同行される神 2018年10月28日(日曜 朝の礼拝)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

同行される神

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
出エジプト記 33章1節~17節

聖句のアイコン聖書の言葉

新共同訳 サブ聖書ウインドウ No.3

33:1 主はモーセに仰せになった。「さあ、あなたも、あなたがエジプトの国から導き上った民も、ここをたって、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『あなたの子孫にそれを与える』と言った土地に上りなさい。
33:2 わたしは、使いをあなたに先立って遣わし、カナン人、アモリ人、ヘト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い出す。
33:3 あなたは乳と蜜の流れる土地に上りなさい。しかし、わたしはあなたの間にあって上ることはしない。途中であなたを滅ぼしてしまうことがないためである。あなたはかたくなな民である。」
33:4 民はこの悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ、一人も飾りを身に着けなかった。
33:5 主がモーセに、「イスラエルの人々に告げなさい。『あなたたちはかたくなな民である。わたしがひとときでも、あなたの間にあって上るならば、あなたを滅ぼしてしまうかもしれない。直ちに、身に着けている飾りを取り去りなさい。そうすれば、わたしはあなたをどのようにするか考えよう』」と言われたので、
33:6 イスラエルの人々は、ホレブ山をたって後、飾りをはずした。
33:7 モーセは一つの天幕を取って、宿営の外の、宿営から遠く離れた所に張り、それを臨在の幕屋と名付けた。主に伺いを立てる者はだれでも、宿営の外にある臨在の幕屋に行くのであった。
33:8 モーセが幕屋に出て行くときには、民は全員起立し、自分の天幕の入り口に立って、モーセが幕屋に入ってしまうまで見送った。
33:9 モーセが幕屋に入ると、雲の柱が降りて来て幕屋の入り口に立ち、主はモーセと語られた。
33:10 雲の柱が幕屋の入り口に立つのを見ると、民は全員起立し、おのおの自分の天幕の入り口で礼拝した。
33:11 主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。モーセは宿営に戻ったが、彼の従者である若者、ヌンの子ヨシュアは幕屋から離れなかった。
33:12 モーセは主に言った。「あなたはわたしに、『この民を率いて上れ』と言われました。しかし、わたしと共に遣わされる者をお示しになりません。あなたは、また、『わたしはあなたを名指しで選んだ。わたしはあなたに好意を示す』と言われました。
33:13 お願いです。もしあなたがわたしに御好意を示してくださるのでしたら、どうか今、あなたの道をお示しください。そうすれば、わたしはどのようにして、あなたがわたしに御好意を示してくださるか知りうるでしょう。どうか、この国民があなたの民であることも目にお留めください。」
33:14 主が、「わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう」と言われると、
33:15 モーセは主に言った。「もし、あなた御自身が行ってくださらないのなら、わたしたちをここから上らせないでください。
33:16 一体何によって、わたしとあなたの民に御好意を示してくださることが分かるでしょうか。あなたがわたしたちと共に行ってくださることによってではありませんか。そうすれば、わたしとあなたの民は、地上のすべての民と異なる特別なものとなるでしょう。」
33:17 主はモーセに言われた。「わたしは、あなたのこの願いもかなえよう。わたしはあなたに好意を示し、あなたを名指しで選んだからである。」出エジプト記 33章1節~17節

原稿のアイコンメッセージ

 先週で、ヘブライ人への手紙の連続講解説教を終えました。これからの予定としては、出エジプト記から何回か説教をして、コリントの信徒への手紙二の連続講解説教をしたいと考えています。

 昨年、2017年の12月3日と10日の2回に渡って、32章から説教しましたが、随分、前のことですので、文脈を確認してから、今朝の御言葉を説き明かしたいと思います。

 32章1節から6節までには、モーセの帰りを待ちきれなかったイスラエルの民が、アロンに、自分たちに先立って進む神々を造るように求めたこと。そして、アロンが、金の子牛の像を造り、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ」と言い、次の日の朝早く、金の子牛に献げ物をささげて、飲み食いし、立って戯れたことが記されています。イスラエルの民は、シナイ山において、十の言葉、十戒を与えられていました。そこで主は、イスラエルの民に、「あなたは自分のためにいかなる像も造ってはならない」と言われていました。像を用いて神様を礼拝することを禁じられていたのです。しかし、イスラエルの民は、自分たちのために刻んだ像を造り、それを「主」と告白し、安息日でもない日に、その像にいけにえをささげ、食べたり飲んだりしたのでした。

