机と燭台 2017年4月30日(日曜 夕方の礼拝)
問い合わせ
机と燭台
- 日付
-
- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書
出エジプト記 25章23節~40節
聖書の言葉
25:23 アカシヤ材で机を作りなさい。寸法は縦二アンマ、横一アンマ、高さ一・五アンマ。
25:24 純金で覆い、金の飾り縁を作る。
25:25 一トファの幅の枠で四本の脚を補強し、枠にも金の飾り縁を作る。
25:26 四つの金環を作り、それぞれの脚の外側に付けるが、
25:27 枠の高さに付け、机を担ぐ棒を通す環とする。
25:28 アカシヤ材で棒を作って金で覆い、机を担ぐ棒とする。
25:29 皿、柄杓、小瓶、水差しを作り、ぶどう酒の献げ物をささげるのに用いる。これらは、純金で作る。
25:30 この机に供えのパンを、絶えずわたしの前に供えなさい。
25:31 純金で燭台を作りなさい。燭台は打ち出し作りとし、台座と支柱、萼と節と花弁は一体でなければならない。
25:32 六本の支柱が左右に出るように作り、一方に三本、他方に三本付ける。
25:33 一本の支柱には三つのアーモンドの花の形をした萼と節と花弁を付け、もう一本の支柱にも三つのアーモンドの花の形をした萼と節と花弁を付ける。燭台から分かれて出ている六本の支柱を同じように作る。
25:34 燭台の主柱には四つのアーモンドの花の形をした萼と節と花弁を付ける。
25:35 節は、支柱が対になって出ている所に一つ、その次に支柱が対になって出ている所に一つ、またその次に支柱が対になって出ている所に一つと、燭台の主柱から出ている六本の支柱の付け根の所に作る。
25:36 これらの節と支柱は主柱と一体でなければならず、燭台全体は一枚の純金の打ち出し作りとする。
25:37 次に、七個のともし火皿を作り、それを上に載せて光が前方に届くようにする。
25:38 また、芯切り鋏と火皿を純金で作る。
25:39 燭台とこれらすべての祭具とを重さ一キカルの純金で作る。
25:40 あなたはこの山で示された作り方に従い、注意して作りなさい。
出エジプト記 25章23節~40節
メッセージ
関連する説教を探す
主はモーセをシナイ山に登るよう命じられました。そして、主はモーセに、御自分のためにの聖なる所をイスラエルの人々に造られるよう命じられるのです。25章8節、9節にこう記されています。「わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう。わたしが示す作り方に正しく従って、幕屋とそのすべての祭具を造りなさい」。幕屋とそのすべての祭具は、主が示す作り方に従って造らねばなりませんでした。それゆえ、主は、10節以下で、それらをどのように造ればよいかを示されるのです。
前回、私たちは、「掟の箱と贖いの座」の作り方について学んだのであります。簡単に言えば、箱と蓋であります。この箱が「掟の箱」と呼ばれるのは、主がモーセに与える掟の板、十戒が記された石板を納めるためでありました。この掟の板は、神様がイスラエルの民と契約を結んで、イスラエルを御自分の民とされたことの証書であったのです。掟の板は、紀元前6世紀、バビロニア帝国によってエルサレムが陥落した際に失われてしまいました。しかし、神様は、私たちの心の板に、聖霊によって神の掟を書き記すことによって、イエス・キリストを信じる私たちが神の民であることを証ししてくださっているのです。また、箱の蓋が贖いの座と呼ばれるのは、そこに主が御臨在してくださり、年に一度、祭司によって贖いの儀式が行われたからでありました。使徒パウロは、ローマ書の3章で、この贖いの座こそ、十字架につけられたイエス・キリストであると記しております。神様は、十字架につけられたイエス・キリストにおいて、贖いの座を公に示された。十字架につけられ、復活させられたイエス・キリストの御名こそ、神様が御臨在される贖いの座であるのです。神様はイエス・キリストの名によって、二人、または三人が集まるただ中に御臨在してくださるのです。
ここまでは、前回のお話の振り返りであります。今夕はその続きである机と燭台の作り方について学びたいと思います。
23節から30節までをお読みします。
アカシヤ材で机を作りなさい。寸法は縦2アンマ、横1アンマ、高さ1.5アンマ。純金で覆い、金の飾り縁を作る。1トファの幅の枠で4本の足を補強し、枠にも金の飾り縁を作る。四つの金環を作り、それぞれの足の外側に付けるが、枠の高さに付け、机を担ぐ棒を通す環とする。皿、柄杓、小瓶、水差しを作り、ぶどう酒の献げ物をささげるのに用いる。これらは、純金で作る。この机に供えのパンを、絶えずわたしの前に供えなさい。
