契約の締結 2017年2月12日(日曜 夕方の礼拝)
問い合わせ
契約の締結
- 日付
-
- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書
出エジプト記 24章1節~11節
聖書の言葉
24:1 主はモーセに言われた。「あなたは、アロン、ナダブ、アビフ、およびイスラエルの七十人の長老と一緒に主のもとに登りなさい。あなたたちは遠く離れて、ひれ伏さねばならない。
24:2 しかし、モーセだけは主に近づくことができる。その他の者は近づいてはならない。民は彼と共に登ることはできない。」
24:3 モーセは戻って、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と言った。
24:4 モーセは主の言葉をすべて書き記し、朝早く起きて、山のふもとに祭壇を築き、十二の石の柱をイスラエルの十二部族のために建てた。
24:5 彼はイスラエルの人々の若者を遣わし、焼き尽くす献げ物をささげさせ、更に和解の献げ物として主に雄牛をささげさせた。
24:6 モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、
24:7 契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言うと、
24:8 モーセは血を取り、民に振りかけて言った。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」
24:9 モーセはアロン、ナダブ、アビフおよびイスラエルの七十人の長老と一緒に登って行った。
24:10 彼らがイスラエルの神を見ると、その御足の下にはサファイアの敷石のような物があり、それはまさに大空のように澄んでいた。
24:11 神はイスラエルの民の代表者たちに向かって手を伸ばされなかったので、彼らは神を見て、食べ、また飲んだ。出エジプト記 24章1節~11節
メッセージ
関連する説教を探す
小見出しに「契約の締結」と記されておりますように、今夕の御言葉には、主とイスラエルの人々が正式に契約を結んだことが記されています。主はイスラエルの人々をエジプトの奴隷状態から解放され、シナイ山へと導かれました。そして、主はイスラエルの人々に十の言葉を直接お語りになり、モーセを通して法をお与えになりました。これらのことはすべて、イスラエルの人々と契約を結び、彼らを正式に御自分の民とするためであったのです。
主はモーセにこう言われました。「あなたは、アロン、ナダブ、アビフ、およびイスラエルの七十人の長老と一緒に主のもとに登りなさい。あなたたちは遠く離れて、ひれ伏さねばならない。しかし、モーセだけは主に近づくことができる。その他の者は近づいてはならない。民は彼と共に登ることはできない」。アロンとはモーセの兄であり、ナダブとアビフはアロンの息子たちであります(6:23参照)。また、「イスラエルの七十人の長老」とありますが、この七十人の長老たちが、いつ立てられたのかは分かりません。18章に、モーセのしゅうとであるエトロが民の長を立てるように助言したと記されていますから、その時であるかも知れません。ちなみに、イエス様の時代の最高法院は70人の議員から成り立っていましたが、それはここに由来しています。ともかく、主はモーセに、アロンとナダブとアビフ、およびイスラエルの七十人の長老を連れて御自分のもとに登るよう命じられるのです。そして、遠く離れて、ひれ伏すよう命じられるのです。神様は近寄りがたい、畏るべき御方であるのです。しかし、モーセだけは主に近づくことができました。モーセは主が選んだ特別な器、主の僕であるのです。そして、主はこのモーセを仲介者として、イスラエルの人々と契約を結ばれるのです。
モーセは戻って、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせました。「主のすべての言葉」とは、20章に記されていた十の言葉、十戒を指すと思われます。また、「すべての法」とは21章から23章までに記されていた法を指すと思われます。モーセは主のすべての言葉とすべての法を暗記していたのでしょう。モーセが主のすべての言葉と法を民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と言いました。モーセは主の言葉をすべて書き記しました。モーセは心の板に書き記していた主の言葉を、誰でも読むことができるように石の板に、あるいは羊皮紙に書き記したのです。そして、朝早く起きて、山のふもとに祭壇を築き、十二の石の柱をイスラエルの十二部族のために建てたのでありました。イスラエルの人々はヤコブの12人の兄弟の子孫たちであり、12の部族から成っていました。モーセは神様が臨在される周りに十二の柱を建てることにより、イスラエルのすべての部族が神様との契約にあずかることを表したのです。モーセはイスラエルの人々の若者を遣わし、焼き尽くす献げ物をささげさせ、更に和解の献げ物として主に雄牛をささげました。ここで献げ物をささげたのが「若者」と記されていますが、これは正式に祭司が任命されていなかったからであると思います(32:29参照)。雄牛をいけにえとしてささげることは、力仕事でありますから、元気な若者が用いられたのだと思います。焼き尽くす献げ物や和解の献げ物については、レビ記に詳しく記されていますが、焼き尽くす献げ物は完全な献身を表します。また、和解の献げ物は肉の一部を食べる食事を伴うものであります。モーセは雄牛の血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、契約の書を取り、民に読んで聞かせました。「契約の書」とは、モーセが主の言葉をすべて書き記したもののことであります(24:4参照)。イスラエルの人々が、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言うと、モーセは血を取り、民に振りかけてこう言いました。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である」。このようにして、イスラエルの人々はモーセを介して契約を結び、正式に主の民となったのです。