 7節から14節までには、シナイ山での主とモーセの対話が記されています。主は、イスラエルの民が、金の子牛の像を、自分たちをエジプトから導き上った神々として、ひれ伏し、いけにえをささげているのを御覧になり、怒りに燃えて、「イスラエルの民を滅ぼし尽くす」と言われました。それに対して、モーセは、①イスラエルの民が神様によってエジプトから導き出された神様の民であること、②もし神様がイスラエルの民を滅ぼしたら、エジプト人が何と言うか分からないこと、③アブラハム、イサク、イスラエルとの約束が果たせなくなることを申し上げて、神様の怒りをなだめたのです。

 15節から29節までは、下山したモーセと金の子牛を拝んだイスラエルの民とのやりとりが記されています。そこには、アロンの釈明と、レビの子らによって、三千人が倒れたと記されていました。レビの子らは、自分の子や兄弟よりも主を愛することにより、祭司職に任命されたのです。

 30節から35節までは、翌日、モーセがシナイ山に上り、主にとりなしをしたことが記されています。モーセは、「イスラエルの民の罪を赦してくださるならば、命の書にある自分の名前を消し去ってもかまわない」と言ってとりなしました。しかし、主の答えは次のようなものでした。33節です。

 主はモーセに言われた。「わたしに罪を犯した者はだれでも、わたしの書から消し去る。しかし今、わたしがあなたに告げた所にこの民を導いて行きなさい。見よ、わたしの使いがあなたに先立って行く。しかし、わたしの裁きの日に、わたしは彼らをその罪のゆえに罰する。

 神様は、罪を犯した者に、その罪の報いを与えられます。しかし、それは今すぐにではなく、神様が決められた裁きの日においてであるのです。

 今朝の御言葉はこの続きであります。

1 民の嘆き

 主はモーセにこう仰せになりました。「さあ、あなたも、あなたがエジプトの国から導き上った民も、ここをたって、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『あなたの子孫にそれを与える』と言った土地に上りなさい。わたしは、使いをあなたに先立って遣わし、カナン人、アモリ人、ヘト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い出す。あなたは乳と蜜の流れる土地に上りなさい。しかし、わたしはあなたの間にあって、上ることはしない。途中であなたを滅ぼしてしまうことがないためである。あなたはかたくなな民である」。

 この主の御言葉は、32章13節のモーセの言葉を受けてのものです。そこで、モーセは主にこう言っていました。「どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓って、『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか」。このモーセの言葉を受けて、主は33章1節で、「さあ、あなたも、あなたがエジプトの国から導き上った民も、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『あなたの子孫にそれを与える』と言った土地に上りなさい」と仰せになるのです。ここで「あなたがエジプトの国から導き上った民」と言われていることに注意したいと思います。この言い方は、32章7節でもされていました。「主はモーセに仰せになった『直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し」云々とあります。それに対して、モーセは、32章11節で、「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトから導き出された民ではありませんか」と言うのです。モーセは、イスラエルの民を導き出したのは自分ではなく、神様である。それゆえ、イスラエルは神様の民であると言ったのです。しかし、33章1節で、主は、イスラエルの民を、「モーセがエジプトから導き上った民」と言うのです。神様は、御自分の掟に背いて、金の子牛の像にひれ伏し、いけにえをささげたイスラエルの民を、御自分の民とは呼ばないのですね。神様は、確かに、熱情の神、ねたむ神であるのです。

 2節に記されていることは、23章20節に記されていたことでもあります。23章20節には、「見よ、わたしはあなたの前に使いを遣わして、あなたを道で守らせ、わたしの備えた場所に導かせる」と記されています。23章では、「使い」は、神様の臨在を表すものでありました。しかし、33章では、「使い」は神の臨在とは区別されています。と言いますのも、3節の後半に「しかし、わたしはあなたの間にあって上ることはしない」と言われているからです。そして、それはイスラエルの民を滅ぼすことがないようにするためでありました。神様の御言葉に従わず、自分の思うとおりに振る舞う、かたくななイスラエルの民の間に、神様が住まわれるならば、彼らを滅ぼしかねないと言われるのです。

 イスラエルの民は、「神様がイスラエルの間にあって上ってくださらない」という悪い知らせを聞いて嘆き悲しみました。そして、そのことの表れとして、飾りをはずしたのです。この飾りは、イスラエルの民がエジプトを出る際に、分捕り物として、エジプト人から受けたものです。また、この飾りによって、金の子牛の像が造られたのでした。そのような飾りを外して、イスラエルの民は、主が自分たちをどのようにされるのかを、待ったのです。

2 臨在の幕屋

 7節に、「モーセは一つの天幕を取って、宿営の外の、宿営から遠く離れた所に張り、それを臨在の幕屋と名付けた」とあります。この幕屋は、25章以下で、造るように命じられた幕屋ではありません。なぜなら、25章以下で造るように命じられている幕屋は、神様がイスラエルの民の中に住むためのものであるからです(25:8参照)。しかし、ここでは、宿営の外に、宿営から遠く離れた所に、天幕が張られるのです。主は、この幕屋に臨在され、モーセとお語りになりました。主は、シナイ山ではなく、宿営から遠く離れた幕屋に臨在され、モーセと語られたのです。11節に、「主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた」とあるように、神様はモーセに直接、親しく語りかけられたのです。

