憐れみ深く恵みに富む神 2018年11月04日(日曜 朝の礼拝)
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憐れみ深く恵みに富む神
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- 村田寿和 牧師
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出エジプト記 33章18節~34章9節
聖書の言葉
33:18 モーセが、「どうか、あなたの栄光をお示しください」と言うと、
33:19 主は言われた。「わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。」
33:20 また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」
33:21 更に、主は言われた。「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。あなたはその岩のそばに立ちなさい。
33:22 わが栄光が通り過ぎるとき、わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、わたしの手であなたを覆う。
33:23 わたしが手を離すとき、あなたはわたしの後ろを見るが、わたしの顔は見えない。」
34:1 主はモーセに言われた。「前と同じ石の板を二枚切りなさい。わたしは、あなたが砕いた、前の板に書かれていた言葉を、その板に記そう。
34:2 明日の朝までにそれを用意し、朝、シナイ山に登り、山の頂でわたしの前に立ちなさい。
34:3 だれもあなたと一緒に登ってはならない。山のどこにも人の姿があってはならず、山のふもとで羊や牛の放牧もしてはならない。」
34:4 モーセは前と同じ石の板を二枚切り、朝早く起きて、主が命じられたとおりシナイ山に登った。手には二枚の石の板を携えていた。
34:5 主は雲のうちにあって降り、モーセと共にそこに立ち、主の御名を宣言された。
34:6 主は彼の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、
34:7 幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。」
34:8 モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏して、
34:9 言った。「主よ、もし御好意を示してくださいますならば、主よ、わたしたちの中にあって進んでください。確かにかたくなな民ですが、わたしたちの罪と過ちを赦し、わたしたちをあなたの嗣業として受け入れてください。」出エジプト記 33章18節~34章9節
メッセージ
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序
前回は、主のモーセに対する好意が、イスラエルの民に及んだことを学びました。主はモーセに、「わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう」と言われましたが、この主の御好意は、そのまま、イスラエルの民にも及ぶのです。すなわち、主は、かたくななイスラエルの民と共に歩んでくださり、約束の地カナンでイスラエルに安息を与えてくださるのです。
今朝の御言葉はその続きであります。
1 主の栄光
18節に、「モーセが、『どうか、あなたの栄光をお示しください』と言うと」とあります。これは唐突な印象を受けますが、17節の、主の御言葉を受けてのものです。「主はモーセに言われた。『わたしは、あなたのこの願いもかなえよう。わたしはあなたに好意を示し、あなたを名指しで選んだからである』」。神様がモーセを名指しで選んだことは、3章に記されていました。神様は、燃える柴の間から、「モーセよ、モーセよ」と語りかけ、「我が民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」と言われたのでした。その神様に、モーセは、「どうか、あなたの栄光をお示しください」と願ったのです。この願いは、神様を直接見たいという願いであったようです。これまで神様は、雲の柱や火の柱において、ご自身を現されました。しかし、モーセはここで、神様のお姿を見せてほしいと願ったのです。それに対して、主はこう言われました。「わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ」。「すべてのわたしの善い賜物」とは、神様のあらゆる善、神様のあらゆる善いご性質のことです。34章6節以下に、「憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち」云々とありますが、これらが、神様がモーセの前を通らせるあらゆる善であるのです。また、神様は、「あなたの前に主という名を宣言する」と言われますが、これこそ、3章において、モーセに示された神様の御名でありました。主と訳されるヤハウェという御名は、「わたしはある」という意味ですが、それは、「あなたと共にわたしはある」という意味です(3:12、14参照)。神様は、一度は、「わたしはあなたの間にあって上ることはしない」と言われましたが、再び、「あなたと共にいる」主、ヤハウェという御名を宣言してくださるのです。このように、神様がモーセの願いをかなえてくださるのは、神様の一方的な恵み、憐れみによることであるのです。「わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ」。この主の御言葉は、そのことを私たちに教えているのです。
また、神様はモーセにこう仰せになりました。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである」。「人が神様の顔を見るならば、死んでしまう」と言われるのです。それゆえ、主は更にこう言われます。「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。あなたはその岩のそばに立ちなさい。わが栄光が通り過ぎるとき、わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、わたしの手であなたを覆う。わたしが手を離すとき、あなたはわたしの後ろを見るが、わたしの顔は見えない」。神様は、モーセにご自分の後ろを見ることをお許しになりました。このことは、私たちに大切なことを教えています。それは、「神様は、前から知ることはできないが、後(あと)から知ることができる」ということです(神様の顔を見るとは前から神様を知ること)。神様が歴史においてなされたことを通して、私たちは神様を知ることができるのです。