アカシヤ材は、堅く、腐りにくい木材であります。これは箱を作る時にも用いられました。また、寸法が記されていますが、1アンマは肘から中指までの長さで、約45㎝であります。参考資料をお配りしましたが、そこに机の図が記されています。机の寸法は縦2アンマ・約90㎝、横1アンマ・約45㎝、高さ1.5アンマ、約68㎝であります。この机も金で覆うようにと命じられています。箱も金で覆うようにと言われていましたが、机も金で覆うよう命じられているのです。この後に記されている燭台も純金で作るように言われているのですが、それは机も燭台も、聖所に置かれるものであり、主の御臨在を表すものであるからです。お配りした参考資料に、「幕屋の平面図」がありますが、これを見ると、机と燭台が聖所に置かれることが分かります。机も燭台も主の御臨在を表すものであるゆえに、金で覆うように、あるいは金で作るように命じられているのです。また、机にも金環を作るように、また、机を担ぐための棒を作るように命じられています。このことは、主がイスラエルの民と共に歩まれる神であることを示しています。ただし、ここでは、担ぐ棒を抜かずにおくとは言われておりません。掟の箱のときは、「棒はその環に通したまま抜かずに置く」と言われていましたが、机はそこまで言われておりません。これは掟の箱の蓋である贖いの座こそ、主が御臨在される玉座であるからです。この机は何のために作られたのでしょうか?それは、動物以外の献げ物を主にささげるためであります。この机において、パンとぶどう酒が献げられたのです。そのための皿、柄杓、小瓶、水差しを金で作るようにと命じられています。言わばこの机は、主の食卓であるのです。日ごとに、パンとぶどう酒を供える。このことは、何を意味するのでしょうか?ある研究者は、もともとは神様の食事して献げられたのだろうと言っておりました。しかし、これは主が示されたことですから、そうではないと思います(詩50:13「わたしが雄牛の肉を食べ/雄山羊の血を飲むとでも言うのか」参照)。主はパンとぶどう酒を日ごとに供えさせることによって、そのパンとぶどう酒を与えられるのは御自分であることを示されたのです。祭司は、供えのパンのおさがりを食べることによって、そのことを体験として教えられたわけです。また、そのことは、イスラエルの人々が天からのパン、マナによって体験として教えられたことでありました。私たちも、すべてのものは主から与えられると信じております。会社から給料をもらったとしても、それは主からいただいたものであるのです。そのことを文字通り体験できるのが、牧師でありますね。牧師は、教会で働き、教会から収入を与えられます。主に養っていただいていることを文字通り体験できるのです。イエス様は、主の祈りの中で、「日ごとの糧を今日与えてください」と祈るよう命じられました。そのことを、主の食卓のパンを食べる祭司は、体験することができたわけです。そして、それはイスラエルの民一人一人においても言えることであるのです。
31節から40節までをお読みします。
純金で燭台を作りなさい。燭台は打ち出し作りとし、台座と支柱、萼と節と花弁は一体でなければならない。6本の支柱が左右に出るように作り、一方に3本、他方に3本付ける。1本の支柱には、3つのアーモンドの花の形をした萼と節と花弁を付け、もう1本の支柱にも3つのアーモンドの花の形をした萼と節と花弁を付ける。燭台から分かれて出ている6本の支柱を同じように作る。燭台の主柱には4つのアーモンドの花の形をした萼と節と花弁を付ける。節は、支柱が対になって出ている所に1つ、その次に支柱が対になって出ている所に1つ、またその次に支柱が対になって出ている所に1つと、燭台の主柱から出ている6本の支柱の付け根の所に作る。これらの節と支柱は主柱と一体でなければならず、燭台全体は一枚の純金の打ち出し作りとする。
次に、7個のともし火皿を作り、それを上に載せて光が前方に届くようにする。また、芯切り鋏と火皿を純金で作る。
あなたはこの山で示された作り方に従い、注意して作りなさい。
「燭台」とありますが、ローソクが発明されたのは、紀元前3世紀頃と言われておりますので、この時代には、まだローソクはありません。よって、ここでの燭台とは、「ともしび台」「ランプ台」のことであります。奇妙なことに、ともしび台の寸法は記されておりません。しかし、39節に、「燭台とこれらすべての祭具とを重さ1キカルの純金で作る」とあります。1キカルは、約34㎏でありますから、大きな燭台であったようです。お配りした参考資料に、ランプ台の図がありますが、これは、ティトスの凱旋門に描かれている浮彫を参考して描かれたものであります。ティトゥスとは紀元70年にエルサレムを陥落させたローマの将軍であります。ローマの将軍ティトゥスは、エルサレムを滅ぼした戦利品として、神殿にあったランプ台を持ち帰ったのです。その様子が凱旋門に浮彫で描かれているのです。幕屋には窓はありませんでしたから、ともしび台が唯一の光となるわけです。ここで、「アーモンドの花の形をした萼と節と花弁を付ける」ように命じられておりますが、アーモンドの花は、他の花に先立って咲く花でありました。日本において、梅の花が春の到来を告げるように、アーモンドの花は春の到来を告げる花であったのです。そのためでしょうか?アーモンドは見張る者、目覚める者を意味しおりました(エレミヤ1:11、12参照)。また、火は、神様の臨在の象徴でもあります。アーモンドの花に、ともし火が置かれていることは、主がまどろむことも眠ることもない御方として、イスラエルの民を見守っておられることを示しているのです(詩121:4参照)。
私たちが礼拝をささげているこの所には、パンとぶどう酒を供えるための机も、また、7本の腕を持つともしび台もありません。けれども、私たちは、今夕の御言葉を通して、主が、私たちの日ごとの食べ物、飲み物を与えてくださる御方であること、主がまどろむことも眠ることもなく、私たちを見守っていてくださることを、心に留めたいと願います。