主の民として生きるために 2018年11月11日(日曜 朝の礼拝)
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主の民として生きるために
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- 村田寿和 牧師
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出エジプト記 34章10節~28節
聖書の言葉
34:10 主は言われた。「見よ、わたしは契約を結ぶ。わたしはあなたの民すべての前で驚くべき業を行う。それは全地のいかなる民にもいまだかつてなされたことのない業である。あなたと共にいるこの民は皆、主の業を見るであろう。わたしがあなたと共にあって行うことは恐るべきものである。
34:11 わたしが、今日命じることを守りなさい。見よ、わたしはあなたの前から、アモリ人、カナン人、ヘト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い出す。
34:12 よく注意して、あなたがこれから入って行く土地の住民と契約を結ばないようにしなさい。それがあなたの間で罠とならないためである。
34:13 あなたたちは、彼らの祭壇を引き倒し、石柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒しなさい。
34:14 あなたはほかの神を拝んではならない。主はその名を熱情といい、熱情の神である。
34:15 その土地の住民と契約を結ばないようにしなさい。彼らがその神々を求めて姦淫を行い、その神々にいけにえをささげるとき、あなたを招き、あなたはそのいけにえを食べるようになる。
34:16 あなたが彼らの娘を自分の息子にめとると、彼女たちがその神々と姦淫を行い、あなたの息子たちを誘ってその神々と姦淫を行わせるようになる。
34:17 あなたは鋳像の神々を造ってはならない。
34:18 あなたは除酵祭を守りなさい。七日の間、アビブの月の定めの日に、わたしが命じた酵母を入れないパンを食べなさい。アビブの月に、あなたはエジプトを出たからである。
34:19 初めに胎を開くものはすべて、わたしのものである。あなたの家畜である牛や羊の初子が雄であるならば、すべて別にしなければならない。
34:20 ただし、ろばの初子の場合は、小羊をもって贖わねばならない。もし贖わない場合は、その首を折りなさい。あなたの初子のうち、男の子はすべて贖わねばならない。何も持たずに、わたしの前に出てはならない。
34:21 あなたは六日の間働き、七日目には仕事をやめねばならない。耕作の時にも、収穫の時にも、仕事をやめねばならない。
34:22 あなたは、小麦の収穫の初穂の時に、七週祭を祝いなさい。年の終わりに、取り入れの祭りを祝いなさい。
34:23 年に三度、男子はすべて、主なるイスラエルの神、主の御前に出ねばならない。
34:24 わたしはあなたの前から国々の民を追い出し、あなたの国境を広くするが、あなたが年に三度、あなたの神、主の御前に出るために上るとき、だれもあなたの土地を侵すことはないであろう。
34:25 あなたは、わたしにささげるいけにえの血を、酵母を入れたパンと共にささげてはならない。過越祭のいけにえは翌朝まで残しておいてはならない。
34:26 あなたは、土地の最上の初物をあなたの神、主の宮に携えて来なければならない。あなたは子山羊をその母の乳で煮てはならない。」
34:27 主はモーセに言われた。「これらの言葉を書き記しなさい。わたしは、これらの言葉に基づいてあなたと、またイスラエルと契約を結ぶ。」
34:28 モーセは主と共に四十日四十夜、そこにとどまった。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、十の戒めからなる契約の言葉を板に書き記した。出エジプト記 34章10節~28節
メッセージ
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序
今朝は、出エジプト記34章10節から28節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1 わたしは契約を結ぶ
10節で、主はこう仰せになりました。「見よ、わたしは契約を結ぶ」。この主の御言葉は、かつて結んだ契約が破棄されてしまったことを前提にしています。
24章に、モーセを仲介者として、神様とイスラエルの民が契約を結んだことが記されていました。そこで、イスラエルの民は、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言いました。しかし、イスラエルの民は、モーセがシナイ山から降りてくるのを待ちきれずに、金の子牛の像を作り、崇めるという偶像崇拝の罪を犯してしまいました。これによって、神様とイスラエルとの契約は破棄されてしまったわけです。シナイ山から下ったモーセが、二枚の掟の板を投げつけ、砕いてしまったことはそのことを表していたわけです。そして、このことは、イスラエルの民にとって滅びを意味していました。なぜなら、モーセを仲介者として結ばれた神様とイスラエルの民との契約は、動物の血を互いに振りかけるという血の契約であったからです。24章3節から8節を読んで確認したいと思います。旧約の134ページです。