3 同行される神

 12節以下は、臨在の幕屋での、主とモーセの対話が記されています。モーセは、主にこう言いました。「あなたはわたしに、『この民を率いて上れ』と言われました。しかし、わたしと共に遣わされる者をお示しになりません。あなたは、また、『わたしはあなたを名指しで選んだ。わたしはあなたに好意を示す』と言われました。お願いです。もしあなたがわたしに御好意を示してくださるのでしたら、どうか今、あなたの道をお示しください。そうすれば、わたしはどのようにして、あなたがわたしに御好意を示してくださるか知りうるでしょう。どうか、この国民があなたの民であることも目にお留めください。」

 3章に、神様がモーセに現れて、イスラエルの民のもとに遣わされたことが記されています。その所を開いて、確認したいと思います。旧約の96ページです。

 3章4節で、神様は、燃える柴の間から、「モーセよ、モーセよ」と呼びかけられました。そして、モーセにこう言われるのです。7節から少しお読みします。

 主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫びを聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」

 このように、神様はモーセに言われるのですが、モーセは、「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」と言って、断ります。そのようなモーセに、神様はこう言われたのです。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである」。神様は、遣わされるモーセと共にいてくださることを約束してくださったのです。「わたしは必ずあなたと共にいる」。この御言葉が、14節では、「わたしはある。わたしはあるという者だ」という神様の御名として告げられるのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。旧約の150ページです。

 13節で、モーセは、神様の自分に対する好意について述べていますが、神様の好意こそ、「わたしは必ずあなたと共にいる」ということでありました。その神様の御言葉を思い起こしていただくように、モーセはここで語っているのです。また、モーセは、神様の御言葉、「わが民イスラエルの人々をエジプトから導き出すのだ」という御言葉を思い起こしていただくように、「この国民があなたの民であることも目にお留めください」と言うのです。

 主は、モーセを名指しで選び、好意を示す者として、「わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう」と言われました。主は、「わたしは必ずあなたと共にいる」という御言葉のとおり、モーセに同行し、約束の地へと導き安息を与えると言われるのです。

 しかし、モーセは、自分とだけではなく、イスラエルの民と神様が共にいてくださることを確認するためにこう言います。「もし、あなた御自身が行ってくださらないのなら、わたしたちをここから上らせないでください。一体何によって、わたしとあなたの民に御好意を示してくださることが分かるでしょうか。あなたがわたしたちと共に行ってくださることによってではありませんか。そうすれば、わたしとあなたの民は、地上のすべての民と異なる特別なものとなるでしょう」。ここでは、主の御好意の対象が、モーセひとりから、イスラエルの民へと広がっています(13節と16節を比較)。モーセは、自分に好意を示してくださるのであれば、神様が自分に導き出すように命じられた御自分の民にも好意を示してくださるべきであると言うのですね。そして、その好意とは、神様が共に行ってくださることであるのです。神の民イスラエルと他の民との違いは何か。それは、神様が共に歩んでくださることであるのです。

 主はモーセにこう言われました。「わたしは、あなたのこの願いもかなえよう。わたしはあなたに好意を示し、あなたを名指しで選んだからである」。このように、モーセに対する主の好意は、イスラエルの民にも及ぶことになります。すなわち、神様は、かたくななイスラエル民の間にあって上ってくださるのです。

結 イエス・キリストにあって共にいてくださる神

 最後に、今夕の御言葉を、私たちに当てはめて考えてみたいと思います。私たちには、モーセにまさる指導者、イエス・キリストが与えられています。モーセに対する神様の好意がイスラエルの民に及んだように、イエス・キリストに対する神様の好意が、イエス・キリストを信じる私たちにも及びます。つまり、神様は、イエス・キリストと共におられたように、私たちとも共にいてくださるのです。より正確に言えば、神様はイエス・キリストにあって、私たちと共にいてくださるのです。神様は直接、私たちと共にはおられません。イエス・キリストにあって、私たちと共にいてくださるのです。ですから、かたくなな私たちが滅ぼされずに済むわけです。神様は、十字架と復活の主イエス・キリストにおいて、私たちと共にいて、歩んでくださる。これこそ、他の人々と私たちを区別するしるしであるのです。私たちが神様の特別な民であるのは、イエス・キリストにあって、神様が共に歩んでくださることによるのです。そのような神様の御好意を、私たちは、イエス・キリストの御名によってささげる主の日の礼拝ごとに確認することができるのです(マタイ18:20参照)。

関連する説教を探す関連する説教を探す