2 憐れみに深く恵みに富む神
主はモーセにこう言われました。「前と同じ石の板を二枚切りなさい。わたしは、あなたが砕いた、前の板に書かれていた言葉を、その板に記そう。明日の朝までにそれを用意し、朝、シナイ山に登り、山の頂でわたしの前に立ちなさい。だれもあなたと一緒に登ってはならない。山のどこにも人の姿があってはならず、山のふもとで羊や牛の放牧もしてはならない。」
「前と同じ石の板」については、32章15節、16節にこう記されていました。「モーセが身を翻して山を下るとき、二枚の掟の板が彼の手にあり、板には文字が書かれていた。その両面に、表にも裏にも文字が書かれていた。その板は神御自身が作られ、筆跡も神御自身のものであり、板に彫り刻まれていた」。この二枚の掟の板を、モーセは投げつけて、山のふもとで砕いてしまったのです。32章19節にこう記されていました。「宿営に近づくと、彼は若い雄牛の像と踊りを見た。モーセは激しく怒って、手に持っていた板を投げつけ、山のふもとで砕いた」。このモーセが砕いた板と同じ石の板を用意して山に登るように主は言われるのです。そして、その石の板に、前に書かれていた言葉と同じ言葉を記そうと主は言われるのです。主は再び、シナイ山において、モーセを通して、イスラエルの民に掟を与えられるのです。
モーセは主に命じられたとおり、石の板を二枚切り、朝早く起きて、シナイ山に登りました。主は雲のうちにあって降り、モーセと共にそこに立ち、主の御名を宣言されました。このことは、19節の御言葉の実現ですね。主は、モーセと共に立ち、ご自分こそ、あなたと共にいる神、主、ヤハウェであると宣言されたのです。そして、主はモーセの前を通り過ぎて宣言されました。おそらく、目に見ることのできない眩しい光が通り過ぎ、そこから主の御声が聞こえてきたのでしょう。ここには書いてありませんが、22節に言われていたように、このとき、モーセは岩の裂け目に入って、神様の御手で覆われていたのでしょうね。この6節で、主が通り過ぎて宣言されたことこそ、19節で言われていた、神様のあらゆる善、神様のご性質であるのです。
「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者」。
主は、金の子牛を作って、神として拝んだイスラエルの民を滅ぼすことなく、共に歩んでくださいます。このことは、神様がどのようなお方であるかを示す契機となりました。金の子牛の像を拝んだイスラエルの民と共に歩まれることによって、神様が憐れみ深く、恵みに富むお方であることがあらわとなったのです。神様が、金の子牛の像を拝んだイスラエルと共に歩まれる主であられるのは、神様が憐れみ深く恵みに富み、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦すお方であるからなのです。しかし、罰をまったく与えないということではありません。神様は罰すべき者には罰を与えられる正しいお方であるのです。「父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者」とありますが、これは当時のひと世帯が三代、四代からなっていたことを前提にしています。父の罪は一緒に住んでいる子や孫にも及びました。それゆえ、主は父の罪を子や孫にも問うと言われているのです。
モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏してこう言いました。「主よ、もし御好意を示してくださいますならば、主よ、わたしたちの中にあって進んでください。確かにかたくなな民ですが、わたしたちの罪と過ちを赦し、わたしたちをあなたの嗣業として受け入れてください」。
モーセは、二度、「主よ」と呼びかけていますが、これは、ヤハウェという神様のお名前ではなく、「わたしの主人」アドナイという言葉です。モーセは、神様がどのようなお方であるかを知って、主に、「確かにかたくなな民ですが、わたしたちの罪と過ちを赦し、わたしたちをあなたの民として受け入れてください」と願うのです。このモーセの言葉は、19章の主の御言葉を背景にしています。19章には、イスラエルの人々が、エジプトの国を出て、シナイ山についたことが記されていました。そのイスラエルの民に、主はモーセを通してこう言われました。19章5節、6節をお読みします。「今、もしわたしの声に聞き従い/わたしの契約を守るならば/あなたたちはすべての民の間にあって/わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって/祭司の王国、聖なる国民となる」。神様は、わたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはわたしの宝の民となると言われました。しかし、今や、イスラエルの人々は、金の子牛の像を拝んで、神様の掟に背いてしまったのです。ですから、イスラエルの人々は神様の民と呼ばれる資格がないのです。しかし、モーセはそのことを認めつつ、私たちの罪と過ちを赦して、わたしたちをあなたの民としてくださいと願うのです。そして、神様は、モーセの願いどおり、10節以下で契約を再び結んでくださるわけです。
ここに、神様とイスラエルの民とが共に歩む、新しいあり方が示されています。19章では、神様は、ご自分の掟を守られるイスラエルの人々と共にいると言われました。しかし、イスラエルの人々が金の子牛の像を拝む罪を犯したことにより、神様はイスラエルの人々の罪と過ちを赦すという仕方で、共にいてくださるのです。そして、このことによって、イスラエルの民と共におられる主は、憐れみ深く恵みに富む神であることが示されたのです。神様の憐れみと恵みは、イスラエルの人々の罪を赦し、ご自分の民として受け入れてくださることによって示されるのです。
結 主イエスによって示された憐れみと恵み
前回の説教において、主が共に歩んでいくださる祝福が、イエス・キリストにおいて、私たちに実現していると申しました。今朝の説教においても、同じことが言えます。私たちの罪を赦し、ご自分の民として受け入れてくださるという主の憐れみと恵みは、主イエス・キリストにおいて、完全に実現したのです。私たちの罪のために死んでくださり、私たちを正しい者とするために復活された主イエス・キリストにあって、私たちは、すべての罪を赦され、神の宝の民とされているのです。
私たちは主の日の礼拝ごとに、罪を告白し、赦しの宣言を受けます。そのことは、神様がイエス・キリストにあって、すべての罪を赦し、ご自分の民として受け入れてくださる憐れみ深い、恵みに富むお方であることを示しているのです。また、そのことは、これからあずかる聖餐の恵みにおいても言えます。私たちは、キリストの体であるパンを食べ、キリストの血であるぶどう酒を飲むことによって、私たちと共におられる神様が憐れみ深く恵みに富むお方であることを味わい知ることができるのです。