モーセは戻って、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と言った。モーセは主の言葉をすべて書き記し、朝早く起きて、山のふもとに祭壇を築き、十二の石の柱をイスラエルの十二部族のために建てた。彼はイスラエルの人々の若者を遣わし、焼き尽くす献げ物をささげさせ、更に和解の献げ物として主に雄牛をささげさせた。モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言うと、モーセは血を取り、民に振りかけて言った。「見よ、これは主がこれらの言葉に基いてあなたたちと結ばれた契約の血である。」
雄牛の血が、祭壇とイスラエルの民に振りかけられたこと。このことは、契約を破るならば、血を流されてもかまわないという誓いであるのです。ですから、神様は、金の子牛を作って、いけにえをささげたイスラエルの民を、「わたしは彼らを滅ぼし尽くす」と言われたわけです。また、モーセも、そのような主の怒りを正しいと認めつつ、なだめたわけです。33章5節で、主はモーセを通してイスラエルの人々にこう言われました。「あなたたちはかたくなな民である。わたしがひとときでも、あなたの間にあって上るならば、あなたを滅ぼしてしまうかもしれない」。このように、主が言われるのも、24章の血を振りかけた契約の儀式があったからです。しかし、神様は、かたくななイスラエルの民の間にあって上って行くことをよしとしてくださいました。それは神様が、「あなたたちといつも共におられる」主、ヤハウェであり、「憐れみ深く恵みに富む」お方であるからです。神様は、ご自分の民と共におられる主として、また、憐れみ深く恵みに富むお方として、「見よ、わたしは契約を結ぶ」と言ってくださるのです。
では、今朝の御言葉に戻りましょう。旧約の151ページです。
2 驚くべき業
続けて主はモーセにこう言われました。「わたしはあなたの民すべての前で驚くべき業を行う。それは全地のいかなる民にもいまだかつてなされたことのない業である。あなたと共にいるこの民は皆、主の業を見るであろう」。「それは全地のいかなる民にもいまだかつてなされたことのない業」とありますが、ここで「なされた」と訳されている元の言葉は、神様の創造の御業を表すバーラーという言葉です。「それは全地のいかなる民にもいまだかつて創造されたことのない業である」、こう記されているのです。それでは、神様がイスラエルの民のすべての前で行う驚くべき業とは何でしょうか。それは、神様がかたくななイスラエルの罪と過ちを赦し、その間に住んでくださることです。これこそ、神様がイスラエルの民すべての前で行う驚くべき業であり、天地創造に匹敵する新しい出来事であるのです。出エジプト記は、その驚くべき業が実現したことを記して、終わるのですね。出エジプト記40章34節から38節までをお読みします。旧約162ページです。
雲は臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは臨在の幕屋に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。雲が幕屋を離れて昇ると、イスラエルの人々は出発した。旅路にあるときはいつもそうした。雲が離れて昇らないときは、離れて昇る日まで、彼らは出発しなかった。旅路にあるときはいつも、昼は主の雲が幕屋の上にあり、夜は雲の中に火が現れて、イスラエルの家のすべての人に見えたからである。
このように、主はイスラエルの民すべての前で、驚くべき業を行われるのです。また、このようにイスラエルの民は皆、主の驚くべき業を見ることになるのです。
では、今朝の御言葉に戻りましょう。旧約の151ページです。
10節の最後に、「わたしがあなたと共にあって行うことは恐るべきものである」とありますが、ここでの「恐るべきもの」は、11節後半に記されていこと、アモリ人、カナン人、ヘト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い出すことであるようです。主がイスラエルの民と共にあって行う恐るべきこと、それは、主が、御自分の掟を守るイスラエルの民を通して、アモリ人、カナン人、ヘト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い出すことなのです。
3 わたしが今日、命じること
11節前半に、「わたしが、今日命じることを守りなさい」とあり、12節から26節までに神様の掟が記されています。その内容は、主がイスラエルの民にかつて命じられたことです。小見出しに、「戒めの再授与」とありますように、主は、新しいことを語られたのではなく、かつて命じられたことを再びお語りになるのです。主は、金の子牛の像を造って拝んだイスラエルの民に、繰り返し礼拝や祭りについての掟を命じられるのです。
12節から16節には、これから入っていく土地の住民と契約を結ばないこと。異教の祭壇を引き倒し、神々として崇められている石の柱や木の柱を破壊すること。異教の娘を自分の息子の妻に迎えないことが命じられています。それは、イスラエルの民にその土地の神々と姦淫を行わせないためであります。
17節に、「あなたは鋳造の神々を造ってはならない」とあります。自分のために金の子牛の鋳造を造ったイスラエルに対して、主は改めて、「あなたは鋳造の神々を造ってはならない」と言われるのです。
