス・キリストによって造られたと教えているのです。一個所だけあげますと、コロサイの信徒への手紙第1章15節、16節にこう記されています。「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり万物は御子によって、御子のために造られました」。神の創造の御業が父と子と聖霊なる三位一体の神の御業であることは、今朝の御言葉にも暗示されています。2節を見ますと「神の霊が水の面を動いていた」とありますし、3節には「光あれ。」と神様が言葉を発せられたことが記されています。ヨハネによる福音書のプロローグで、人となられるまえのイエス・キリストが言と呼ばれています。私たちは神様が言葉によって世界を造られたことに、神様がイエス・キリストによって世界を造られたことを重ねて読むことができるのです。

 先程、ヘブライ人への手紙第11章3節をお読みしましたが、そこには「見えるものは、見えているものからできたのではないことが分かる」と言われておりました。私たち人間が何かを造るときは、材料を用いて造るのでありますが、神様は何もないところから、この世界を造られました。それゆえ、神様の創造の御業を「無からの創造」とも言うのです。神様は力ある御言葉により、存在していないものを呼び出して存在させるお方であるのです(ローマ4:17)。この無からの創造を教えるヘブライ人への手紙の御言葉との繋がりから、わたしは創世記第1章1節の「初めに、神は天地を創造された」という御言葉を文字通り神様の最初の行為として読むのがよいと思います。1節は2節以下の表題のように理解されることもあるのですが、そうではなくて、初めに、神は天地を創造されたのです。ここで「創造された」と訳されているヘブライ語は「バーラー」という言葉でありまして、この言葉は神様だけを主語とする、また材料を何も伴わない特別な言葉であります。神様は何もないところから、時間と共に天地を創造されたのです。

 2節をお読みします。

 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

初めに、神様は天地を創造されましたが、ここではその「地」について語られています。神様が創造された地は混沌でありました。この所を口語訳聖書は、「地は形なく、むなしく」と訳しています。また新改訳聖書は、「地は茫漠として何もなかった」と訳しております。「地」はとても人が住めるような状態ではなく、その形をなしていなかった、まさしく混沌、カオスであったのです。闇が深淵、深い淵の面にあり、神の霊が水の面を動いておりました。これは荒れ狂う夜の海のイメージであります。そのような地において、神様はこう言われるのです。

 3節から5節までをお読みします。

 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。

 神様はこの世界をどのようにしてお造りになられたのでしょうか?それは言葉を発することによってでありました。神様が「光あれ」というと、光があった。2節に「神の霊が水の面を動いていた」とありましたけれども、神様の霊が神様の言葉と共き働き、光をあらしめたわけです。世界は神様の言葉と息吹によって造られました(詩編33:6参照)。このことから分かりますことは、神様は生きて働くお方であり、この世界は神様の御意志に基づいて造られたということであります。この世界は神様の永遠の御計画である聖定に基づいて創造されたのです。神様が混沌と闇の地において、初めに造られたのは「光」でありました。光は、命、秩序、救いの象徴でもあります。神様は光を造られることによって、混沌と闇を地から払拭されたのです。神様は光を見て、良しとされました。神様は御自分の御言葉どおりになったことを確認され、満足されたわけです。そして、神様は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれました。光と闇を分けることによって、秩序を打ち立てられる。そして、それは何より昼と夜という時間の秩序であったのです。神様が光を創造され、光と闇を分けられたゆえに、闇は夜となった。闇はやがて開ける夜となったのです。

 この説教の始めに、創世記が最終的に今の形に整えられたのは紀元前6世紀のバビロン捕囚の時代であると申しました。イスラエルが異教の国バビロンに滅ぼさ、奴隷とされるというどん底の中で、神様が天地を創造されたお方であることが宣言されたのです。それはバビロンの宗教の影響もあったのではないかと言われております。バビロンの創造神話には、この世界は神々の戦いの末に、ある女神の体を元として造られたと記されておりました。それに対してイスラエルは、「そうではない。私たちの主なる神こそが、天地を造られたお方である」と告白したのです。このことは、神の創造の御業がバビロン捕囚の民に宛てて記されたイザヤ書の第40章以降に頻繁に記されていることからも支持されます。イザヤ書第42章5節にこう記されています。「主である神はこう言われる。神は天を創造して、これを広げ/その上に住む人々に息を与え/そこを歩く者に霊を与えられる」。また第44章24節にはこう記されています。「あなたの贖い主/あなたを母の胎内に形づくられた方/主はこう言われる。わたしは主、万物の造り主。自ら天を延べ、独り地を踏み広げた」。さらに第45章18節にはこう記されています。「神である方、天を創造し、地を形づくり/造り上げて、固く据えられた方/混沌として創造されたのではなく/人の住むところとして形づくられた方/主はこう言われる。わたしが主、ほかにはいない」。

 もちろん、バビロン捕囚以前にもイスラエルの人々は神様が世界を創造されたことを知っていたと思います(創世記14:22参照)。けれども、それが信仰告白として力をもったのはバビロン捕囚の時代であったのです。それは、イスラエルを取り巻く状況がまさに混沌であり、闇であったからです(エレミヤ4:23参照)。現代の私たちを取り巻く状況はどうでしょうか?3月11日の大地震と大津波によって、私たちは混沌とはどのようなものであるかを垣間見たのではないでしょうか?しかし、そのような混沌と闇の中でも、光は輝いている。世の光であるイエス・キリストは今もなお闇の中で輝いているのです。ですから、私たちは混沌と闇が支配しているような地においても、希望をもって生きることができるのです。混沌と闇の地に、「光あれ」と言われた神様が、私たち一人一人の心にもイエス・キリストの御顔の光を輝かせてくださるのです。

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