この契約の締結の場面には、モーセが主のすべての言葉を語ったことと、イスラエルの人々が「わたしたちは、主が語られたことをすべて行い守ります」と答えたことが二度記されています。これはイスラエルの人々がその契約についてよく知らされており、そのうえで誓ったことを示しています。契約を結ぶとき、それがどのような契約であるのかを知ることは大切なことです。イスラエルの人々はよく分からないけれども、誓ったのではなくて、モーセの口から主のすべての言葉を聞いて、また、モーセが書き記したものを読むのを聞いて、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と答えたのです。特に、二度目の時は、雄牛をいけにえとして献げ、その血を契約の当事者である神とイスラエルの人々に振りかけるという厳かな儀式を伴うものでありました。イスラエルの人々は神様と契約を結ぼうとしているのですから、そこで、動物がいけにえとして献げられ、その血が流されたことはよく分かることであります。レビ記の17章をみますと、こう記されているからです。「生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである」。聖なる神様と罪に汚れた人間は、本来は交わりを持つことはできません。しかし、それができるのは、神様が動物犠牲の規定を定めてくださったからであります。神様は人間が自分の身代わりに動物を献げることによって、その血によって、私たちの命を贖うと定めてくださったのです。ですから、神様とイスラエルの人々との間に契約が結ばれた際に、雄牛がいけにえとして献げられたことは当然のことであったのです。しかし、問題は、その血が祭壇に注がれただけではなくて、その半分がイスラエルの民にも振りかけられたということであります。通常、血は神様が臨在される祭壇に注がれるのですが、この時は、その血の半分がイスラエルの民に振りかけられました。しかも、彼らが、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言った後で、モーセは血を取り、民に振りかけたのです。そして、その血によって、神様とイスラエルとの契約が確かに結ばれたことを宣言したのです。いけにえの血が神様の臨在を表す祭壇とイスラエルの民に注がれることにより、契約は正式に成立いたしました。イスラエルの民はいけにえの血によって贖われ、清められて、今や正式に神の民とされたのです。
9節に、「モーセはアロン、ナダブ、アビフおよびイスラエルの七十人の長老と一緒に登って行った」とあります。この人々は、1節で、遠くに離れてひれ伏すよう命じられていた人々であります。しかし、ここでは、イスラエルの神を見て、食事をしたと記されています。契約を結んだ後でその当事者が一緒に食事をしたことが創世記に記されていますが、ここでは、神様とイスラエルの民の代表者たちが一緒に食事をしているのです(創世26:30、31:46参照)。これはまことに驚くべきことであります。なぜなら、主は他の箇所で、「人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである」と言われているからです(33:20参照)。そのためでしょうか。ここには、神様の御足の下にあるサファイアの敷石についてだけ記されています。また、11節には、「神はイスラエルの民の代表者たちに向かって手を伸ばされなかったので」と但し書きが記されています。神様を見て、飲み食いすることは本来あり得ないことであります。しかし、主はイスラエルの民と契約を結ぶことによってそのような交わりを実現してくださったのです。イスラエルの民の代表者たちと食卓を共にすることによって、御自分の契約を確かなものとしてくださったのであります。
今夕の御言葉を読みまして、多くの人が、イエス様が主の晩餐の席で弟子たちに語られた御言葉を思い起こされたのではないかと思います。イエス様はぶどう酒の入った杯を取り、感謝の祈りを唱え、弟子たちに渡してこう言われました。「皆、この杯から飲みなさい。これは罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」。神様とイスラエルの人々がシナイ山で契約を結んだとき、雄牛の血が流され、その血によって契約が結ばれました。しかし、イエス様は御自分の血を十字架で流すことによって、私たちを神の民として贖い、清めてくださったのです(一ヨハネ1:7参照、ヘブライ9:11~22参照)。私たちは主の晩餐において、イエス様の肉であるパンを食べ、その血であるぶどう酒を飲むことによって、そのことを確かなものとしていただいているのです。今夕の御言葉に、イスラエルの民の代表者たちが神様の臨在のもとで食事をしたことが記されておりました。私たちも主イエス・キリストの臨在のもとで食事にあずかるのです。そこでいただくのは、ひとかけらのパンと一口のぶどう酒でありますが、その食事は、主イエス・キリストが聖霊において臨在してくださる主の晩餐なのです。そして、イエス様が再び来られる日に、私たちは神様と顔と顔を合わせてお会いすることができるのです。足の下の敷石を見るのではありません。神様の御顔を仰ぐことができるのです(一コリント13:12、一ヨハネ3:2、黙21:3参照)。