18節に「あなたは除酵祭を守りなさい」と記されています。また、22節に、「あなたは、小麦の収穫の初穂の時に、七週祭を祝いなさい。年の終わりに、取り入れの祭りを祝いなさい」とあります。除酵祭、七週祭、取り入れの祭り、この3つの祭りを受けて、23節で、「年に三度、男子はすべて、主なるイスラエルの神、主の御前に出ねばならない」と記されているわけです。これらの祭りについての掟の中に、「初子について」の掟が組み込まれています。19節に、「初めに胎を開くものはすべて、わたしのものである」とありますが、この初子についての掟は13章に記されていました。13章でも、除酵祭(過越祭)と初子についての掟が組み合わされていました。それは、どちらも、主がイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から導き出されたことに由来するからです。主はイスラエルの民に、約束の土地で、除酵祭を祝い、初子を主にささげることによって、出エジプトの出来事を思い起こすようにされたのです。主は、イスラエルの民が、カナンの土地に住むことになっても、御自分の民であることを忘れないように、除酵祭を祝い、初子をささげるように命じられるのです。人間の初子の場合は、身代金を払って贖うようにと命じられるのです。
26節の後半に、「あなたは子山羊をその母の乳で煮てはならない」とあります。この掟の背後には、カナンの土地に住む人たちが、豊かな作物の実りを神々に祈願する魔術的な行為として、このようなことを行っていたことがあります。「あなたは子山羊をその母の乳で煮てはならない」という掟は、「異教の風習にならってはならない」という掟であるのです。
主はモーセにこう言われました。「これらの言葉を書き記しなさい。わたしは、これらの言葉に基いてあなたと、またイスラエルと契約を結ぶ」。ここで、主は、「わたしは、これらの言葉に基いてあなたと、またイスラエルと契約を結ぶ」と言われました。ここで結ばれる契約は、「これらの言葉」、神様の言葉に基いて結ばれる契約であるのです。「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」というイスラエルの民の言葉に基いて結ばれるのではありません。イスラエルの民の罪と過ちを赦し、御自分の民として受け入れてくださる、憐れみ深く恵みに富む神様の言葉に基いて結ばれるのです。しかも、ここで主は、「モーセと、またイスラエルの民と契約を結ぶ」と言われています。イスラエルの民の指導者であるモーセが契約の頭であるかのように、言われているのです。新しい契約が、イエス・キリストとその民である私たちと結ばれたように、神様は、モーセと、またイスラエルの民と契約を結ぶと言われるのです。
28節にこう記されています。「モーセは主と共に四十日四十夜、そこにとどまった。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、十の戒めからなる契約の言葉を板に書き記した」。「十の戒め」とありますが、元の言葉は「十の言葉」と記されています。これは、20章で、主がイスラエルの民に、直接語られた十の言葉、いわゆる十戒のことです。このことからも契約の内容は変わっていない、同じであることが分かります。ただ、その形式は一回目とは異なります。一回目の板、モーセが砕いてしまった板は、神御自身が作られ、筆跡も神御自身のものであり、板に彫り刻まれていました(32:16参照)。しかし、二回目の板は、モーセが切り出したものであり、モーセが書き記したものであったのです(34:1,28参照)。それは、一回目の板が、イスラエルの民の罪によって破棄されたからですね。しかし、その内容は、まぎれもなく神の言葉であるのです。29節以下に記されている、モーセの顔が光を放っていたことは、そのことを教えているのです。
結 異教の国で主の民として生きるために
結びとして、今朝の御言葉から、異教の国で神の民として生きるために私たちがなすべきことを聞き取りたいと思います。
私たちが住んでいる日本は八百万(やおよろず)の神々が信じられている、まさに異教の国と言えます。また、日本において、イエス・キリストにおいて御自身を示されたまことの神様を信じている人は少数です。日本でイエス・キリストを信じている人は、総人口の1パーセントほどである言われています。そのような少数派である私たちが、イエス・キリストを信じ続けることができるように、神様は、私たちの国に、思想・良心の自由、信教の自由、集会・結社の自由などを与えてくださっています。そのような社会に生きる私たちですから、異教の祭壇を引き倒し、その像を破壊してはなりません。しかし、そのようなものを避けて、偶像崇拝の罪を犯さないようにすることは求められています。他の宗教に熱心な人と結婚すれば、自分も、その神々を拝むようになる危険が増大することになります。このようなことを考慮して、未婚で結婚に召されている方は、伴侶を祈り求めていただきたいと思います。
神様は21節で、「あなたは、六日の間働き、七日目には仕事をやめねばならない」と仰せになりました。これは十戒の第四戒、「安息日を覚えて、これを聖とせよ」という掟です。私たちにも、安息日に準じた日として、日曜日、主の日が与えられています。その主の日ごとに、教会として集い、礼拝をささげることにより、私たちは、異教の国において、主の民として歩むことができるのです。また、月に一度、主の晩餐を祝うことによって、私たちは自分が主イエス・キリストによって贖われた民であり、新しい契約の祝福に生かされていることを思い起こすことができるのです。御言葉と共に臨在される聖霊なる神様が、イエス・キリストの贖いの恵みを、私たち一人一人の内に確かにしてくださるのです。
もし、私たちが主の日の礼拝に出席しなくなったとしたら、どうでしょうか。私たちは、それでも異教の国と言える日本で、主の民として生きていけるでしょうか。決して生きていけません。そのことを、私たちははっきりと心に刻んで、神様が備えてくださる主の日ごとの礼拝を大切にして、歩んでいきたいと願います。